インマヌエル沼津キリスト教会

Immanuel Numazu Christ Church
沼津市今沢34番地

恵みの証し(2017.5.7 礼拝)

2017-05-08 11:29:44 | 教会員の証し
恵みの証し(2017.5.7 N2姉)


 「救いの恵み」を受けて49年、2年後には主が許してくださるなら、結婚50年目を迎えます。婚約して結婚までの半年間、ひと月に1回のペースで主人の家に行く事になりました。ノン・クリスチャンの家で育った私をクリスチャンホームに馴れさせる為だったと思います。主人の両親と私たち二人を入れて、4人で夕食後、家拝をしてその後お茶を飲みながら雑談をする程度ですが、ある日、主人の父から「結婚相手やその家族が天国へ行けるから自分も大丈夫...と思ってはいけないよ!」と言われました。まだ救われて1年にも満たない時でした。その時は、どうしてそう言う事を言うのか理解できませんでした。何だか、チョット淋しくなった記憶があります。
 ここで、50年近くの信仰生活の中での小さなエピソードを二つお話させて頂きます。
 ある日の夕方、近所の小学生のお子さんを持つお母様方4、5人が我が家に来て言う事には「放課後、学校から帰って来て、家の前で遊んでいると、5年生の男の子が乱暴な事を強要して来る」と言うのです。例えば、石当てごっこをやれとか、ブロック塀の上を歩けとか..。ブロック塀の上には飾りで瓦が載せてあり、グラグラ動きます。命令した男の子は登校班の副班長で、うちの娘は6年生で班長でした。一緒に遊んだことは無かったのですが、班長だから一緒に来て欲しいと言う事でした。男の子の親御さんは、その子を溺愛していて、年上の男の子に泣かされると怒鳴り込むと言う話を聞いていましたし、目の前のお母様方が感情的になっているのを見て困ってしまいました。そこで「お話はよく分かりました。どうでしょう、私一人で行かせてもらえませんか?」と言ってしまいました。そう言っては見たものの、考えがある訳でもありません。その家に行き、呼び鈴を押す前「神様、私に知恵と力を、そして言葉を与えて下さい」と必死にお祈りしてから呼び鈴を押しました。今となっては何を話したかはハッキリ覚えていませんが、何故か落ち着いて、ゆっくり話せました。そして「何よりも怪我でもさせたらお互いに大変な事になる」と伝えました。その子の親御さんは「そうだったの。すぐ注意して止めさせます!」と約束してくれました。外に出たとたん「神様有り難う御座いました」と祈り、それぞれのお母様方に報告して回りました。とても安心して喜んで下さった事を覚えています。
 それから、もう1つのエピソードは、沼津に越して来て、認知症を患った実家の母と1年2ヶ月ほど一緒に生活した時の事です。
一年を過ぎた頃、母が風邪を引き、お薬をもらって、1週間ほど様子を見ていましたが、熱もなく、本人も行きたいと言うのでデイサービスに行きました。帰って来て、係りの方から「今日はいつもより元気がなく、食欲も無かった。」と報告を受けました。ソファでテレビを観ていた時、急に気持ちが悪いと言い出しました。ちり紙を口に当て、ビニール袋で口を覆った途端に吐血して気を失ってしまいました。主人に救急車を呼んでもらい、動揺していた私は「神様、母を助けて下さい。私に力を与えて下さい」と祈りました。保険証とお薬手帳を準備し、救急の方に状況を説明して病院に向かいました。途中、血圧がドンドン下がり、ずっと祈っていました。病院に着いた時、医師から「吐血の量はどの位でしたか?」と聞かれ、なぜか握っていたビニール袋を差出し「これが全部です」。すると「あ! 助かります」と言ってすぐに処置して下さいました。
それから2週間の入院で、退院する事が出来ました。
 教会の先生をはじめ、教会の皆様の篤いお祈りを頂いて感謝しています。有り難うございました。
 この様に小さい事、大きな出来事か分かりませんが、不安な時、苦しい時、嬉しい時、楽しい時、どんな時も、日々神様を仰ぐことが最近特に多くなりました。時々、冒頭の主人の父が言った言葉を思い出しています。今では「個人的に神様との関係を確立させなければいけないよ!」と言いたかったのだと思っています。
 4人で始めた家拝も、多い時期は6人。そして最近は2人になりました。
 今、心にかよっている聖言は イザヤ58章11節です。

