インマヌエル沼津キリスト教会

Immanuel Numazu Christ Church
沼津市今沢34番地

2014イースター招待礼拝

2014-04-18 09:10:13 | 特集
2014年4月20日午前10時半~

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目に見えない世界の祝祭(2013.12.24 クリスマス・イブ)

2013-12-24 15:51:58 | 特集
2013年12月24日クリスマス・イブのメッセージ
『目に見えない世界の祝祭』
【ルカの福音書2:8~16】

2:8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
2:13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った。
2:14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
2:15 御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」
2:16 そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。

はじめに
 きょうはクリスマス・イブです。このように教会で皆さんと共にイエス・キリストのご降誕をお祝いすることができる恵みを、心一杯感謝したく思います。

目には見えない御使いたちと天の軍勢
 いま読まれた聖書の箇所には、野宿をしていた羊飼いたちの所に、天から天使たちが降りて来て、救い主のキリストが誕生したことを告げて行ったことが書かれています。
 プログラムに書かれている聖書のことばを、見てください。8節に、

2:8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。

とありますから、これは夜の出来事です。夜番をしていた羊飼いたちの所に天から御使いたちが降りて来て、告げました。御使いとは、天使のことです。少し飛ばして読んでいきます。11節、

2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

 こうして、羊飼いたちに、キリストが誕生したことが告げられました。そして、13節と14節、

2:13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った。
2:14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」

 このように、御使いたちも、天の軍勢も、イエス・キリストの誕生を祝っていました。この様子を、どのように想像したら良いでしょうか。私は、ベートーベンの交響曲第9番の合唱の様子を思い浮かべたら良いのではないかと思います。大編成の天の合唱隊がベートーベンの第九を合唱するようにして、キリストの誕生を祝っています。
 ただし、これは目に見えない世界の話です。御使いたちは羊飼いたちだけに見え、天の軍勢の賛美も、羊飼いたちだけに聞こえました。天の軍勢がすべての人に見える形で降りて来たなら、たとえ羊飼いたちのいた場所が人里離れた所であったとしても、誰かがきっと目撃して、ダビデの町は大騒ぎになっていたことでしょう。それゆえ、この御使いたちと天の軍勢による賛美は、目に見えない世界の話です。

目に見えないものから受ける恩恵
 そんな目に見えない世界のことは信じられない、という人がいるかもしれませんが、私たちの周りには目に見えないものが一杯あって、私たちは、その目に見えないものから多くの恩恵を受けています。
 目に見えない物の例として、たとえばガラスがあります。ガラスは表面に汚れが付いていると見えますが、汚れが無いと、そこにガラスがあることに気付きません。新しい家を建てている現場に行くと、窓ガラスに「ガラス注意」と書いた赤い張り紙がしてあるのを見ますね。新しいガラスは汚れが付いていませんから、非常に見えづらいです。それでうっかり物をぶつけて壊したりしないように、「ガラス注意」という張り紙を張ります。
 私たちに欠かせない空気も、目には見えません。或いはまた光も、赤や紫の光は見えますが、赤外線や紫外線は見えません。でも、赤外線があるから私たちは温まることができ、紫外線があるから、布団を外に乾せば、殺菌をしてくれます。電波もそうですね。ラジオやテレビや携帯電話の電波も目には見えませんが、電波があるから私たちはラジオを聞いたりテレビを見たり、携帯電話で話をすることができます。
 きょうのメッセージの目に見えない世界の話は、そういう電波のこととは違う話ですが、それでも私たちの周りにあるものは、必ずしも目に見えるものばかりではないということは、今の電波などの話でわかっていただけたことと思います。

大切なことは目に見えない
 フランス人のサン=テグジュペリという作家が書いた『星の王子さま』という絵本がありますね。この『星の王子さま』の中に出て来るキツネが王子に言った有名なセリフがあります。キツネは王子に、

「心で見るんだよ。大切なことは目には見えないんだよ。」

と言いました。キツネは王子に大切なことを色々と教えました。それらの大切なことは皆、目に見えないことでした。
 たとえばキツネは「仲良くなる」とは、どういうことかを王子に教えました。「仲良くなる」前は、キツネにとっての王子は、10万人もいる他の男の子と変わらない存在です。また王子にとってのキツネも、他の10万匹もいるキツネと変わりません。しかし、仲良くなると、他の男の子やキツネとは違う、特別な関係になります。キツネから、このことを教わった王子は、自分がいた小さな星に残して来たバラのことを思い出しました。地球に来る前、王子は自分の星にいたバラの世話をすることが面倒になって、ちょっと鬱陶しく思っていました。そのバラはプライドが高くて、自分のようなきれいな花は世界に一つしかないような顔をして、王子にいろいろと自分の世話をさせました。しかし、王子は地球に来てから、たくさんのバラを見たので、なんだ、あのバラはたくさんある同じバラの中の一つに過ぎないじゃないかと思っていました。しかし、キツネから「仲良くなる」とはどういうことかを聞いて、あのバラは、たくさんあるバラの一つではなく、自分にとっては特別なバラであったのだということに気付きました。
 こういう、特別な関係というのは目には見えませんね。この教会に集っている私たちも同じですね。私たちは、目に見えない何かで確かにつながっています。沼津の駅の方に行くと、人がたくさんいます。それらのたくさんの人々は、知らない人ばかりです。でも、それらの人の中に教会の人がいれば、気付きますね。私たちは、他にたくさんいる人たちとは違って、特別な関係で結ばれています。その特別な関係は、目には見えませんが、確かに存在するものです。

目に見えることで争う私たち
 私たちの世界の争い事は、目に見える世界のことで争うことが多いのではないでしょうか。たとえば、隣の国との領土問題などがそうです。目に見える島という領土を巡って、「この島はオラっちの国のモノだ」、「いんや違う、オラっちの国のモンだべ」という争いをします。お隣の国とは、たくさんの交流があり、目に見えないつながりがたくさんあるのに、目に見えるもののことで、争い、やがて戦争に発展したりします。私たちが目に見えない大切なことの大切さに気付くなら、私たちはもっと仲良くなれるはずです。
 2006年に日本で公開されたヨーロッパの映画で、『戦場のアリア』という映画がありました。この映画は実話が基になっていて、第一次世界大戦でスコットランドとフランスの連合軍がドイツと闘っていた時の話です。この時、戦場では過酷な戦いが続いていました。しかし、せめてクリスマスの時ぐらいは休戦しようということになり、その戦場では、両軍が向かい合う最前線において、ある声楽家の女性が歌を歌いました。それをきっかけにして、クリスマスを祝う気分が高まり、何と、少し前まで銃撃し合っていた敵同士が杯を酌み交わすようにもなりました。戦争を鼓舞するのは、安全な場所にいる国の為政者たちであって、最前線で戦う兵士たちは別に戦いたいと思っているわけではないのですね。これらのヨーロッパの国々は、みなキリスト教国ですから、クリスマスに休戦をして、共にイエス・キリストの誕生を祝うことができました。しかし、クリスマスを過ぎると、また戦いが始まりました。イエス・キリストを信じるという目に見えない世界のことでは一つになれたのに、目に見える世界のことで、またしても争いを繰り返すのです。
 目に見える世界では、どうしても時間の順番が問題になります。「以前は、その島はオラっちの国のモノだった」と片方が言えば、「いんや、その前の前はオラっちの国のモンだった」ともう片方が言い、そうすると今度はまた、「その前の前の前はオラっちの祖先がそこにいたんじゃ」、という話になります。

目に見えない世界では昔も今も同じ
 このように、目に見える世界では、どうしても時間の順番が関係して来ます。鏡で自分の顔を見ると、年とともに髪の毛がだんだん無くなり、また髪の毛が残っている部分でも黒かったのが白髪になり、皮膚もたるんでシワが増えて行くのがわかります。しかし私は鏡を見なければ、年を取ったことを鏡を見た時ほどには感じません。鏡を見ない私は、昔も今も同じ時間の中を生きています。或いは同様のことは、自分の姿だけでなく、町の姿についても言えます。昔はもっとビルが少なくて自然が多かったのにと、今の町の姿を目で見れば思います。しかし、目をつむって昔を思い出すなら、私の心は昔の町に戻って、その中にとどまることができます。
 目に見えない世界では、そのように時間に縛られることはありません。自分が生まれてから以降の時代だけでなく、聖書の時代にも自由に行き来することができます。イエス・キリストが生まれたのは二千年前だという考え方は、目に見える世界に支配されている人の考え方です。目をつむって聖書の時代のことを思い巡らすなら、私たちは二千年前にも自由に行き来することができます。神であるイエス・キリストにとっては昔も今も同じですから、私たちもまたイエス・キリストに心を寄せるなら、何千年前の昔であろうと、今の事柄として思い巡らすことができます。

二千年前ではなく現代に生まれたキリスト
 キツネは星の王子さまに言いました。

「心で見るんだよ。大切なことは目には見えないんだよ。」

 大切なのは目に見えるものではありません。心に見えることこそが大切なことです。野宿をしていた羊飼いたちの前に現れた御使いたちは、とても大切なことを、告げています。

「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2:11)

 キリストは、私たちが一つになることができるように、この世に来て下さいました。それは、二千年前の事柄ではなく、現代の事柄として私たちは受けとめるべきです。私たちの世界では、今も争い事が絶えませんが、それは私たちが目に見える事柄に囚われ、支配されているからです。私たちのために生まれたイエス・キリストを心の中に迎え入れるなら、過去の経緯に囚われることなく、昔も今も同じ時間の中にあります。皆が昔も今も同じ時間の中にいる時、ここは私たちの国の領土だという考え方も存在しません。昔は誰の領土でもなかったのですから。そうして私たちは一つになることができるでしょう。

おわりに
「心で見るんだよ。大切なことは目には見えないんだよ。」

このことを噛みしめるなら、天の軍勢が、

「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」(ルカ2:14)

と賛美したように、私たちの世界には平和が訪れます。
 今夜のクリスマス・イブ、そして明日のクリスマス、私たちに平和をもたらすために、この世に生まれて下さったイエス・キリストに心を寄せつつ、この素晴らしいクリスマスの恵みに心一杯、感謝したく思います。
 お祈りいたしましょう。
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クリスマスは教会へ

