インマヌエル沼津キリスト教会

Immanuel Numazu Christ Church
沼津市今沢34番地

2016年クリスマスのご案内

2016-12-25 23:50:00 | 特集
 どなたでも参加できます。
 お気軽にお越し下さい。

 クリスマスの集い  12月18日(日)13時~14時
 キャンドルサービス 12月24日(土)19時~20時
 クリスマス礼拝   12月25日(日)午前10時半~12時

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神の御守りの中の誕生(2015.12.24 キャンドルサービス)

2015-12-25 02:13:11 | 特集
2015年12月24日キャンドルサービスメッセージ
『神の御守りの中の誕生』
【ルカ2:1~7】

はじめに
 きょうはクリスマスイブで、明日はいよいよクリスマスの日です。クリスマスはイエス・キリストがお生まれになったことをお祝いする日です。イエス・キリストの誕生日は世界中でお祝いされます。日本は違いますが、クリスマスが国民の休日である国も数多くあります。
 キリストの誕生は私たちが使用しているカレンダーの西暦の基準にもなっています。紀元前と紀元後の境目はキリストの誕生です。イエス・キリストの誕生は、それぐらい世界にとって大きな出来事でした。

家畜小屋で生まれたイエス
 きょうの聖書箇所のルカの福音書2章にはイエス・キリストが誕生した時のことが書かれています。イエスさまが家畜小屋で生まれたというのは有名な話ですね。いったい、どうしてイエスの母のマリヤは、あまり衛生的ではない家畜小屋で出産することになってしまったのでしょうか。それは、今読んだ聖書の箇所に書いてあるように、ちょうどこの時期に、ローマ帝国の皇帝のアウグストが住民登録をせよという命令を出したからです。当時はローマ帝国が世界を支配していましたから、イエスさまが生まれたユダヤもまたローマ帝国に支配されていました。世界を支配していたと言っても、中国のほうまで支配していたわけではありませんから世界というのは、だいぶ誇張があると思います。しかしローマ帝国は広大な地域を支配していましたから、世界を支配していると言っても決して大げさではなかったのでしょうね。
 住民登録は、徴兵のためと税金を集めるために必要であったようです。それで人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行きました。ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムという町へ上って行きました。ベツレヘムはダビデ王の出身地です。そしてイエスさまの父親のヨセフはダビデの家系の血筋でしたから、ベツレヘムに向かいました。そして妻のマリヤも一緒にベツレヘムに行きました。
 その時、マリヤのお腹の中には赤ちゃんのイエスさまがいました。そして、ちょうどベツレヘムにいる時に生まれたのでした。この時、二人は宿屋に泊まることができなかったので、家畜小屋で出産しました。なぜ宿屋に泊まることができなかったのか、それは住民登録でたくさんの人がベツレヘムに来ていて、宿屋が満杯だったからだと思いますが、もしヨセフが貧乏な大工ではなくてお金持ちだったら、宿屋に泊めてもらえたのではないか、という人もいます。そうかもしれませんね。
 両親のヨセフとマリヤは、家畜小屋にしか泊まる場所を見つけることができなかったことで、みじめな思いをしたことでしょう。イエス・キリストはそのようなみじめな場所で生まれたのでした。そして死ぬ時も、裸で十字架に釘付けにされて晒し者にされるというみじめな死に方をしました。でも、これが私たちにとっては大きな慰めになっています。みじめな場所で生まれ、みじめな死に方をしたイエスさまだからこそ、つらいことが多い私たちの人生のことをイエスさまは良くわかって下さっており、寄り添って下さいます。もしイエスさまが弱い者の苦しみを知らない、ただひたすら強いだけのお方であったなら、私たちは世界中で誕生日のお祝いをするようなことはなかったでしょう。