「主は絶えずあなたを導いて 焼けつく土地でも あなたの思いを満たし あなたの骨を強くする。
 あなたは 潤された園のようになり 水のかれない 源のようになる。」

 お証の機会を感謝いたします。有り難う御座いました。
コメント

恵みの証し(2017.4.2 礼拝)

2017-04-13 08:48:23 | 教会員の証し
恵みの証し(2017.4.2 N姉)

 礼拝の中で、お証をさせて頂くので少々緊張しています。イエス様が近くにいらして、助けて下さることを感じながら、恵みの証をさせて頂きます。
 皆さんもお読みになっていらっしゃると思いますが、インマヌエル教報3月号の「拡げた翼」の巻頭言に、蔦田敬子先生がお書きになった文章の中で「キリストという御方を私の救い主して知らせていただいた恵みを、世界中のすべての方が福音を必要としているという事実を、もう一度、ご聖霊の光の中で深く思わせていただきましょう。」と記された箇所が心に留まり、思いめぐらしておりました。

 救い主は自分で見つけたのではなく、知らせて頂いた
 世界中の人々に必要な知らせ
 人の心に届くのには、聖霊の光/働きが欠かせない..と。

クリスチャンには当たり前の事ですが、信者でない方々には不可解に聞こえるでしょうか。

 私が信仰に入った事から、お話ししたいと思います。
 38年前、まだ教会が現在の場所に移る前、髙沢町に在った時に教会に通い始めました。すぐに牧師先生から神様の話、罪の話、救いの話など個人伝道受ける様になりましたが、「神様を信じる」と言う事がどうしても理解できませんでした。そんな時、初心者向けの伝道新聞を手にすることが出来ました。読んで行くうちに、私の疑問に分かり易く答えてくれる記事に遭遇しました。ここに恵みと導きがあったのだと思います。
 それ以来、神様が私を捉えて下さると言う事を信じる事が出来、聖書の言葉が素直に心に入って来るようになりました。迷わず洗礼を受けました。
 問題・課題は色々ありますが、イエス様を信じる信仰に立たせて頂いて居る事の幸いを味わっています。
コメント

恵みの証し(2017.3.5 礼拝)

2017-03-13 09:39:43 | 教会員の証し
恵みの証し(2017.3.5 T姉)

 今日までの恵みと導きを思い返しますと、九州に転居した事からかなと思います。
 私が生まれたのは横浜でした。若いころは教会に行こうとは思いませんでした。
 主人の転勤で北九州に転居して、新しい土地に慣れるのがやっとだったのと、九州は温かい所と思っていたのに、意外に寒いのに戸惑いを感じました。
 転居先の近くに教会があり、先生と挨拶を交わすようになり、集会に誘われるようになりました。その頃、孤独を感じ、子育てに悩んでいたりしていましたので、行ってみる気になりました。いつしか求める様に気持ちが変わって行き、個人伝道を受けて

「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)

の御言葉を頂き、御救いを頂きました。
 10年ほど九州に住んでいましたが、教会学校のお手伝いをさせて頂くようになり、我が家でクラスを持つようにもなりました。そんな時、娘が交通事故に遭って大怪我をしたり、又家庭問題でも悩むようになりました。ちょうどその時、

「私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです。」(ピリピ3:13~14)

の聖書の御言葉を与えられ励ましを頂きました。
 その後関東に転居し、茅ヶ崎にある教会に通うようになりました。そして教会のご奉仕にも加えて頂くようになりましたが、間も無く、娘の家族と同居する事になり引っ越して、沼津教会にも通うようになりました。この事にも、不思議な神様の導きを感じています。
 今、与えられている御言葉は、詩篇136篇1節~4節です。

「神に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。
 神の神であられる方に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。
 主の主であられる方に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。
 ただひとり、大いなる不思議を行われる方に。その恵みはとこしえまで。」

 お証しの機会を与えて頂き、感謝致します。
コメント

恵みの証し(2017.2.5 礼拝)

2017-02-13 07:08:26 | 教会員の証し
恵みの証し(2017.2.5 K姉)