2013-12-24 10:30:41 | 特集
クリスマスのこの期間、ぜひ教会へお出掛け下さい。→チラシを見る

12月15日(日) クリスマスさんびの集い(会場:千本プラザ)午後2時~
12月22日(日) クリスマス礼拝(会場:インマヌエル沼津教会)午前10時半~
12月24日(火) キャンドル・サービス(会場:インマヌエル沼津教会)午後7時~
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永遠のいのちと滅び(2013.12.15 クリスマスの集い)

2013-12-16 10:13:15 | 特集
2013年12月15日クリスマスの集いメッセージ
『永遠のいのちと滅び』
【ヨハネの福音書3:16】

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

はじめに
 きょうは、このクリスマスの集いに、ようこそ、お出で下さいました。
 何日か前に沼津駅の南側にある仲見世のアーケード街を通ったら、クリスマスの飾り付けがしてあって、クリスマスの曲が流れていました。私はまだ沼津に来てから1年目で、沼津でクリスマスの時期を過ごすのは初めてですが、沼津の街もクリスマスの飾り付けがしてあるのを見て、とても楽しい気分になりました。

世界中で祝うべきクリスマス
 クリスマスはキリスト教の行事だから、クリスチャンではない日本人には関係が無いと言う人もいますが、私はそんなことはないと思います。クリスマスは世界中の人が祝うべきだと思います。
 きょうのプログラムには、英語でMerry Christmasと書いてありますね。クリスマスの英語のChristmasを分解すると、Christ とmasになります。Christというのはキリストですね。そしてmas(s)というのはミサのことです。
 キリストは救い主です。キリストは私たちを救うために、この世に来ました。救いの対象は世界中の人々です。ですから私たち日本人も、もちろん救いの対象として含まれています。それゆえ、救い主キリストの誕生をお祝いするクリスマスは、世界中のどんな人でも、お祝いするのが、ふさわしいことだと思います。キリストを信じるとか信じないとか難しいことは言わないで、キリストが私たちを救うために、この世に来て下さったことを、先ずはお祝いすれば良いのだと思います。とりあえず、よくわからないけど、とにかくお祝いするというのでも、先ずは良いと思います。神さまは祝宴が好きな方ですから、きっと喜んでくださることと思います。
 でも、せっかくお祝いをするのですから、キリストが私たちを、いったい全体何から救うために来て下さったのかを知ることができたなら、なお良いのではないかと思います。それで、これから15分ほど、お時間をいただいて、説明をさせていただくことにします。

大国に支配されていたユダヤの人々
 さきほど、「久しく待ちにし」という賛美歌を歌いました。「久しく待ちにし」の「久しく」は「長い間」という意味で、「待ちにし」は「待っていた」という意味です。二千年前、ユダヤの人々は救い主が来るのを、長い間、待っていました。キリストは、長い間、人々に待たれていたのですね。
 二千年前、当時のユダヤの地はローマ帝国に支配されていました。ローマ帝国の前には、ギリシャに支配されており、ギリシャの前にはペルシャに、ペルシャの前にはバビロニアに支配されていました。バビロニアに支配される前のユダヤは、一応は、独立していましたが、エジプトやアッシリヤという大国にいつ支配されてもおかしくない、不安定な状況の中にありました。
 これは地理的なことも影響していました。中東にあるパレスチナ地方は、アジアとヨーロッパとアフリカの三つの大陸が接している辺りにあり、西側には地中海がありますから、今も昔も多くの人々が行き交う場所です。そういう世界中の人々が行き交う場所で小さな国が独立を保つのは大変なことでした。
 これは日本とはだいぶ、事情が違いますね。日本も小さな国ですが、日本はアジアの東の端っこにある島国ですから、世界の人々が行き交う場所というわけでもなく、大きな国に攻められるということは、ほとんどありませんでした。鎌倉時代にモンゴルに攻められた元寇があったのと、その後は、先の大戦に敗戦して連合国軍に占領された時代があったことぐらいでしょうか。
 このように、外国から攻められることが少なかった日本とは違って、キリストが待たれていたユダヤ地方は絶えず外国から攻められ続け、支配されている中にありました。そのような中で待ち望まれていた救い主とは強い王様でした。外国に支配される心配のない強大な国家を作ることができる、王様としてのキリストでした。
 この地域では、かつてはダビデ王が、そのような強い国を作り上げたことがありました。特にダビデの子のソロモン王の時代には、さらに強大な国になりました。
 ですから、二千年前にキリストを待ち望んでいたユダヤの人々も、ダビデのような強い王様を望んでいたのですね。強い王様に、他の国に支配される心配のない強い国を、もう一度作って欲しかったのですね。

期待以上の素晴らしい贈り物
 そして、二千年前のクリスマスに救い主のキリストが、この世に生まれました。待ち望んでいたキリストの誕生ですから、当時の人々は、盛大にお祝いしたかのかというと、実は、幼子のキリストは、ほとんど人に知られることなく、ひっそりと家畜小屋で生まれ、飼葉おけの中に寝かせられました。当時の人々の大半は、キリストがこの世に生まれたことに気付いていませんでした。生まれてすぐに、お祝いに駆け付けたのは、羊飼いたちだけでした。そして、もう少し後に、東の方から来た博士たちが、お祝いに来ましたが、博士たちも、少しの間そこにいただけで、すぐに立ち去りましたから、大勢の人々にキリストの誕生のことが知られるようなことはありませんでした。
 人々が、ずっと待ち焦がれていたキリストが、遂に、この世に生まれたのですから、二千年前も盛大なお祝いがされたのではないか、私たちはつい、そんなことを考えてしまうかもしれませんが、実はキリストは、ひっそりと、この世に生まれたのでした。
 でもこれは、とても意味があることだったんですね。なぜなら、キリストは、人々が期待していた以上に、もっと大切なことのために、この世に来て下さったからです。自分では思いもよらなかったほどに大切なことというのは、だいたい自分が知らない間に、こっそりともたらされるものです。
 自分が期待して待っていたことは、来た時に、だいたいわかりますね。「お~、来た、来た。」とか、「来たぞ、来たぞ」などと言って、私たちは喜びます。それが期待以上であることもありますが、びっくりするぐらい期待以上に良いなどということは、そんなには無いのではないでしょうか。
 一方、ぜんぜん期待していなかったことで、びっくりするような贈り物をもらうことが私たちにはあります。そういう思いもよらない大きな贈り物というのは、ある時にこっそりと私たちの所に入って来るものです。
 サンタクロースもそうですね。サンタクロースというのは、私たちが寝ている間に、知らない間に来ることになっています。夜通しずっと起きて待っていたら、サンタクロースは来てくれないでしょう。大きな贈り物とは、ある時に、こっそりと私たちにもたらされるものです。
 キリストが生まれたことは、私たちにとっては、そういうびっくりするぐらいに大きな贈り物でした。イエス・キリストは人々が期待していたような、ダビデのように強い国を作る王様ではありませんでした。
 どこが、どう違うかと言うと、平和の作り方の順番がダビデとイエス・キリストとでは、全く逆です。ダビデ王の場合は、まず強い国を作りました。いろいろ苦労しましたから少し時間が掛かりましたが、強い国を作り上げることができました。すると、そういう強い国には、他の国は簡単には攻めて来なくなります。強い国を攻めても負けるだけですから、他の国は攻めて来ません。そうして戦争がなくなりますから、人々は平和に暮らすことができるようになり、人々の心には平安がもたらされます。人々は、平安に暮らしたかったので、そういう強い国を作ることができるダビデ王のような王様をキリストに求めていました。
 しかし、この世に生まれたイエス・キリストは、全く逆の順番で平和を作ろうとしていました。まず、人の心に平安を与えようとしたのですね。そうして、多くの人々の心が平安になるなら、人々は互いに愛し合うようになって、他の国に攻め入ろうとか、戦争をしようという気持ちにはならなくなります。そうすれば、国同士が争うことはなくなり、世界に平和がもたらされます。
 皆さん、これは素晴らしい贈り物だと思いませんか。まず、私たち一人一人の心に平安がもたらされます。ダビデ王の場合は、まず国を強くしました。一方、イエス・キリストは、まず私たちの一人一人に心の平安をもたらします。これは、当時の人々が全く予期していなかった新しい形の素晴らしい贈り物でした。この素晴らしい贈り物が、二千年前のクリスマスの日に、私たち人類に、こっそりともたらされました。

期待はずれのイエスを殺した人々
 そして、このキリストの誕生から30年がたち、大人になったイエス・キリストは、人々の前で、公然と教えを説き始めました。この時、人々は熱狂しました。遂に私たちの救い主が現れたのだと思って、大歓迎しました。エルサレムの町の人々は、「ホサナ、ホサナ」、「主よ、いま救って下さい、主よ、いま救って下さい」と熱狂的にイエスを迎え入れました。
 しかし、やがて人々は、どうやらイエスが自分たちの期待していたような王ではないようだ、ということに気付きました。どうもダビデ王のように強い国を作る王様ではないみたいです。人々はがっかりし、熱狂的に歓迎した反動で、今度は怒りました。期待していた王様とは、ぜんぜん違うじゃないか。こんな奴は殺してしまえ。そうして、人々はイエスを十字架に付けて殺してしまいました。
 キリストは人々を救うために、この世に来たはずなのに、イエスの教えは人々に理解されないで、殺されてしまいました。何だか話がおかしいような気もしますね。でも、実はこの話はおかしくはありません。
 きょうの聖書のことばのヨハネの福音書3章16節の前半には、このように書いてあります。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」

 「ひとり子」というのは、イエス・キリストのことです。イエスは神のひとり子でした。神さまは、私たちを愛していたので、私たちを救うために一人子のイエスを私たちに与えて下さいました。与えるというのは、殺されることがわかっていて、この世に遣わすということでした。イエスは、十字架で殺されるために、この世に生まれて来ました。