神に守られていた出産
 さて、そんなみじめな境遇で生まれて死んだイエスさまでしたが、神様は決して見放していたわけではありません。イエスさまが十字架で死んだ時も、神様はイエスさまをよみがえらせました。そして生まれた時も神様はマリヤとイエスさまを守っていました。家畜小屋という恵まれない場所で出産したのですから、神様の御守りがなければどうなっていたかわからないでしょう。
 先週までテレビで放映していた『コウノドリ』というドラマを見ていた方はおられるでしょうか。このドラマは産婦人科の病棟が舞台で、主人公は産科のお医者さんで綾野剛さんが演じていました。原作はマンガということですが、このテレビドラマの脚本を私の大学のクラブの先輩が書いていたので、私はなるべく見るようにしていました。前にも話したことがあるかもしれませんが、この先輩はNHKの朝ドラや大河ドラマの脚本も書いた活躍中の脚本家ですから、私も先輩が脚本を担当したドラマを見ると大いに刺激を受けて元気をもらえますから、なるべく見るようにしています。さて、この産婦人科の病棟が舞台の『コウノドリ』というドラマでは、母子ともに危険な状態での緊迫した出産など大変な場面がいろいろとありました。安産のシーンもありましたが、ドラマの中心は大変なほうの出産でした。そして実際の出産でも、大変な出産は決して少なくないのでしょう。そうして私は思いました。現代のように衛生状態も良く設備が充実している出産でも大変な出産が少なくないのだから、二千年前の出産はさぞ大変であったことだろう。まして家畜小屋の中で出産しなければならないとは、どんなにか大変だったろうか、と思いました。
 しかし聖書は、お産がいかに大変だったかということには、まったく触れていません。マリヤの場合は若い女性でしたが、聖書には高齢で出産した女性もいろいろ登場します。アブラハムの妻のサラやザカリヤの妻のエリサベツは既に年老いていましたから超高齢出産です。また胎が閉じていたラケルやハンナも当時としては高齢出産であったことでしょう。エリシャを歓待したシュネムの女も高齢出産ではなかったかなと思います。聖書はこれらの高齢出産の女性たちのお産が難産だったとは一言も書いていません。それは、祝福された女性たちの出産に神様の御守りがあったのは当然のこと、ということなのでしょうね。

当たり前のように私たちを守っている神
 神様は私たちに対しても、当たり前のように私たちを守って下さっています。この世には私たちから見ると理不尽であることもあり、神様はどうして見過ごしていたのだろうかと思う時もあります。しかし問題はむしろ、私たちのほうで神様がして下さったたくさんの良いことを見過ごしてしまっていることにあるように私は思います。
 今回私はたまたま私の先輩が脚本を書いたということで『コウノドリ』というドラマを見ており、そこで高齢出産の問題もクローズアップされていました。だからサラやエリサベツの超高齢出産のことにも思いを巡らしたわけですが、聖書にはサラやエリサベツが高齢出産で大変だったなどとは一言も書いてありません。書いていなくてもそこに神様の御守りがあったことを私たちは見過ごさないようにしたいと思います。聖書にはこの他にも、私たちが気付いていないたくさんの良いことが隠れているのだと思います。
 きょう私たちは、イエスさまが出産には適さない家畜小屋で無事に誕生したことを通して、神様は私たちの気付かないところでも、いつも見守って下さっていることに改めて思いを巡らすことができましたから、感謝したいと思います。
 聖書には、赤ちゃんとして生まれたイエスさまが30歳になった頃に人々に教え始め、また多くの病人を癒し、弱い人々を助けたことが書かれています。しかし直接には書かれていないところでも、イエスさまは多くの恵みを人々にもたらしました。その素晴らしい恵みは現代の私たちにももたらされていますから、本当に感謝に思います。

おわりに
 イエス・キリストがこの世に生まれて下さったことを私たちは心一杯感謝し、最後にご一緒に「きよしこの夜」を歌いたいと思います。
 その前に、一言お祈りいたしましょう。
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2015クリスマス行事のご案内

2015-12-24 21:00:15 | 特集
12月20日(日)クリスマス礼拝  午前10時半~
12月20日(日)クリスマスの集い 午後2時~
12月24日(木)キャンドル・サービス 午後7時~

どなたでも参加できます。お気軽に教会にお越し下さい。

チラシを見る
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2015クリスマス集会

2015-11-29 05:55:04 | 特集
12月20日(日)クリスマス礼拝  午前10時半~
12月20日(日)クリスマスの集い 午後2時~
12月24日(木)キャンドル・サービス 午後7時~


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さんびと聖書のつどい(2015.7.20 千本プラザ)のご案内

2015-07-20 05:39:03 | 特集
<さんびと聖書の集い>
 日時:7月20日(月・祝)午後2時~3時半
 場所:千本プラザ(沼津市)2階・大会議室

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母の日招待礼拝のご案内

2015-05-07 16:23:47 | 特集
 母の日招待礼拝のご案内
 日時:5月10日(日)午前10時半~11時40分
 場所:インマヌエル沼津キリスト教会



5月 第2聖日 母の日招待礼拝順序

 司  会               矢崎兄
 奏  楽               関姉

 前  奏
 讃 美 ①  威光・尊厳・栄誉     253
 交  読  詩篇23篇 全
 使徒信条
 主の祈り
 祈  祷
 讃 美 ②  若葉のもえるナザレの里  106
 証  し               丹野姉
 聖  書  ローマ16:1~4
 説  教  『竹鶴リタと村岡花子 』 小島牧師
 讃 美 ③  いつくしみ深き      432
 献  金
 感謝祈祷               矢崎姉
 頌  栄  父・子・聖霊の       271
 祝福の御言葉
 後  奏
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羊飼いたちの感動(2014.12.24 キャンドルサービス)