 日々の歩みを振り返り、イエス様に導かれている恵みに深い感謝が溢れます。教会の皆さんのお祈りにも、いつも有難く感謝しています。
 インマヌエル沼津キリスト教会の歩みが、今年50周年となりました。

 「この第50年目はあなたがたのヨベルの年である。」(レビ25:11)

の御言葉に、安息の年の恵みを感謝しております。さらに

 「あなたがたは、世界の光です。」(マタイ5:14)

のみことばを仰ぎつつ、すばらしい会堂建設の斗かいにも参加させてくださる恵みも深い感謝でおります。
 今年、私は85才となり、目や耳や、体力等の弱さが増しつつありますが、自立生活の許される間は、礼拝出席の恵みを仰いで、励んで参ります。
 日々の恵みには、毎朝の聖書通読時に、深い大きな恵みを感謝しています。旧約聖書創世記の1章から、新約聖書のヨハネ黙示録22章の間をとばさないで、1章ずつ、ゆっくりとマイペースで、3年3ケ月ずつの繰り返しで御言葉を読んで、イエスさまを仰いでいます。教団発行の「つばさ」誌の日々のみことばも共に読み、「祈りのネットワーク」を開き、お祈りしています。
 現在、心に留まっている御言葉を紹介させて頂きますと...

 「神の恵みによって、私は今の私になりました。」(Ⅰコリント15:10)
 「生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです」(ローマ14:8)
 「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」(Ⅱコリント4:16)
 「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(Ⅱコリント4:18)

などですが、特に、心の目が開かれた恵みの御言葉として

 「神は霊です...」(ヨハネ4:24)

 永遠への恵みを与えられた御言葉として

 「御霊による思いは、いのちと平安です。」(ローマ8:6)

 繰り返し暗唱しながら恵みを頂いている御言葉は、詩篇23篇です。

 「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
  主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
  主は私のたましいを生き返らせ、聖名のために、私を義の道に導かれます。
  たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。
   あなたが私とともにおられますから。
    あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
  私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。
   私の杯は、あふれています。
  まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。
   私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」

 愛唱歌を挙げますと、教会福音讃美歌から

 413番「望みも消えゆくまでに 世の嵐に悩む時 数えて見よ主の恵み 汝が心は安きを得ん」
 312番「主と共に罪に死に 主と共に生かされて やがて主の輝きと 主の愛に包まれる」
 367番「神なく望みなく さ迷いし我も 救われて主を誉むる 身とは せられたり」

 お証しの機会を与えて頂き、有り難うございました。
コメント

恵みの証し(2016.10.2 礼拝)

2016-10-11 09:27:53 | 教会員の証し
恵みの証し(2016.10.9 Y姉)


 この度、礼拝で証をするようにと先生から言われました。
 どんな事を証すれば良いのかと先生にお尋ねしたところ、神様の恵みを感じた事を証する様にと言われました。
 最近、礼拝の時の献金の感謝のお祈りをする順番に入るように言われました。
 礼拝での先輩方のお祈りを聞いていると、私にはとても出来ないなと思いましたが、うまくできるようにお祈りしました。すごく緊張しましたが、イエス様に励まされながらお祈りの当番に当る事が出来ました。でも、礼拝でのお祈りは、緊張します。
 礼拝でお祈りする様になってから、職場でもいろいろ新しい、難しい仕事が回って来るようになった気がします。そんな時、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい」(Ⅰテサロニケ5:16~18)を思い出して祈ってから始めます。
 最近、職場の話し合いの時、教会の様子を話す事が出来ました。聞いてくれた皆は、教会の印象が変わったと言ってくれました。
 この様な事が、恵みを感じた事かなと思います。
コメント

母の日礼拝での証し(T2姉)

2015-05-25 04:09:46 | 教会員の証し
母の日礼拝での証し(2015.5.10 T2姉)