弱さを誇る十字架
 なぜ、人々に殺されるのが、わかっていながら、わざわざ、神はこの世にひとり子を与えたのか。それは、人々の心を根本的に変えるためでした。人は、自分が間違っていたと心の底から思うのでなければ根本的に変わることはできません。中途半端な思いでは、変わることはありません。人が根本的に変わるためには、イエス・キリストの十字架での死が必要でした。
 そうして、イエス・キリストの十字架での死後に、まずイエスの周辺にいた人々が、自分たちが間違っていたことに気付きました。そして悔い改め、イエスの教えを理解するようになりました。こうして、イエスの教えを信じた者に心の平安が与えられて行きました。
 これこそが、神が人に望んでいたことでした。私たちの世界に平和がもたらされるためには、強さを誇ったり求めたりするのではなく、むしろ弱さを誇るべきです。しかし、人はどうしても強さを求めたがります。それゆえ、イエス・キリストの十字架が必要でした。十字架は弱さを誇るからです。しかし、弱さを誇ることの大切さに気付いた人々がいた一方で、理解できない人々も、たくさんいました。
 弱さを誇ることが理解しにくいことであることは、現代においても変わりません。それは現代においても相変わらず多くの人々が強さを求め、多くの国々が、強い国作りを目指していることからもわかるでしょう。日本も先の大戦の敗戦後には、武力を持たないという弱さを誇る憲法を持つことで平和な国作りを目指しましたが、今はまた、強い国作りを目指すようになっています。
 しかし、どんなに強い国を作ったとしても、いずれは滅び行くことは、これまでの世界の歴史が示しています。永遠に強い国であり続けることは不可能です。どんなに強い国でも、いずれは滅び、その国民もまた滅びます。神は、それとは180度逆の順序で、先ず人々の心に平安を与え、平和な世界を実現するために、ひとり子のイエスを私たちのこの世に遣わしました。十字架で死ぬことがわかっていながら、イエスをこの世に遣わしました。それは、神が私たちを愛しており、救いたいと願っているからです。

おわりに

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

 強さを求めるのではなく、弱さを誇るキリストに救いを求めるなら、私たちは滅びることのない神の永遠の中へと導かれて行きます。これは私たちにとっては思い掛けない素晴らしい贈り物です。この素晴らしい贈り物を私たちにもたらすために、救い主のキリストはクリスマスの日にひっそりと生まれました。私たちがこの素晴らしい贈り物を受けることができますように、お祈りしたいと思います。
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クリスマスは教会へ

2013-12-04 10:36:15 | 特集
クリスマスのこの期間、ぜひ教会へお出掛け下さい。

12月15日(日) クリスマスさんびの集い(会場:千本プラザ)午後2時~
12月22日(日) クリスマス礼拝(会場:インマヌエル沼津教会)午前10時半~
12月24日(火) キャンドル・サービス(会場:インマヌエル沼津教会)午後7時~

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秋の招待礼拝のご案内

2013-11-07 06:24:03 | 特集
秋の招待礼拝のご案内

2013年11月10日午前10時半~

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あなたがたは何を求めているのですか(2013.11.3 高津教会一泊修養会)

2013-11-04 15:13:55 | 特集
高津教会一泊修養会メッセージ
『あなたがたは何を求めているのですか』
【ヨハネ1:35~39】

35 その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、
36 イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊」と言った。
37 ふたりの弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。
38 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て、言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊まりですか。」
39 イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすればわかります。」そこで、彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を知った。そして、その日彼らはイエスといっしょにいた。時は第十時ごろであった。

はじめに
 きょうは、高津教会の修養会に招いていただいたことを、とてもうれしく思っています。 私はもともと静岡の出身で、今また沼津にいて静岡県民です。そして、この富士箱根ランドは実は静岡県にありますから、私は招いていただいた立場ですが、皆さんには、「静岡へ、ようこそ」と言う立場でもあるな、ということを感じています。
 私が高津教会の近くのアパートを借りて、神奈川県民になったのは、1995年の春のことでした。1995年の春から、東京の大学に勤めることになりましたので、アパートを探しました。その大学に通勤できる距離の場所なら、東京でも神奈川でも、どこでも良かったので、どこに住もうか迷いましたが、何件か不動産屋さんを回って最終的に決めたのが、たまたま高津教会の近くのアパートでした。ですから、私は不思議な導きを感じています。もし、東京スカイツリーがその頃に出来ていたなら、スカイツリーの近くのアパートを借りたかもしれません。ですから、私が川崎の高津に住むようになったのは、本当に偶然のことです。しかし、そこにはやはり、神さまの導きがあったのだと思います。

1.私たちの一人一人に問い掛けるイエス
 きょうのメッセージのタイトルは『あなたがたは何を求めているのですか』です。私は、聖書のことを何も知らなかった時から、イエスさまは、『あなたは何を求めているのですか』と私に語り掛け、その声に導かれて私は教会の近くに住むようになり、やがて高津教会に導かれ、そして伝道者として召し出されて牧師になったのだと感じています。きょうは、私のこのようなお証しを交えながら、イエス・キリストは私たちの一人一人に対して「あなたは何を求めているのですか」と問い掛けでいるのだという、お話をしたいと思います。そして、イエスさまの、その問い掛けに、私たちはどう応答していったら良いだろうか、ということを、ご一緒に考えることができたら、と願っています。
 まず始めに、きょうの聖書の箇所を簡単に見ておきましょう。きょうのタイトルである、「あなたがたは何を求めているのですか」(ヨハネ1:38)は、ヨハネの福音書におけるイエス・キリストの第一声です。そして、第二声が「来なさい。そうすればわかります」(1:39)です。イエス・キリストは、この第一声と第二声のことばを、ヨハネの二人の弟子に対して言いました。
 ヨハネの二人の弟子は、イエスさまから、いきなり「あなたがたは何を求めているのですか」と問い掛けられて、戸惑ったことと思います。これは表面的な願望を聞いているのではなくて、もっと心の奥深い所にある願望を聞いているのだということぐらいは、誰でも直感的にすぐわかることですから、答に困っただろうと思います。私たちは、表面的な願望なら、絶えず頭の中にあることですから、すぐに答えられると思います。たとえば、「もっと、お金が欲しい」とか、「おいしい物を食べたい」とか、そんな類の答でしたら、すぐに頭に浮かびます。しかし、表面的ではなくて、心のずっと奥深い所にある願望を、すぐに答えることができる人は、そんなには、いないのではないでしょうか。
 二人の弟子たちも答に困ったのでしょう、「先生、今どこにお泊りですか?」と、全く答になっていない応え方で、逆にイエスさまに聞き返しました。弟子たちは、自分たちが何を求めているのかを聞かれたのですから、これでは答になっていません。けれども、自分が何を求めているのかを即答できる人は少ないと思いますから、ともかくも、こうやってイエスさまに食い付いて行くというのは非常に良いことですね。一番良くないのはイエスさまを無視したり拒絶したりすることでしょう。これでは、何も始まりません。しかし、たとえ的外れであったとしても、ともかくも二人の弟子たちのようにイエスさまの語り掛けに応答するなら、イエス・キリストは私たちに「来なさい。そうすればわかります」とおっしゃって下さいます。
 イエス・キリストは私たちに「あなたがたは何を求めているのですか」と語り掛け、答に窮する私たちに、「来なさい。そうすればわかります」と私たちを招いて下さいます。そうして、私たちの答探しが始まります。

 きょうは、私の経験がして来た答探しのこれまでの道のりを、四つの時期に分けてお話ししたいと思います。四つの時期の分け方は、

 ①聖書のことをほとんど知らなかった、高津教会に導かれる前の時期、
 ②高津教会に導かれてから神学生になるまでの時期
 ③神学生の時期
 ④牧師になってからの時期

としてみます。
 この四つの時期を通る中で私の聖書についての知識は段々と増して行きましたが、神様から私に注がれる愛は、一貫して変わっていないと感じています。つまり、私が聖書のことをたくさん知れば、神様はご褒美として私をたくさん愛して下さるようになるのではなく、私が聖書のことをどれだけ知ろうが知るまいが、神様のほうでは変わらずに私をたくさん愛して下さっています。ただ私の聖書の理解が進めば進むほど、神様の愛がどれほど大きいものなのか、その広さ、長さ、高さ、深さ(エペソ3:18)が私の中でどんどん増して行きます。これは素晴らしい恵みです。神様の愛の大きさは人知を遥かに越えていますから、全てを知り尽くすことはできません。それでも、私は、その大きさをできる限り知りたいと願っています。