2014-12-25 20:45:26 | 特集
2014年12月24日キャンドルサービス・メッセージ
『羊飼いたちの感動』
【ルカ2:8~20】

はじめに
 こんばんは。教会にようこそいらして下さいました。
 この教会のクリスマス・イブの集いで、皆さんと共にイエス・キリストの誕生をお祝いできることを、心から感謝したいと思います。これから10分少々、聖書の話をさせていただきます。
 いま読んだ聖書の箇所は、クリスマスには、とても良く開かれる箇所です。イエス・キリストが生まれた夜、羊の番をしていた羊飼いたちの所に御使い(天使)が現れて、救い主が誕生したことを告げました。それを聞いた羊飼いたちはベツレヘムの町に出掛けて行き、飼葉おけに寝ている赤ちゃんのイエスさまを捜し当てたという記事です。きょうは、この羊飼いたちが味わった喜びと感動を、私たちもまた共に味わうことができたらと願っています。

ひどく恐れた羊飼いたち
 きょうの聖書箇所の前のところには、ベツレヘムというダビデの町で赤ちゃんのイエスさまが生まれるまでのことが記されています。イエスさまの両親のヨセフとマリヤは、住民登録のために、ヨセフの祖先のダビデの町に来ていましたが、宿屋に泊まることができませんでした。ちょうどその頃に身重だったマリヤが産気づいたので、家畜小屋でイエスさまを産んで飼葉おけに寝かせたのでした。御使いはこのことを羊飼いたちに知らせに来ました。
 御使いが羊飼いたちのところに来た時、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れたとあります。それは夜中のことでしたから、暗い場所が急に明るい光で照らされたら、それは驚くでしょう。私もつい最近、暗い所で強い光を見てドキッとする経験をしました。何日か前の夜、ふと窓の外を見たら星がとてもきれいだったので、海岸の堤防で星空を見たいと思って、少し厚着をして堤防の上に行きました。その時、いくつか流れ星が見えました。あまり明るくない流れ星なら別に驚くことはないのですが、この時は短い時間の間に二つも、とても明るい流れ星が流れました。周りがとても暗い中で急にとても明るい強い光の流れ星が出現すると、ドキッとします。このルカの福音書の羊飼いたちの場合は、真っ暗な牧場が急に明るくなって御使いが現れたのですから、さぞ驚いたことでしょうね。恐れる羊飼いたちに、御使いは言いました。

「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2:10,11)

 御使いは、「この民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです」と言いました。御使いは、ユダヤの民全体のための素晴らしい喜びを、貧しい羊飼いたちに、まず教えに来てくれたんですね。裕福な人々ではなく、まず貧しい羊飼いたちに知らされました。これは、素晴らしい恵みでした。そして、まず羊飼いたちに喜びが伝えられたことは、他にも、いろいろな意味が込められていると思います。

羊飼いの大先輩のダビデ王
 例えばダビデの町のダビデというのは羊飼いと大変に深い関係にありました。ダビデというのは、ヨセフの祖先ですが、この国の王様だった人物です。しかしダビデが王様になる前は、ダビデは羊飼いをしていました。ですから、羊飼いたちにとっては、大先輩だったんですね。
 ダビデは、とても勇敢な王様で多くの戦いに勝利しましたが、羊飼いだった時にも非常に勇敢で、熊やライオンが羊を食べに来た時、ライオンや熊とも戦ってやっつけたと聖書には書かれています。
 そして、ダビデは単に勇敢なだけではなく、竪琴の名手でもあり、ダビデが弾く竪琴は人の心を慰めていました。また、ダビデは詩人でもあり、たくさんの詩を書いて残しました。詩篇の第23篇という有名な詩で、ダビデは次のように書いています。

23:1 【主】は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。

 かつてダビデは羊飼いとして、羊たちの命を危険から守っていました。そして、羊たちが安心してノンビリと緑の牧場で暮らすことができるよう、いつも見守っていました。
 私たち人間もまた、とても弱い者たちです。そんな弱い私たちを神様は、いつも守って下さり、平安を与えて下さると、ダビデは、この詩に書いて詩いました。もう一度、今の詩をお読みします。この詩の「主」というのは、神様のことです。