 今日は母の日礼拝と言う事で、お証の機会を与えられて感謝です。
 この季節になると、いろいろな所に美しい花が咲き、緑も美しく、神様の御業の素晴らしさを感じ、「地には花が咲き乱れ、歌の季節がやってきた。山鳩の声が、私たちの国に聞こえる」(雅歌2章12節)を思い起します。
 私は、2007年12月に洗礼を受け、7年が経ちました。それが長いのか、短いのかわかりませんが、やっぱり私にとって、7年も経ってしまったのに、こうして皆様の前に立って、お証し出来るような者にはなっていないと、反省ばかりです。
 私が、物心ついてから一番辛かった事は、高校1年生の時、1才下の弟が白血病で亡くなったことでした。その悲しみが癒えないうちに、高校3年生の大学受験も近くなった時、小学6年生から7年間、文通を続けていた友人が交通事故で亡くなりました。この二人の死は多感な年ごろの私にとって本当に辛く、ショックで、人の死について考えるようになりました。
 東京で大学生活を送り始めた頃、父親が保証人となった人が倒産して、父が借金を背負ってしまい、私は奨学金とアルバイトですごす貧しい生活に追い込まれました。青森出身の友人のところに送って来たりんごを貰い、それをかじって1日を過ごすような生活でした。
 お金が無いので、大学の寮に入りましたが、そこで創価学会の人と出会いました。皆さんすごく勉強していて、人間的にも素晴らしい方々で、私も一緒に勉強したのですが、なにか違和感を覚え、入信しませんでした。
 結婚して夫の郷里の宮城県の石巻で暮らすようになり、二人目の女の子が生まれましたが、その子には色々な障害がありました。同じ団地の人で、ものみの塔に入っている人と知り合いになり、エホバの証人の勉強をはじめました。
 間もなく、沼津に引っ越しましたが、こちらでもエホバの証人の勉強を続けました。でも、やっぱり、何かシックリ来ない感じがしていました。
 次女に障害がある事が判って、毎日死ぬ事ばかり考えていた時期に、イエス様と出会えていたなら、もっと楽に生きられたのではないかと思ったりしましたが、今、振り返って見て、この苦しい時期も神様の深いお考えによるものだったのではないかと考えるようになりました。
 沼津教会の近くに越して来て、三女が小学校に入る前、沼津教会の廣瀬善子先生から「これから厳しい社会の中で、障害を持ったお子さんを育てながら生きて行くのに、神様を知ることはとても良い事だと思うから、お子さん方を教会学校に参加させたら如何でしょう。」と進めて頂きました。三女は教会学校が好きになり、6年生まで休むことなく出席しました。本当に素晴らしい事でした。三女は私には言いませんでしたが、「お母さんが教会へ行きますように」とお祈りしていると教会の先生には言っていたそうです。
 私は、毎日の生活の中でなにか不安で、確かなものが欲しいと思っていました。しかし、私が生きて行くのには、自分が正しいと思う事を基準にして来ました。
 教会の先生と聖書の学びを始めて、ヨハネ3章16節「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためである」と言う聖句を知り、とても気持ちが楽になり、洗礼を受ける決心をしました。
 今日は母の日と言う事ですが、母親だれしも同じだと思いますが、子供は皆それぞれ可愛いのですが私の3人の娘にも夫々個性があり、話題も違います。教会の話題が通じる三女とはよく話します。ある時、高校生の時だったと思いますが、「お母さんが死んだ後、お姉チャンは施設に入るのかな」と話をした時、三女は「私が一緒に暮らすから」と言ってくれました。三女は大学もミッション系を選び、卒業して社会人になりました。現在は土日が出勤の業務なので教会出席は困難な様ですが、最近も「自分がお姉チャンと一緒に暮らす」と言ってくれました。小さい頃から教会学校に通い続け、聖書の言葉、神様が心の中に居て下さるのだと思っています。
 いま、障害をもつ次女は、私達夫婦、家族の生きる力になっています。この子の純粋な生き方は、イエス様に一番近いのではないかと思う事が有ります。
 4年前になりますが、3.11東日本大震災が起きた時、夫の実家があり、7年間暮らした石巻も大きな被害に遭いました。心配でしたから、1ヶ月程過ぎて、夫と三女と3人で車で行く事になりましたが、その時、教会の皆様から心温まるご支援の物資などを頂きました。私のまわりで、このようにして下さったのは教会の方々だけでした。
 自分の事だけで精一杯の今の世の中で、神様の教えを学び、聖書のみ言葉に従い、思い遣りの心を持った、教会の方々の様な人たちが増えていったら、とても素晴らしい社会になると思います。
 この様な証の機会、振りかって見る機会を与えられ、いろいろな場面で神様の導きが在った事を知らされました。大きな神様の摂理の中で生かして頂いて、ここまで来ることができました。これからもいろいろな事があるかも知れませんが、私を愛して十字架に架かって下さった神様の愛を信じて信仰の道を進んで行きたいと思います。そして、沼津教会の方々に出会えた事も、とても感謝です。まだまだ未熟な私ですが、これからもよろしくお願いいたします。
コメント