2.奥深い自分の声に耳を傾ける(一番目の時期)
 では、四つの時期の一番目の、高津教会に導かれるまでのことから話を始めます。私が高津教会に導かれたのは41歳の時で、聖宣神学院に入学したのが48歳の時でしたから、一番目の時期が四つの時期の中では一番長いです。この時期は、聖書のことを知りませんから、ヨハネの福音書のイエス・キリストの「あなたがたは何を求めているのですか」という語り掛けの言葉も、もちろん知りませんでした。しかし私は、私を守ってくれている存在がいることは、いつも感じていました。その存在が、ご先祖様の霊なのか、神社の神様なのか、仏教の仏様なのか良くわかりませんでしたが、自分は確かに誰かに守られているということを感じていました。私は高校を卒業して親元を離れて以降、命の危険がある事故に何度も巻き込まれたことがありましたが、大事には至りませんでした。或いはまた学生時代には、いろいろ悩んで勉強が続けられなくなって大学に行かなくなった時期が何度かありました。そして大学の教員になってからも、東京の大学への採用が決まって高津に導かれる前に、一度大学を退職しています。それでもまた、不思議と大学に戻って来ることになるんですね。それで私は、自分が誰かに守られていると感じていました。でも、それが誰なのかがわからないことを非常にもどかしく感じていました。それで、時々、夜に高津のアパートに一人でいる時などに、天井のほうに向かって、「誰ですか?」と聞いたりしていました。これは冗談ではなくて、本当のことです。その頃はまだ教会に一度も足を運んだことがありませんでしたから、自分を守ってくれているのがキリスト教の神様だということは全くの想定外で、そんなことは一度も考えたことがありませんでした。しかし、とにかく自分が守られていることだけは感じていました。
 その頃の私は、30代の前半に出会った『自己愛とエゴイズム』(ハビエル・ガラルダ著 講談社現代新書)という本のことを、とても大切に思っていて、この本に書かれていることを、なるべく行えるようにしたいと考えていました。この『自己愛とエゴイズム』という本は、自分を愛する自己愛はエゴイズムとは違う、ということを示した上で、エゴイズムはダメだけれども、本来あるべき自分を愛する自己愛は良いことなのだということを説いていました。そして本来あるべき自分を愛して生きて行くために、奥深い自分の声に耳を傾けて、その奥深い自分の声に忠実に生きて行くことを勧めていました。私は、この本の、「奥深い自分の声に耳を傾ける」ということに非常に引かれるものを感じましたので、できるだけそのようにして生きて行きたいものだと思っていました。
 この『自己愛とエゴイズム』という本に出会ったのは、私が名古屋の大学に勤務していた時なのですが、実は、この本はカトリックの神父さんが書いたものでした。しかし、聖書のことはほとんど何も書いてありませんでしたから、私はこの本の内容が聖書に関係しているとは全く思っていませんでした。けれども、実は大いに関係していたのですね。いま思えば、この本が勧めている「本来あるべき自分を愛して、奥深い自分の声に耳を傾けること」とは、「イエスさまの声に耳を傾けること」だったのですね。イエスさまは、私たちが気付くずっと前から私たちに声を掛けて下さっています。
 聖書のルカの福音書には、有名な「放蕩息子の帰郷」の話があります。放蕩息子は、父親から離れた遠い国で湯水のように財産を使ってしまった後で、我に返りました。「我に返った」とは、本来いるべき自分の居場所に気付く、ということです。それは父と共にいて、父と共に歩むべきだ、ということに気付くことです。この時、放蕩息子は奥深い自分の声をはっきりと聞いたのですね。父親の家こそが本来の自分がいるべき場所なのだという、この奥深い自分の声とは、実はイエス・キリストの声です。
 私の場合は、『自己愛とエゴイズム』と出会った30代の前半の頃は、イエス・キリストの声がはっきりと聞こえたわけではありません。しかし、奥深い自分の声に耳を傾け、その声に忠実に生きるという生き方に引かれて、そうありたいと願うようになったことで、少しずつ少しずつ、ほんのわずかずつではありましたが、イエス・キリストの声を微かに感じるようになって行ったのだと思います。イエスさまは、私が聖書のことを知るようになる、ずっと以前から私を愛していて下さり、声を掛け続けて下さっていたのですね。そうして私は1995年の春に教会の近くのアパートに導かれ、その6年後の2001年の夏に初めて高津教会を訪れて、同じ年の2001年のクリスマスに洗礼を受けました。
 きょうの私のお証しは、救いのお証しとは違いますから、私が高津教会に導かれることになった細かい経緯については話しません。話しても良いのですが、話すと、私の個人的な経験のことだけが皆さんには印象に残ってしまうと思います。きょう私がお話ししたいのは、イエスさまは誰にでも「あなたがたは何を求めているのですか」、「来なさい。そうすればわかります」と語り掛けて下さっている、ということです。私が個人的なお証しをするのは、その助けとしていただくためです。ですから、私が高津教会に導かれることになった細かい経緯については、きょうは省略して、次の二番目の時期に移って行きたいと思います。

3.自分を守っている存在がわかり平安を得る(二番目の時期)
 私は2001年の夏に高津教会に通うようになってから間もなく、自分を守っていてくれた存在が、キリスト教の聖書の神様だったことを知りました。自分を守っているのがご先祖様の霊なのか、神社の神様なのか、仏教の仏様なのかの長年の謎が解けて、大いに納得しました。何しろ高津のアパートの天井に向かって「誰ですか?」と聞くぐらい、誰だかわからないことをもどかしく思っていたわけですから、それが誰なのかがわかった時の納得感は、とても大きなものでした。そして、ちょうどその頃、2001年の秋のことですが、不動産屋さんから電話が掛かって来て、高津駅の近くに新築のマンションが出来るから、買いませんかという勧誘を受けました。その類の電話は、それまでもたくさん掛かって来ていましたが、いつも私は「興味ありません」と言ってガチャンと電話を切っていました。しかし、不思議とその時は話を聞く気になって、モデルルームを見に行きました。そして、一晩考えただけで、マンションを購入することを決めてしまいました。高津教会の近くに住んで、そこから毎週、高津教会に通う生活がとても好ましく思えたのですね。このマンションの購入を決めたのが2001年の秋ですから、まだ洗礼を受けることを決める前です。ですから、もうマンションを購入した時点で、いずれは洗礼を受けることになるだろうと思っていました。それは、1年後か2年後かはわかりませんが、いずれは洗礼を受けるだろうと思っていました。そして結局、その年のクリスマスに洗礼を受けました。私を守っていてくれたのが誰だったのかが分かった納得感は、それほど大きなものだったということだと思います。
 そして、2001年のクリスマスに洗礼を受けた、ちょうどその頃に新築のマンションも完成しましたから、私は2002年の1月に高津のアパートからマンションに引っ越して、新しい生活を始めました。洗礼を受けてクリスチャンとしての新しい生活を始めることと、マンションで新しい生活を始めることとが重なりましたから、私は本当に新鮮な気持ちで新しい生活を始めました。そして、心の平安を得ました。
 ですから、私が教会に通うようになって心の平安を得たのは、自分の罪のことがわかったからとか、十字架のことがわかったから、というのとは、だいぶ違っていました。教会に通うずっと以前から自分を守ってくれている存在があることを知っていて、それが聖書の神様であったことがわかったことの納得感によって得られた平安、という要素が大きかったと思います。そして、教会の近くのマンションに住み、教会で聖書の神様についての説教を聞くことで得られる平安もまた、非常に大きなものでした。その平安は、本来いるべき父のもとに帰って来たから得られたのだということが、今ならわかりますが、当時の私はわかっていませんでした。
 そんな私でしたから、自分の罪のことや十字架のことやイエス・キリストのことも、なかなかわかりませんでした。毎週礼拝と祈祷会に出席して説教を聞きましたから、聖書の知識だけは一応増し加わって行きましたが、イエス・キリストをはっきりと知るということはできていませんでした。今だから言いますが、イエス・キリストとの出会いをはっきりと自覚したのは、聖宣神学院に入学してからのことでした。このことは、皆さんとは随分と違うと思います。皆さんの多くは、洗礼を受ける前に、或いは洗礼を受けた後からでも、教会生活を送るうちにはイエス・キリストに出会ったことと思います。しかし、私の場合には一般の信徒として教会生活を送っている間は、私はイエス・キリストのことが良くわかっていませんでした。
 そんな私だからこそ、イエス・キリストは「神学校に来なさい」と私を招いたのかもしれません。私には見えていない所から、「あなたは何を求めているのですか」「来なさい。そうすればわかります」と語り続けていて下さり、「神学校に来なさい」と招いたのだと思います。そうして私は聖宣神学院へと導かれました。そのようにイエス・キリストのことをまだ良く知らないのに、イエスの招きの声を感じたのは、私が『自己愛とエゴイズム』という本を、教会に通うようになってからも大切に思っていて、「奥深い自分の声に耳を傾けて、その声に忠実に生きる」という生活をしたいということを、ずっと思っていたからだろうと思います。奥深い自分の声に耳を傾けていたから、「あなたは何を求めているのですか」、「来なさい。そうすればわかります」というイエス・キリストの招きの声を感じることができたのだと思います。

4.イエス・キリストと本格的に出会う(三番目の時期)
 こうして、私は聖宣神学院へと導かれて、神学生になりました。ここから三番目の時期に入ります。そして、この神学生の時期に初めて、イエス・キリストとの本格的な出会いを経験しました。いくつかの段階を踏んで行きましたが、本当に出会ったと言えるのは、このヨハネの福音書のイエス・キリストの第一声である、「あなたがたは何を求めているのですか」が、自分に向けて語られた言葉であると感じた時であろうと思います。神学生は、教会での説教の御用は、そんなにはありませんが、神学院の寮では、私がいた時には週に4回、寮内の祈祷会が持たれていて、神学生が交代で説教をしていましたから、月に3回ぐらいは説教の順番が回って来ました。そして私は、神学生の2年生の秋からはヨハネの福音書から説教をすることにして、その準備をしている時に、「あなたがたは何を求めているのですか」、「来なさい。そうすればわかります」が自分に向けて語られていたのだということを、はっきりと自覚しました。それまで、この箇所を何度も読んでいたのに、その時までは、あまり自分への語り掛けという感じはしていませんでした。しかし、この時から私は、イエス・キリストの私への語り掛けをはっきりと意識するようになり、イエスさまは実はずっと以前から私に語り掛けて下さっていたのだということも知りました。そうして、このことをきっかけにして私は、ヨハネの福音書の世界に引き込まれて行きました。これは、私にとっては、とても大きな出来事でした。私はヨハネの福音書に興味を持ち、ヨハネの福音書の何章には何が書いてあるのかが、だいたいわかるようになって行きました。私は今でも、マタイ・マルコ・ルカの福音書については、たとえば「○○のたとえ話」は何章に書いてありますか、と聞かれてもすぐに答えることはできません。でもヨハネの福音書についてなら、何が何章に書いてあるのかは、だいたいはわかるようになりました。

5.何を求めているのかの答を得る(四番目の時期)
 このようにして、私はヨハネの福音書の世界にどっぷりと浸かって神学生の時を過ごし、そして聖宣神学院を卒業して牧師になりました。ここから四番目の時期に入ります。ここまで私は、イエス・キリストの「あなたがたは何を求めているのですか」、「来なさい。そうすればわかります」という声に導かれて進んで来ました。一番目の時期、二番目の時期、三番目の時期と進むにつれて、この声の発信源がどこにあるのかが、次第にはっきりとして来ました。発信源がどこかわからない時も、私はその声に導かれて教会の近くに住むようになり、そして教会に辿り着き、その後に神学校に導かれました。その間、私は「自分は何を求めているのだろうか」ということを自問自答しながら、進んで来ました。そして、「来なさい。そうすればわかります」とおっしゃるイエス・キリストの「わかる」とは何がわかることなのだろうかと、考えながら進んで来ました。イエス・キリストに付き従って歩んで行けば、自分が何を求めているのかがわかるだろうと思って進んで来ました。
 そして、牧師になったある時、私は、イエス・キリストに一つの答をいただきました。それまで私は、「自分は何がしたいのだろうか」、「自分は何を求めているのだろうか」といように、「自分は」「自分は」と、自分のことばかり考えていました。しかし、イエス・キリストは私に示して下さいました。「自分は」ではなくて「父は」でしょう、「自分は何を求めているのか」ではなくて、「父は何を求めているのか」が大切なのでしょう、と私は示されました。
 その時、牧師になっていた私は、自分が遣わされている教会が自分の追い求めている教会の姿とは少々異なることに、いらだっていました。自分が求める教会の姿はこうなのに、いま遣わされている教会はそうなっていないことにいらだちを覚えて、ある先生にそのことの愚痴を書いたメールを送ってしまいました。そして、その直後から、まだ先生からの返事をいただく前にイエス・キリストは私に、十字架に掛けられているご自身の姿を示して、「自分が何を求めているか」ではなくて、「父が何を求めているか」が大切なのだ、と示して下さいました。十字架を前にしてイエス・キリストはゲッセマネの園で、天の父に祈りました。