救いの証(T姉)

2014-11-03 20:07:14 | 教会員の証し
救いの証(2014.10.19 T姉)

 私がキリスト教に出会ったのは、夫の転勤で九州小倉に移住した時です。前田牧師の妹さんが少し遅れて隣りに越してこられ、家庭集会に出席するようになってからです。はじめは、会社のお付き合いのつもりが、月一度の婦人集会にも出席する様になっていきました。
 実家では父が高尾山を信じておりまして、1日と15日にはいつも赤飯を炊いてお供えし、年男の時などは裃などを着て豆まきをしていたのを覚えています。母の方は、天理教を信じておりましたので、天理の集まりにはいつも連れて行かれました。ですから信仰に対してはあまり抵抗が有りませんで、キリスト教会にも何の抵抗もなく導かれたのだと思いますが、神様は娘の交通事故と言う試練を与えられ、試みられました。それでも薄い信仰に、神様は心の柱となっている夫もはずしてしまい、また、息子も癌で亡くし、今は本当に、神第一、神様の御心が心の支えです。
 目まぐるしく襲ってくる苦しみも、先生はじめ教会の兄弟姉妹、その他大勢の方々のお祈りに守られ、また神様の恵みに生かされていると感じるこの頃です。本当に感謝です。
 「主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする者に対して、腹を立てるな」(詩篇37篇7節)
 この様に居る事が出来るように心がけています。感謝。
コメント

暑い夏に思う事(N兄)

2014-08-01 00:07:42 | 教会員の証し
暑い夏に思う事(2014.8.1 N兄)

 今年も暑い8月。広島、長崎に原爆が投下され、戦争が終わってから69年だそうです。
 1945年8月、私は4才。当時の記憶は定かではありません。数十年前のある日、母と姉が戦争の事を話しているのを傍らで聞いていて、二つの情景が思い浮かび、もしかしたら私の戦争体験に関係があるのかと思い、話して見ました。
 一つ目は、暗闇の中に身を潜めて、大火事のような恐ろしい光景を見ていた。
 二つ目は、埃が立ち込める中、薄らと見える人影が声もなく皆同じ方向へ歩いて行く。
 母と十才年上の姉に依ると、それは終戦の半年前、3月の東京大空襲の時の記憶だろう、と言うことでした。二人の話によれば...
 当時我が家は、東京日本橋に住んでいた。深夜、空襲警報のサイレンで起こされ、予ねて打ち合わせの通り、姉は三才半の私を背負い避難所へ。父は町内の見回りに。母は貴重品を取り纏めてから避難所へ。夫々別行動。避難所は当時数少ないコンクリートの建物で、既に多数の人々が詰めかけていた。遅れて到着した母となんとか中へ入ったが、忘れ物を思い出したのか、母は我が家へ取って返した。その途中、目の前に爆弾が落下し、腰を抜かす程の衝撃を受け、這うようにして避難所へ引き返した。幸いにも落下した爆弾は不発弾だった様だ。避難所は満員になり、周りの民家は火に包まれた。建物の管理人は、避難して来た人々全員を外に出してしまった。姉は建物の風下に周り、弟の私に毛布を掛けて降りかかる火の粉を防ぎ、母の到着を待った。掛けられた毛布の隙間から見えた光景が私の記憶に残ったのか。火の粉に追われるように、大川の辺まで移動した。我々を探し当てた父は、実戦の経験から、ここが風下であり危険だと気づき、家族を引き連れ、強風の中を風上へと移動した。夜が明けるころ、黒煙と異臭が漂う中、難を免れた人々は焦土と化した街を脱出しようと歩きだした。東京郊外で鉄道が折り返し運転を始めたとの話を聞いたので、我々も父の生家を頼るべく、その駅まで行ってみる事にした。
 埼玉の親戚にお世話になったが、大空襲の夜は庭で新聞が読める程南の空が明るかったそうだ。何とか東京に家を借りて移住し、姉は女学校の商業科を卒業し就職。規範として教えられて来た事柄が崩れ去り、新しい時代に人生の価値を問う娘。混乱の最中、威厳を維持しようとする父。価値観の大転換に悩む家族に不協和音が響き始める。勤めからの帰りが遅くなった娘を注意した父は、娘の反撃に悩む。この様な応酬が繰り返されたある日の事、いつもの小言をこの日の娘は正座して聞いたと言う。これには父の方が驚いた。キリスト教会の集まりに参加して帰りが遅くなったと娘は詫びた。親の忠告より娘の心に響いたキリストの言葉とは何。父も教会に興味を持つ様になり、間もなく洗礼を受けた。暗い毎日を酒で紛らわしていた父は、酒の力を借りなくても明るい人に変わった、と。

 その後、母も洗礼を受け、10歳の私も教会に連れて行って貰える様になりました。教会が楽しいと言うより、電車に乗れる事、たまには動物園に寄り道できる事が楽しみだったからです。当時最高の楽しみは、メンコでした。近所の友達と勝負をするのですが、最初のうちは負けてばかり。小遣いが足りなくなると、こっそり母の財布から拝借し、見つかって叱られた事がありました。徐々に強くなって、“千枚達成”を目標にするようになり、達成の日が近づいていました。
 母が洗礼を受けてから、母と二人で聖書を読む事が習慣になっていました。その日読んだ聖書の箇所は「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。」でした。「イエス様に愛されていながら、あなたは悪い子でいていいのか?」と問われたような気がして、母の祈りの後、「イエス様ごめんなさい」と祈りました。私の初めての祈りです。翌日、机の中の過半を埋めていたメンコを全て捨てました。不思議と、惜しいと言う気持ちは起こりませんでした。
 聖書を読んで教えられる、日曜毎の礼拝メッセージで恵まれる。私にとって、今でも変わらない大切な習慣です。
コメント (2)

家族伝道のお証し(2013.9.8 礼拝)

2013-10-15 08:49:48 | 教会員の証し
「家族伝道のお証し」(2013.9.8 K姉)