「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころの通りにしてください。」(ルカ22:42)

 イエス・キリストは自分の願いではなく、父のみこころを求めました。こうしてイエス・キリストは私の心の中がいかにドロドロしているかを示して下さり、父のみこころを求めなさいと私に教えて下さいました。つまりイエス・キリストの「あなたがたは何を求めているのですか」、「来なさい。そうすればわかります」という語り掛けの、私にとっての答は、「父のみこころを求めなさい」であったということがわかりました。私はイエス・キリストの「あなたがたは何を求めているのですか」、「来なさい。そうすればわかります」という招きのことばに応答してイエス・キリストに付いて行き、やがて十字架の現場に導かれてイエス・キリストの十字架を目撃して、私がすべきことは、父のみこころを求めることである、ということを教わりました。父と共にいても自分のことばかり考えていたのでは、放蕩息子のお兄さんと同じになってしまいます。私は、もともとは放蕩息子であったのが、父のもとに戻って教会生活を送り、やがて牧師になったら、いつの間にか放蕩息子のお兄さんになってしまっていたようです、そうではなくて、父のみこころを求めるべきなのだ、ということを学びました。

6.永遠の中を生きるイエス・キリスト
 以上が、私が経験したことの証しですが、皆さんは、いかがでしょうか。イエス・キリストは誰に対してでも、「あなたがたは何を求めているのですか」、「来なさい。そうすればわかります」と語り掛けて下さっています。皆さんのお一人お一人は、どれくらいハッキリとイエスさまから語り掛けられていることを感じているでしょうか。もし、まだあまりハッキリとは感じられていないとしても、気にする必要はありません。なぜなら、私自身も、高津教会の一般の信徒だった時には、ハッキリと感じることができていなかったからです。きょうお話ししたように、私は神学生になって初めてイエスさまが私に語り掛けて下さっていることを感じることができるようになりました。でも、皆さんが皆、神学校に入るわけではありませんね。それでも大丈夫です。ヨハネの福音書を読むなら、イエス・キリストに出会うことができます。ヨハネの福音書のイエスは、二千年前のイエスではなくて永遠の中にいるイエスなのだということがわかれば、イエスの「あなたがたは何を求めているのですか」、「来なさい。そうすればわかります」ということばは、現代を生きるイエスが私たちに直接語り掛けていることばだと感じることができるようになります。
 伝道者としての今の私が天の父から求められていることは、このヨハネの福音書を通して、多くの方々がイエス・キリストとの出会いをはっきりと経験できるように導くことではないかと私は感じています。その目的のために、イエスの声を感じつつも、なかなかイエスに出会えなかった私が用いられるようになったのだろうと感じています。
 ヨハネ1章38節と39節を、もう一度見てみましょう。お読みします。

「イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て、言われた。『あなたがたは何を求めているのですか。』彼らは言った。『先生。今どこにお泊まりですか。』イエスは彼らに言われた。『来なさい。そうすればわかります。』」

 ここを読んで、もしイエスが自分に語り掛けていると感じない方がいるとしたら、その方は、この場面が2千年前の紀元1世紀の出来事だという意識を、強く持ち過ぎているのではないかと思います。イエス・キリストは永遠の中を生きていますから、イエスにとって、そして読者の私たちにとって、この場面は現代です。イエス・キリストは永遠のいのちを持ち、永遠の中を生きていますから、イエスにとっては、2千年前であっても、現代であっても、同じ現在です。ヨハネの福音書では「永遠のいのち」という言葉が全部で17回使われています。ヨハネはイエスが永遠のいのちを持つことを示し、その永遠のいのちを持つイエスを私たちが信じるなら、私たちもまた永遠のいのちが得られることを説いています。「永遠のいのち」を使う回数はマタイとルカが3回ずつで、マルコは2回です。それに対してヨハネは17回も使っています。そうしてヨハネは、この福音書の中でイエスが永遠の命を持つことを描いています。
 「永遠」というと、遠い未来のことを思い浮かべる方がいらっしゃるかもしれませんが、「永遠」というのは、過去も現在も未来も全てが「現在」であるというのが、ヨハネの福音書が示している「永遠」です。きょうはもう終わりに近付いていますから、永遠の話をこれ以上詳しくはしませんが、永遠の中にいるイエス・キリストにとっては、5世紀のアウグスティヌスの時代も「現在」であり、16世紀のルターの時代も「現在」であり、18世紀のウェスレーの時代も「現在」であり、20世紀から21世紀に掛けての高津教会の信仰の先輩たちの時代もまた「現在」です。ですからヨハネの福音書1章38節のイエスは1世紀のイエスではなくて、「現在」のイエスです。御子イエス・キリストはアウグスティヌスやルターやウェスレーや高津教会の先輩方や、その他に無数にいる聖徒たちとの交わりの中にいます。そして、私たちもまた、イエス・キリストを信じるなら、その交わりの中に入ることができます。

7.御父と御子イエスとの交わりに入れられる喜び
 最後に、ヨハネの手紙第一の1章を開きたく思います。ヨハネの手紙第一というのは、ヨハネの福音書と相補的な関係、互いに補い合う関係にある書です。ヨハネの手紙第一(新約聖書第三版p.465、第二版p.426)の1章の1節から4節までを、交代で読みましょう。

1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、
2 ──このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。──
3 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。
4 私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。

 1節の、「いのちのことば」とは、イエス・キリストのことですね。そして2節、

「このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。」

 イエス・キリストは永遠のいのちを持ち、永遠の中にいますから、私たちのすべての信仰の先輩たちと共に、永遠の中にいます。そして3節、

「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」

 私たちが、御子イエス・キリストの「あなたがたは何を求めているのですか」、「来なさい。そうすればわかります」という語り掛けに応答してイエスに付き従って行くなら、私たちはやがて、イエス・キリストの十字架のもとに導かれて、そうして私たちもまた御父と御子イエス・キリストとの交わりに入れられます。それは、信仰の先輩たちが入れられた交わりでもあります。こうして私たちも永遠のいのちを持ち、永遠の中に入れられます。4節、

「私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。」

 この永遠の交わりの中に入れられることは、本当に大きな喜びです。
 私が高津教会に導かれて、洗礼を受けて大きな平安を得た時に私はこの交わりの中に入れられたのだと思います。しかし、そのことを私は理解することができませんでした。
 私が神学校にまで導かれて、牧師になったのは、この大きな喜びのことを多くの方々に、聖書に基づいてしっかりと説明するためであろうと今、私は思っています。私たちの周囲には、この交わりのことを知らずに苦しんでいる方々がたくさんいます。その方々に、この永遠の交わりの中に入ることで得られる大きな喜びについてお伝えして行くことが、天の御父が私に求めていることであろうと私は思っています。

おわりに
 イエス・キリストは私たちの一人一人に「あなたがたは何を求めているのですか」、「来なさい。そうすればわかります」と語り掛けて下さっています。
 皆さんは何を求めているでしょうか。そして天の御父は皆さんに何を求めているでしょうか。ぜひ、お一人お一人で思いを巡らしてみて下さい。
 イエス・キリストからの豊かな祝福をお祈りしています。
 お祈りいたしましょう。
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真の時間と人の時間(2013.7.15 講演)

2013-07-16 11:43:02 | 特集
2013年7月15日講演
『真の時間と人の時間』
【ルカ10:38~42】

はじめに
 きょうは、この千本プラザでの「賛美と聖書」の集いに、ようこそおいで下さいました。
 きょうの講演のタイトルは、『真の時間と人の時間』です。
 このタイトルを付ける時に、意識した本があります。それは、『ゾウの時間 ネズミの時間』というタイトルの本です。この本は大学の生物学の教授の本川達雄という先生が書いた本です。もう20年ほど前の本ですが、当時話題になった本ですから、お読みになったことがある方もおられるかもしれませんね。
 ゾウの寿命は、だいたい70年ぐらいで、ネズミの寿命はだいたい2~3年なのだそうです。ゾウはネズミの30倍ぐらいの寿命があります。人間的な感覚からすると、ネズミの2~3年の寿命というのは、短くて儚いような気がします。しかし、心臓の心拍数という観点から動物の寿命を眺めると、そうとも言えないらしいのですね。ネズミ、特に小さなハツカネズミの場合、心臓の鼓動の間隔は約0.1秒で、1秒間に10回近くも拍動があるのだそうです。すると一分間の心拍数は600回ぐらいになります。一方、ゾウの心臓の鼓動の間隔は3秒ぐらいだそうで、一分間の心拍数はだいたい20回ぐらいということになります。ですから、ネズミの心拍数はゾウの30倍ぐらいになります。すると、ネズミの寿命はゾウの30分の1しかありませんが、心拍数はゾウの30倍ありますから、一生の間に打つ心臓の鼓動の数は、だいたい同じだということになります。心臓の鼓動に合わせて時計の振り子が動くなら、ネズミもゾウも同じ数だけ時計の振り子が動いたら死ぬ、ということになります。
 人間から見ると、ネズミの2~3年の寿命というのは、儚いように見えますが、実はネズミは、とても速い心臓の鼓動に合わせて非常に密度の濃い一生を送っているのであって、決して儚くはないのではないか。ネズミにはネズミの時間があり、ゾウにはゾウの時間があって、物理的な時間とは無関係にそれぞれの時間があるのではないか、ということを著者は書いています。
 先週から急に暑くなり、外ではセミの大合唱が聞こえるようになりました。セミは生まれてから何年間もの間、幼虫として地面の中で過ごします。そして羽化してからは、わずか数日間の命であると言われています。物理的な時間を基準にするならセミは長い時間を地中で過ごし、羽化してからの時間は短いということになりますが、たぶんセミは、そのような物理的な時間とは違う時間の中を生きているのだろうと思います。地中にいる時には地中の時間、地上に出て羽化してからは地上の時間があるのだろうと思います。
 それは、私たち人間にとっても同じですね。私たちが子供だった頃の時間の流れ方と、大人になってからの時間の流れ方が随分と違うことは、多くの皆さんが経験していることだろうと思います。また大人になってからでも、退屈な時の時間の流れ方は遅く、何かに夢中になっている時には、あっと言う間に時が流れてしまうことは誰でも経験していることでしょう。
 このように私たちが感じる時間は、物理的な時間とは随分と異なるものです。

1.時間とは何だろうか
 では、時間とは一体何でしょうか。私はここ1~2年、「時間論」に関する本を何十冊も買いあさっています。難しくて理解が困難な本も多いのですが、一応ざっと目を通すことだけはしています。これらのいろいろな時間論の本の中で、よく引用されている言葉があります。それは、1600年ぐらい前のアウグスティヌスという神学者が書いた『告白』という本に書かれている言葉です。アウグスティヌスは次のように告白しています。

「時間とは何であるか。誰も私に問わなければ、私は知っている。しかし、誰か問う者に説明しようとすると、私は知らないのである。」(もう一度読みます)

 アウグスティヌスがこのように告白しているように、時間とは何かを説明するのは、非常に難しいことです。アウグスティヌスから1600年経った現代においても説明することは難しいので、多くの時間論の本で、未だにこのアウグスティヌスの言葉が良く引用されています。しかし、時間をきっちり説明するのは難しくても、1600年前に比べれば人類は、随分と多くの知識を蓄えて来ました。特に、脳の働きを調べる研究が進んだことは、人間が時間をどのように感じているか、を知る上で大いに役立っているのではないかと思います。今日の前半はまず、このような脳科学や認知科学、精神病理学などの研究も少し参照しながら、人が時間をどのように感じているかについて、考えてみたいと思います。

 本屋大賞という賞がありますね。その本屋大賞の第1回受賞作品で、映画にもなった、小川洋子の『博士の愛した数式』という小説があります。
 この小説の主人公の博士の記憶は80分しかありません。何年か前に交通事故で脳を損傷して、新しい記憶を蓄積することができなくなってしまったのです。博士は、交通事故に遭う前の古い記憶と、あとは最近の80分ぶんの記憶しか持っていません。80分より前のことは忘れてしまいます。そして、この小説には、毎日博士の家に通って来る家政婦さんが登場します。この家政婦さんは毎朝、博士の家に行きます。すると博士には昨日の記憶がありませんから、博士にとって家政婦さんは、いつも初対面の人でした。博士は毎日、この家政婦さんに会うと、決まって、「君の靴のサイズはいくつかね?」と聞きました。博士は昨日の家政婦さんのことも、1週間前の家政婦さんのことも知りません。ということは、博士にとっては80分という時間の範囲内では時間の流れが存在しますが、それ以上の長さの1日単位や1週間単位の時間の流れは存在しないということになります。
 このことから、人が時間の流れを感じることと、脳の働きとは、強い関係があることがわかると思います。また、精神病理学の立場から『時間と自己』という本を書いた木村敏という精神医学の先生は、離人症という病気の患者の時間意識を著書の中で紹介しています。離人症のある患者は次のように言ったそうです。

「時間の流れが、ひどくおかしい。時間がばらばらになってしまって、ちっとも先へ進んで行かない。てんでばらばらで、つながりのない無数のいまが、いま、いま、いま、と無茶苦茶に出てくるだけで、なんの規則もまとまりもない。」

 先ほどの博士の場合は交通事故で脳が損傷して記憶を蓄積することができなかったのですが、この患者の場合もまた、何らかの原因で脳の働きに異変が生じて、時間の流れが感じられなくなっているようです。このように、脳の働きと時間の流れとは大きく関わっています。
 いま皆さんの手元に、自分が写っている写真が2枚あると想像してみて下さい。グループで旅行に行った時の写真で1枚は旅行の1日目の写真で、もう1枚は旅行の2日目の写真だとします。でも、どっちが1日目でどっちが2日目か、分からなくなってしまうということが、よくあるのではないでしょうか。写真に日付がプリントしてあれば分かりますが、そうでなければ、よくわかりません。そこで、一生懸命に推理を始めます。一方の写真の自分は青いシャツを着ていて、もう1枚の自分は赤いシャツを着ている。確か、あの時の旅行では、1日目に青いシャツを着ていたような気がするから、きっと青いシャツの日が1日目だということになります。すると、時間は青いシャツの日から赤いシャツの日に向かって流れていたということになります。ところが、もし記憶が間違っていたとしたら、時間はその逆の方向に流れていたことになります。
 このように、時間の流れる方向は、結局は記憶次第ということになります。人が感じている時間の流れの方向は、人の記憶が決めていることになります。この時、人は、やっかいなことに無意識のうちに自分の都合や感情に合わせて記憶を操作することがあります。例えば、この旅行グループの中には仲の良い友達と、自分とはあまり合わない人とがいたとします。もし、仲の良い友達が、「あなたは1日目に青いシャツを着ていたよ」と言い、反対に自分とは合わない人が「あなたは赤いシャツを着ていたでしょ」と言えば、大抵は仲の良い友達の言った意見を採用するでしょう。このように、人は、自分の都合や感情に合わせて無意識のうちに時間を操作することもします。このようにして、人は知らず知らずのうちに、自分中心、自己中心の中にはまり込んでしまいます。時間の流れとは客観的なものではなくて、ひどく主観的で個人的なものであり、自分では自己中心になっていないつもりでも、時間の流れが頭の中で形成されるなら、いつの間にか自己中心的になってしまうことになります。

2.自分中心の時間にいる罪
 きょう、ご一緒に見る聖書の箇所のルカの福音書10章38節から42節(お手元のプログラムにも印刷されています)には、イエスの他にマルタとマリヤという二人の女性が登場します。38節と39節を、もう一度お読みします。

10:38 さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。
10:39 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。

 マルタとマリヤの姉妹は、しっかり者のお姉さんとノンビリ屋の妹、という感じの組み合わせです。
 マルタはイエスをもてなすために、料理を作っていたのでしょう。料理を効率良く作るためには、段取りを良く考える必要があります。どういう順番で何をしたら、時間を無駄にしないで料理が作れるかということを考えます。例えば、すごく単純な例ですが、切った野菜を沸騰したお湯に入れてゆでる場合には、まず鍋に水を入れて火にかけて、お湯を沸かしながら野菜を切ることをしますね。そうすれば野菜を切り終わった頃に、すぐにお湯の中に野菜を入れることができます。野菜を切り終わってからお湯を沸かし始めたのでは、時間が掛かります。これは単純な例ですが、お客さんをもてなす時には、料理の種類も多いでしょうから、もっといろいろな事を考えます。さらに飲み物も用意して、飲み物を入れるカップを出したり、料理を盛る食器を並べたりもしなければなりません。その前にはテーブルも拭きたいですね。
 マルタはいろいろなことを考え、作業の順番を頭の中で組み立てていました。その一方でマリヤは何も手伝いをせずに、ひたすらイエスの言葉に聞き入っていました。それで、マルタは頭にきて、キレてしまいました。40節です。

10:40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」

 この時、マルタは自分の頭で考えて組み上げた段取りという自分の時間の中にいました。それは、自分中心の時間、自己中心の時間でした。一見すると、何も手伝いをしない妹のマリヤの方が自己中心的のようにも見えます。しかし、そうとばかりは言えません。マルタは自分の頭の中で物事の順番を組み立てていましたから、自分の時間の中にいたことは否定できません。そのように自分の時間の中にいるなら自己中心的にしか物事を見ることができなくなって行きます。
 いま、日本と隣国との間で領土問題や歴史認識のことが問題になっています。領土問題は、いつの時点でどちらの国の者が、そこにいて何をしていたかということが問題になります。この場合、どちらの国も、どうしても自国が有利になるように考えることと思いますから、当事者同士で決着をつけることは難しいでしょう。第三者が判断するにしても、両者が納得する判断は、なかなかできないでしょう。時間の流れの中に身を置いていると、どうしても自分中心になりますから、争い事のタネは尽きません。国家も人も、このような自分中心の時間の中にいる限りは平和を実現することは、なかなかできないように思います。
 マルタもまた自分の時間の中にいましたから、妹のマリヤを批判して、妹にひとこと言ってほしいとイエスに頼みました。しかし、イエスは答えました。41節と42節です。

10:41 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
10:42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

 イエスは、マリヤは良いほうを選んだと言いました。ここが大事なポイントですが、マリヤが選んだ「良いほう」とは何でしょうか。何もしないことでしょうか。そんなはずはありませんね。何もしないよりは忙しい姉を手伝ったほうが良いに決まっています。では「良いほう」とは何でしょうか。

3.神中心の時間に入る幸い
 それは、マリヤがみことばに聞き入っていた(39節)ことです。「聞き入る」と言っても、何に聞き入るか、いろいろあります。私たちは、電車の中などで、そばで人が話していることに、ついつい聞き入ってしまうことがあると思います。そんな話は聞かないほうが良いのですが、ついつい聞き入ってしまいます。しかし、本当に聞き入らなければならないものがあります。それは、神のみことばです。イエスは、神のみことばに聞き入ることが、どうしても必要なただ一つのことだと言いました。なぜなら、神のみことばに聞き入ることで、私たちは永遠の時間の中に入ることができるからです。人間が人間の脳の中で作り上げた時間の中で、あくせくとするのではなく、人間の時間の束縛からは解放されて、永遠の時間の中に入ることができます。イエスは、その時間の中に入っていたマリヤを、良いほうを選んだと言ったのでした。
 聖書には、永遠に関係した記述がいろいろな箇所にあります。例えば旧約聖書のイザヤ書には、こんな一節があります。

「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ40:8)
(もう一回読みます)

 草は枯れて、花はしぼみます。私たちの命もはかないものです。肉体も滅びます。聖書の言葉も、昔はパピルスや羊皮紙などに記されていましたが、そのパピルスや羊皮紙も大半はボロボロになって消失し、今はほとんど残っていません。それなのに、私たちはどうして聖書のことばを読むことができるのでしょうか。それは、神のことばは滅びずに、永遠の中にあるからです。この聖書のことばを読む時、或いは聞き入る時、私たちも永遠の時間の中に入ることができます。