 「わたしが道であり 真理であり いのちなのです」ヨハネ14:6

 主人は、息子を教会へ連れて行くことは望んでおりました。が、23年間の結婚生活の中で、私の教会生活は黙認しておりました。主人自身は教会には関心がなく、長い間ずっと敬遠しておりました。私が部屋でお祈りしているのを、主人にけなされた時には涙が出た事もありました。
 そのような主人を当時の牧師先生は、教会に親しみを持てるようにと心を砕いて下さり、何度か訪問して下いました。当時は自転車で、遠い道のりを函南町まで来て下さっても、主人は奥の部屋に入ったまま、お会いしませんでした。そして、祈祷会や礼拝の出席の日には、帰宅が少しでも遅くなるとすごく怒るようになり、とても辛い日々がありました。しかし私は、会社のお休みの日には私と息子はいつも留守をして淋しかったのだなあと、今は思っております。
 その頃に始まったテレビのライフ・ラインの番組は、とても気に入って楽しみにしておりました。沼津の教会だけではなく、全国に自分の様な初めての人達もいるのだと判って、心を開くようになって来ました。私はこの番組が始まった事が本当に有り難かったです。今も静岡県では第1テレビ(4チャンネル)で土曜の朝5時ですが、続けられており、感謝の支援をしております。
 それからは、野外礼拝や富士霊園で行われていた召天者記念礼拝等に出かける様になり、一度は神学院で行われた林間聖会、その次から変わった御殿場の東山荘での林聖には毎年泊りがけで、家族で行くことが出来ました。甲府教会や島田教会の献堂式にも親子3人で出席しました。庭の植木いじりが好きだったので、教会の前庭につつじやさつきを植えさせていただいたり、たくあんを12月になると1年分漬けるのを、教会用も、牧師先生が主人にさせて下さり、教会の物置で漬けさせていただいたりと、教会に親しませて下さいました。
 主人の会社は、三島市にある工業用の大型ポンプを作る機械製作所で、研磨の仕事でした。50代になった時に肺繊症という胸の病を与えられ、入院は県立病院へとのことで、2回入院しました。1回目は当時、清水市の日本平のふもとにあった県立病院に10カ月入院しました。少し離れていましたが、歩いて行ける所にインマヌエル清水教会がありました。外出許可が出る様になった時に、先に教会学校で導かれ受洗した中学生の息子と家族3人で清水教会の礼拝に出席しました。その後、私は知らなかったのですが、主人は一人で何回か清水教会へ出席して、いつも決まった席に座っていたと先生が息子に話して下さいました。
 その頃、主人は車で教会出席できるようにと願うようになりまして、運転免許取得を何回か、50代の頃がんばりましたが、とても困難でした。そうして、今度は私に取るように言われましたが、とても決断出来ないでいました。清水の病院から退院した後、私が49歳の時でしたが、朝の通読の時に、ルカ伝19章31節の御言葉が「主がお入り用なのです」と心に深く鮮明に語られて、さっ!!と立ち上がらせて下さいました。早速、学びに入りましたが、実技も学科も難しくて、教会で祈っていただきながら、8カ月掛けてようやく運転免許を取得させていただきました。それからは日曜日の朝は私が教会学校の奉仕のため早く出発するので、帰りだけは車に乗れると言って主人は私の後から一人で函南町から電車と沼津駅からのバスを乗り継ぎながら、殆ど毎週教会へ出かける様になりました。
 5年後に再発した2回目の入院の時は、県立病院が移転して静岡市街の北の方の清静バイパス近くに大きくなっていました。入院後1か月程した時に家族の呼び出しがあって、今後6日間が山なので、家族が付き添っていて下さいと言われました。20歳になっていた息子に一人で留守番をさせ、自宅で開いていた手編み教室も大急ぎで長期のお休みにして次の日から病院へ泊まり込みました。主人は、この入院をした時、今度退院したら教会へ行って洗礼を受けると話していましたので、私は急いで、今すぐ受洗するようにと示され、牧師先生にお願いして、病床洗礼を受けさせていただきました。私は付き添い用の折り畳みベッドを借りて、受洗して平安なクリスチャンになれた主人と二人で過ごす時を与えられて、深い恵みの病院生活を心一杯感謝しました。受洗後40日目の朝1時頃、眠るように召されました。今から27年前の1986年11月10日、60歳でした。
 入院中には、静岡教会の先生も来て下さり、枕元で祈って下さいました。召される4日位前には、イエス様が外から戸を叩いて下さる、ハガキ大の聖画の額を頂きました。「見よ。わたしは戸の外に立って叩く。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは彼のところに入って…」(黙示録3:20)の御言葉のイエス様の絵を、主人はとても喜んで、足元の壁のさんに掛けて欲しいと言って、すぐに掛けました。主人は見上げながら、イエス様が、部屋の中を歩いておられるとも話しておりました。私は、病室に詩篇23篇の御言葉を、良く見えるように少し大き目にボール紙に書いて枕元の壁に張っていましたが、婦長さんが病室に来られた時に「私は浜松の三方が原のキリスト教の看護学校の出身です」と語っておられました。相談員のワーカーの方とも教会生活のお話が出来ました。後で気づいたのですが、受洗後主人に与えられた命の日数40日は、よく聖書で語られる「40」の数字、荒野の40年間や、イエス様が悪魔に試みられた40日等と同じ「40」の日数だったなあと、不思議な一致でした。
 初め教会を敬遠していた主人を、イエス様が長い間導いて下さいました。私自身の弱い信仰の歩みも共に、計り知れないイエス様のご忍耐によって、御救いを頂きましたことに言い尽くせない感謝が溢れます。その間の先生方や教会の皆さん方に長い間、祈り続けて頂きました。深い感謝を申し上げます。
 現在の家族は、息子、嫁、孫、そして私の4人家族です。毎年、召天者記念礼拝の日には家族全員で教会へ出席できる日ですが、許されて毎週家族全員で出席できる日を祈っております。
 家族伝道の歩みのために与えられている日々の御言葉は「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい」(コロサイ3:23)です。この御言葉によって、心からイエス様にお仕えするようにして、家族に仕えさせて下さっております。イエス様の御手の中を歩む幸いに、感動しております。20歳で受洗して62年ですが、イエス様に心一杯感謝を捧げます。今なお、イエス様の御言葉に鈍感な弱い信仰の歩みですが、これからも生涯、イエス様の門に入らせて下さいますようにと伏して、仰いでおります。
 お証しの時を 有り難うございました。
コメント