 聖書のヨハネの福音書は、次のような有名なことばで始まります。

「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ1:1)
 そして、ヨハネの福音書には、その少し後で次のようにあります。

 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(ヨハネ1:14)

 つまり、ヨハネの福音書はイエス・キリストが「神のことば」そのものであると言っています。イエス・キリストは創世記の天地創造の初めの時から存在していて、そして2千年前のクリスマスの日に、ヨセフとマリヤの間の人の子として家畜小屋の中で生まれました。そうして、それから約30年の後にイエスは世に出て、神のことばを宣べ伝え始めました。マルタの妹のマリヤが聞き入っていたのは、このイエスが語った神のことばでした。このイエスのことばに聞き入っている時、マリヤは聖書の永遠の時間の中にいました。例えば、もしイエスがモーセの時代のことを語っていたのなら、マリヤはモーセの時代の時間の中にいました。イエスがダビデの時代のことを語っていたのなら、マリヤはダビデの時代の時間の中にいました。神であり、初めから存在していたイエス・キリストはモーセの時代にもダビデの時代にもいましたから、イエス・キリストのことばに聞き入るなら、マリヤは、そのイエスが語る時代の時間の中に入ることができました。
 そして、それは現代の私たちにとっても同じことです。聖書を読む時、私たちはモーセの時代の時間の中にもダビデの時代の時間の中にも入ることができます。不思議なことですが、これは本当のことです。私自身がそれを経験しています。私が聖書を熱心に読むようになったのは、12年前からのことです。それ以前は、私にとって聖書は古臭い書物でしかありませんでした。イエスという人物は大昔の人物だと思っていました。まして、モーセやダビデの時代などは、人類というよりは恐竜の時代のような気がしていたと思います。しかし、聖書を読むようになってからは、イエスはもちろん、モーセやダビデの時代が身近に感じられるようになりました。そのように2千年前や3千年前のことを少しも昔のことと感じないのですから、まして100年前の事などは、ついこの間の出来事のように思えます。いま大河ドラマでやっている『八重の桜』の新島八重の時代など、私にとっては本当につい最近のことです。しかし、聖書を読む前は、この幕末から明治に掛けての出来事も大昔のことだと思っていました。
 今でもよく覚えているのですが、私が北海道大学の学生だった頃のことです。北海道大学は、「Boys be ambitious」で有名なクラーク先生のクラーク精神を大事にしています。このクラーク先生が札幌農学校の先生をしていたのが1876年から翌年に掛けてのことでした。明治維新から8年後ぐらいのことですね。私が北大に入学したのは、この札幌農学校の開学から100年ちょっと経った頃のことで、私が入学した当時はまだ開学100年の記念事業の余韻が残っていた頃でした。その、100年前のクラーク先生の頃のことを、当時の私は全くの大昔のように感じていました。しかし、今は違います。今はクラーク先生の頃のことを、本当に手が届きそうなぐらいに身近に感じています。このことを、聖書にあまり馴染みの無い方は不思議に感じるかもしれませんが、神の時間の中に入るとは、こういうことです。神は永遠の時間の中にいます。その永遠の時間の中では、過去→現在→未来という時間の流れが存在しないので、100年前のことも2000年前のことも3000年前のことも皆、同じであって3000年前は100年前よりもずっと昔だということはありません。神にとっては、どの時代のことも皆同じ現在のことです。グループ旅行の写真に写っている青いシャツの日も赤いシャツの日も、どちらが先ということはなく、神にとっては皆、同じです。そもそも時間の流れは人間の頭の中で組み立てられるものですから、人間的な考えから離れるなら、それで良いのです。人間の時間の中にいると、どちらの日が先だったかに、こだわってしまいがちですが、神の時間の中にいるなら、青いシャツの日が先か赤いシャツの日が先かは、どちらでも良いことです。

4.同じ時間の中にいない私たち
 時間とは、私たちが普段、常識として考えているものとは、だいぶ違うもののようです。このことを、今度は別の例を使って話してみたいと思います。
 皆さんは、テレビの地上波とBSの放送では、同じ放送でも、BSの方が微妙に遅く私たちに届くことをご存じでしょうか。いま私はBSを見ていないので最近は確かめていませんが、神学校に入る前、まだBSの契約をしていた頃、そのようだったことを私は記憶しています。BSの放送が地上波よりも微妙に遅れるのは、BSの場合は、テレビの電波がいったん宇宙の静止衛星の軌道まで行って帰って来るのに時間が掛かるからでしょう。また、何年か前から普及している携帯のワンセグ放送と地上波の放送との時間差となると2秒から3秒ぐらいも違います。これだけ違うとだいぶ違います。携帯のワンセグ放送を見ることができる方は、ぜひ一度、テレビとワンセグを両方付けて確かめてみてください。ワンセグ放送が2~3秒遅れるのは、信号をワンセグの規格に変換してから送信し、受信したらまた変換するからだそうです。専門用語ではエンコードとデコードと言いますが、この変換に時間が掛かり、2~3秒の遅れが生じるのだそうです。すると、同じテレビ放送を見ている人でも、地上波を見ている人とワンセグ放送を見ている人とでは、違う時間の中にいることになります。同じ時刻に違う映像を見ているのですから、違う時間を過ごしています。私たちは、皆同じ時間の中にいると思い込んでいますが、実際は違うのだということが、このことから分かると思います。私たちは決して時間を共有しているのではなく、時間とは随分と個人的なものなのです。随分と孤独なものだと言っても良いかもしれません。
 この会場の中にいる私たちでさえも、厳密に言うならば、同じ時間を過ごしているわけではありません。なぜなら、私の声の音波は空気の中を伝わって行って皆さんの耳に届くからです。私の声はまず前方にいる方の耳に届き、後ろの方にいる方の耳には少し遅れて届きます。つまり、同じ時刻においては、皆さんは同じ音を聞いているわけではありません。同じ時刻に聞いている音は、お一人お一人の席によって微妙に異なります。このように時間とはひどく個人的なものであり、また孤独なものであるとも言えると思います。先ほどのマルタは頭の中で段取りを考えることで自分の時間を作ってしまっていましたが、今のこの会場にいる皆さんの場合は、ただ私の講演を聞いているだけなのに、個人的な時間の中に入ってしまっています。しかし、もし私の話していることが、物理学や精神医学の講義のようなものではなく、神のことばであるなら、私たちは一つです。なぜなら、神にとっては過去も現在も未来もすべて同じ時間の中にあるからです。この永遠の時間の中にいる神のみことばに聞き入る時、私たちは一つになっています。

5.得体の知れない物理的な時間
 私たちは皆、必ずしも同じ時間の中にいるわけではないということを、さらにもう一つ別の例で話します。アインシュタインの相対性理論によると、光の速さに近い非常に速い乗り物に乗ると、その中では時間がゆっくりと進むということを、皆さんの中でも聞いたことがある方がおられるのではないかと思います。アインシュタインの相対性理論によると、光の速さに近いスピードのロケットに乗って宇宙旅行に出掛けると、ロケットの中では時間がゆっくり進むので自分は年をほとんど取りません。しかし、地球にいる友だちや家族は皆、年を取りますから、宇宙旅行から地球に帰って来たら友達は皆、自分よりずっと年上になってしまっています。現在はまだそんなに速い乗り物はありませんから、そんなに年齢が違ってしまうほどの変化を観察することはできませんが、ジェット機に乗るとわずかに時間が遅れることは既に実験で確かめられています。その時間の遅れは1秒よりももっともっとずっと小さな時間ですから、見た目の年齢に現れることはありませんが、速い乗り物に乗ると時間が遅れるということは、このように既に実際に確かめられています。車の速さぐらいでは全く検出できないのですが、それでもやはり車の中では時間はわずかながら遅くなります。或いは、私が少し歩くだけでも、座ったままの皆さんよりも私の時間は、ほんの少しだけ遅くなります。何だか信じがたいことですが、理論上はそうなっています。歩いている私から見れば、皆さんは私よりも未来にいます。皆さんから見れば私は過去にいます。実は私たちは物理学の目で見ると、そういう、得体の知れない、言うならば気持ちの悪い世界の中で生きています。しかし、人間の脳は優秀なので、そういう気持ちの悪いものは補正をして、気持ち良く生きていけるように処理をしてくれています。私たちがビデオや映画などの動画を見る時、映画の中の人物は滑らかに動いているように見えますが、実際の映画の1コマ1コマは全部、止まっている静止画です。しかし、人間の脳はそれを補正してくれるので、私たちは動画を違和感なく見ることができます。このようにして、私たち人間は人間の脳が作り上げた時間の中で暮らしています。

6.時空を越える祈りの証し
 そしてまた人の時間とは別に、神は神で、この時間と空間を全く別の方法で支配しています。先ほども述べたように、神には過去も未来もなく、全てが同じです。その実例とも言える証しを、今度は本から引用してお読みしたいと思います。先ほどの私自身の体験の、私が聖書を読むようになったら、2000年前、3000年前のことが身近に感じられるようになったという話も、一つの証しですが、これから紹介する話は、もっと劇的な証しです。
 それは、デイブ・アーリー著『最も祝福された21人の祈り』(根本愛一・訳、福音社)に書かれている、ヘレン・ローゼベアという人の証しです。彼女は20年間、アフリカのコンゴで医者として、また宣教師として奉仕していました。以下、そのまま引用しますが、この中の「私」というのが、医者であり宣教師であるヘレンのことです(p.124~127)。

 私がある夜遅くまで働いていた時、分娩室の方から助けを呼ぶ母親の声が聞こえてきました。(しかし)必死の集中治療の甲斐もなく、その母親は未熟児の乳児と泣きじゃくる二才の娘を残して亡くなったのです。私たちの病院には保育器や、新生児に与えるミルクもなく、(生まれたばかりの)赤ちゃんの命を救うことは不可能に思えました。
 赤道の真下とはいえ、夜になると底冷えのする風が吹くことがあります。一人の看護学生が赤ちゃんを綿で包(くる)んで保護するための箱を探しに走りました。他の一人はストーブの所に行き、ゴム製の湯たんぽに熱湯を入れようとしましたが、「湯たんぽが壊れてしまいました。これが最後の湯たんぽなのに…」と叫びながら戻ってきたのです。アフリカでは熱と湿気でゴムはすぐに劣化してしまいます。「こぼしたミルクを嘆くな」と言われるように、壊れた湯たんぽについて嘆くことは意味がありません。コンゴのジャングルには薬屋は一軒もないからです。
 私は、学生たちに安全を確認しながら赤ちゃんをなるべく火の近くに置き、さらに外からの風が赤ちゃんにあたらないように、赤ちゃんと扉の間で寝るように命じました。「あなたたちの役目はできる限り赤ちゃんを温めておくことよ。」
 翌朝、いつものように祈るために施設の孤児たちと一緒に集まりました。私は孤児たちに赤ちゃんのことを話しました。「赤ちゃんは体温が下がるとすぐに死んでしまいます。ところがお湯を入れて温めるはずの湯たんぽが壊れて困っています。それに赤ちゃんのお姉さんの二才の子供が母親を失って泣き続けています。どうか一緒に祈ってください。」
 (これを聞いて)皆が順番に祈り始めました。10才の少女のルースの番になると彼女は驚くほど簡潔に、しかもハッキリと、「神様、お湯を入れる湯たんぽが必要です。明日では遅すぎます。今日午後までに与えてください。そうしないと赤ちゃんは死んでしまいます」と祈ったのです。
 彼女が祈っている間、私はこの少女が少々厚かましい祈りを捧げているのではないかと内心思いましたが、さらに自分の耳を疑うようなお祈りが続いて聞こえてきたのです。「神様、湯たんぽと一緒にお人形を持ってきてください。そうすれば赤ちゃんのお姉ちゃんはあなたに愛されていることを知ることができます」
 時々、私は子供の祈りに素直に「アーメン」と言えないことがあります。神がそんな願いを聞かれるはずがないからです。もちろん神は何でもできるお方だと聖書で学んで知っています。しかしできることとできないことがあるはずです。神がこの少女の祈りに答えるとしたら、神が私の故国から荷物でそれらを届けるしかありません。アフリカに来て四年にもなりますが、ただの一度も故国から荷物を受け取ったことがありません。もし荷物が送られて来たとしても、送り主が湯たんぽなど入れるはずがありません。だって、ここは赤道の真下です!
 その日の午後も過ぎる頃、いつものように看護学生を教えていると入口に車が来ているとの連絡を受けました。私が入口に行く頃には車は既にありませんでしたが、入口横のベランダに10キロ程の大きな荷物が置かれているのを見た瞬間、私の目から涙が溢れてきたのです。私は一人で荷物を開けることができず、子供たちを呼び寄せ、一緒に荷物の縄をほどき、包み紙を破かないように注意深く荷を開けました。子供たちの何十もの熱い視線が荷物を入れた段ボール箱に注がれています。箱を開けると一番上に可愛いジャージが置かれていました。次に色々なサイズの包帯が出てきました。その次には干しブドウ…これでおいしいパンを作って食べさせよう。
 再び荷物の中に手を入れると…この手触りは…まさか? 私の手は確かに真新しいゴム製の湯たんぽを探り当てていたのです。もう涙を止めることができません。私が祈り求めたのではありません! ルースが祈った時、私は疑っていました。ルースは湯たんぽが取り出されるのを見て、「神様が湯たんぽを送ってくださったのなら、この中に人形も入っているはず」と興奮しながらその小さな手を荷物の中に差し入れたのです。
 荷物から引き出された彼女の小さな手には、とても可愛らしい人形が握られていました。途端に彼女の目は輝き、そして私に「一緒に赤ちゃんのお姉ちゃんの所に人形を持っていきたい。そうしたらイエス様がどんなに彼女を愛しているかわかると思わない?」と言いながら私の手を引いたのです。
 その荷物は五ヶ月もかけて故国から届いたものでした。私が教えていた教会学校の皆から送られたものでした。そのうちの一人が、神から赤道の直下にいる私に湯たんぽを送るようにとの声を聞いてその通りにし、別の少女がアフリカの女の子にといって人形を入れたのです。

 以上のヘレン・ローゼベアの証しからわかることは、神の時間には人間が考えるような時間の一方通行の流れは存在しないということです。人間的な時間観では、湯たんぽのお祈りが神に聞かれるとしても、祈った後に湯たんぽが発送されて、到着するのは、ずっと後になることになります。大人の宣教師のヘレンはそのような人間の時間に囚われていましたから、少女のルースが今日の午後に湯たんぽを届けて下さいという神様への祈りは聞かれるはずがないと思っていました。しかし、神様は過去も現在も未来も、全部同じ一つの「神の時間」の中で支配していますから、神は少女のルースの祈りを五ヶ月前の過去に届けるという方法でルースの祈りに応えました。少女のルースもまた、神の時間の中にいたので、こんな素直な祈りが出来たのでしょう。マルタとマリヤで言えば、大人の宣教師のヘレンはマルタと同じ「人の時間」の中にいて、少女のルースはマリヤと同じ「神の時間」の中にいました。「神の時間」の中では、「祈ること」と「湯たんぽが発送されること」の時間的な順番はどちらでも良いことです。青いシャツの日と赤いシャツの日のどちらが先でも神にとっては関係ありません。神はすべての時間を支配していますから、少女のルースの祈りを5ヵ月前に届けることができます。

7.要点のおさらい
 きょう、いろいろと話して来ましたが、きょうの話の要点をもう一度おさらいしましょう。物理学によれば、皆さんがそこに止まっていて、私が歩く時、私は皆さんよりも過去に行きます。その過去に行く時間は限りなく小さいですが、過去に移動していることは物理学によれば間違いありません。その逆に私がここに止まっていて皆さんの方が歩くなら、私は皆さんよりも未来に行きます。物理学の世界の時間というのは、このように過去や未来は定まったものでなく、お互いの運動によって過去にも未来にも行きます。物理的な時間はこのように人間が考えるような形での過去や未来は存在しない、言わば得体の知れないものです。
 しかし、人間の脳はこの得体の知れない物理的な時間を人間の都合の良いように処理します。そうして私たちは脳によって作られた時間によって、時間の流れを感じています。これが「人の時間」です。ですから、もし交通事故などによって脳に障害が発生すると、私たちは日常的に感じているような時間の流れを感じなくなります。このように、「人の時間」は非常に個人的なものであるため、それは自己中心的なものにもなり、また孤独なものでもあります。
 この「人の時間」とは別に、神は神で、神独自の方法で時間全体を支配しています。これが「神の時間」です。神のみことばに聞き入っていたマリヤやアフリカの少女のルースは、この「神の時間」の中にいました。そして私たちもまた、神を受け入れるなら「神の時間」の中に入ることができます。「神の時間」は平安に満ちた世界です。孤独で自己中心的な「人の時間」の中にいることを悔い改めて「神の時間」の中に入るなら、人の心は平安に満たされます。この「神の時間」に入ることによって得られる心の平安があまりに素晴らしいので、クリスチャンは他の人にも聖書を読むことを熱心に勧めたり、しつこく教会に誘ったりするのですね。でも「人の時間」の中にいる方々は、この「神の時間」の素晴らしさが分からないので、クリスチャンが熱心に教会に誘うのをウルサイと感じるのですね。それは、私もかつてはそうでしたから、よくわかります。しかし、「人の時間」にとどまる限り、人が真の心の平安を得ることはなかなか難しいでしょう。
 そしてこのことは、クリスチャン自身も気を付けていなければならないことです。クリスチャンと言えども、いつも「神の時間」の中にいるわけではありません。マルタのようにバタバタとした生活をしていると、いつの間にか「人の時間」の中に埋没してしまうことになります。湯たんぽの証しをした宣教師のヘレンも、いつの間にか「人の時間」の中で過ごすようになってしまい、少女のルースの祈りを聞いた時、そんな祈りが神に聞かれるはずがないと人間的な考えを持ってしまいました。

おわりに
 きょうの講演のタイトルは『真の時間と人の時間』です。きょう話したように、時間には「物理的な時間」と「神の時間」、そして「人の時間」とがあります。神を信じない人にとって「真の時間」とは「物理的な時間」ということになるでしょう。そして神を信じる者にとっては「真の時間」は「神の時間」です。
 もし「物理的な時間」が「真の時間」であるなら、そのような得体の知れない時間の中で人は安心して暮らすことはできないでしょう。ですから、人の脳が作る「人の時間」の中に、人は逃げ込むことになります。しかし、「人の時間」は自己中心的な時間ですから、ここでも心の平安はなかなか得られません。一方、神は万物を創造しましたから、時間も空間も神が創造し、支配しています。そもそもは神が時間を造り、神が時間を支配しているのですから、その「神の時間」の中に入ることが、人にとっては一番であると教会の牧師である私は思います。
 教会では聖書を学び、神のみことばに聞き入ることができます。神のみことばに聞き入り、「神の時間」に入る時、私たちは一つになります。私たち一人一人は孤独ではありません。一方、「人の時間」は個人的な自己中心的な時間ですから、ひどく孤独な時間です。皆さん、ぜひ、教会にいらして下さい。そして、神のみことばに耳を傾けてみて下さい。そして、共に「神の時間」の中に入りましょう。
 このことをお勧めして、最後に一言、お祈りをして、この講演を閉じます。

「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」(ルカ10:41,42)

(祈り)
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講演「真の時間と人の時間」

2013-07-14 13:39:29 | 特集
講演「真の時間と人の時間」
日時:2013年7月15日(月・祝)14時~15時半
場所:千本プラザ(沼津市)2F大会議室



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講演 「真の時間と人の時間」

2013-07-13 15:47:44 | 特集
講演 「真の時間と人の時間」
 日時:2013年7月15日(月・祝)14時~15時半
 場所:千本プラザ(沼津市)2F大会議室
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母の日 感謝礼拝(2013.5.12)

2013-05-12 12:00:00 | 特集
母の日 感謝礼拝 2013年5月12日午前10:30~
 どなたでも参加できます。お気軽に、お越し下さい。
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母の日感謝礼拝(2013)のご案内

2013-04-20 20:12:46 | 特集
母の日 感謝礼拝(2013年5月12日)午前10:30~

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