23:1 【主】は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。

 ダビデは神様への信仰が篤かったので、神様のことを全面的に信頼していました。それで神様もダビデの王国を祝福して繁栄させて下さいました。

暗い心を明るく照らした救い主の誕生
 ところがダビデの子孫たちは、神様から段々離れて行ってしまい、神様との契約、約束も守らなくなって行ってしまいました。それで、神様は、もうダビデの子孫たちの王国を見放してしまいました。そのためにユダヤの王国は滅んでしまって、ペルシャやギリシャやローマに支配されるようになってしまいました。もしユダヤが大国に支配されずに、ダビデの王国が続いていたなら、ヨセフはダビデの子孫ですから、ヨセフも王様になっていたはずです。しかし、ヨセフは貧しい大工でした。国が弱い時というのは、特に貧しい人々の暮らしはとても大変です。羊飼いたちもまた、貧しい者たちでした。しかも夜中も寝ずに羊の番をしなければならない、とても大変な仕事です。ユダヤがローマに支配されていてユダヤ人の全体がなかなか希望を持てないでいた中、貧しい羊飼いたちは、なおさら希望を持てないでいたのではないでしょうか。
 そんな暗い生活をしていた羊飼いたちの目の前が突然明るくなり、御使いがこう言ったんですね。

「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」(ルカ2:10-12)

 そうして天の軍勢が現れて、神を賛美して言いました。

「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」(ルカ2:14)

 これを聞いた羊飼いの心の中は、どんなにか明るく照らされたことでしょうか。羊飼いたちは、喜んで、このことをベツレヘムの町まで確かめに行き、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ているみどりごのイエスさまを捜し当てました。
 そして、きょうの最後に読んだ箇所の20節にあるように、羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行きました。この時の羊飼いたちの喜びと感動は、本当に大きなものであったことでしょう。

魂に安らぎを与えて下さる救い主
 そしてイエス・キリストは、単にユダヤ人のための救い主になっただけでなく、世界中の人々の救い主になりましたから、世界中の教会が、毎年クリスマスに、イエスさまの誕生をお祝いするようになりました。
 クリスマスのチラシにも書きましたが、イエス・キリストは永遠の中を生きていますから、イエス・キリストは二千年前の人々だけではなく、現代の私たちのための救い主でもあります。聖書のマタイの福音書には、イエスさまが次のようにおっしゃったことが記されています。

 11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。

 こうして、イエスさまは現代においても、世界中の人々の魂に安らぎを与えて下さっています。西洋人も東洋人も区別なく安らぎを与えて下さいますから、日本人の私たちも、その恵みをいただくことができます。このように私たちを救うために、この世に生まれて下さったイエスさまに心から感謝したいと思います。

おわりに
 きょうのこのクリスマスイブの集いの後半は、是非このことに感謝しながら、賛美を楽しみたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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2014クリスマス行事のご案内

2014-12-25 18:29:41 | 特集
12月14日(日)クリスマスの集い 午後1時半~
12月21日(日)クリスマス礼拝  午前10時半~
12月24日(水)キャンドル・サービス 午後7時~

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幼子イエスを抱く恵み(2014.12.14 クリスマスの集い)

2014-12-17 19:26:24 | 特集
2014年12月14日クリスマスの集い
『幼子イエスを抱く恵み』
【ルカ2:25~33】

はじめに
 クリスマスの集いにようこそいらして下さいました。毎年、今の時期には、クリスチャンではない日本人も多くの方々がクリスマスをお祝いします。街にはクリスマスの飾り付けがされてクリスマスソングが流れ、人々はクリスマスプレゼントを買い求めます。
 私はキリスト教会の牧師として、このことを、とてもうれしく思います。クリスマスがイエス・キリストの誕生を祝う行事であることを、多くの日本人は知っていて、その上で祝っているのですから、やはり、これはうれしいことです。そして、このクリスマスをきっかけにして、聖書のことをもっと知っていただけたなら、さらに喜ばしいことだと思います。

幼子イエスがわかったシメオン
 きょうのメッセージでは、イエス・キリストが生まれてしばらく経ってから、シメオンという年老いた敬虔な信仰者が、幼子のイエス・キリストを抱いた記事を、共に味わってみたいと思います。
 この日、イエスの両親のヨセフとマリヤは、幼子のイエスを連れてエルサレムの神殿に来ていました。この時はまだイエス・キリストは幼子であってキリスト教は始まっていませんでした。ですから、これは宗教的な儀式が旧約聖書のしきたりに則って行われていた時のことです。
 ヨセフとマリヤが旧約聖書のしきたりに従って幼子のイエスを連れてエルサレムの神殿に来た時、そこにシメオンも来ていました。このシメオンは正しい敬虔な人で、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、神様からのお告げを受けていました。
 そしてシメオンは、幼子のイエスを見た時に、この幼子こそがキリストであることがわかったのですね。これは驚くべきことではないでしょうか。なぜならイエスの両親のヨセフとマリヤはエルサレムの住人ではありませんでしたから、エルサレムに住んでいたシメオンとは全く面識がありませんでした。さらに言うなら、この時点では、恐らくユダヤの王のヘロデ王でさえ、幼子が生まれたことを知らなかったのではないかと思います。ヘロデ王は東方の博士の訪問を受けて初めて幼子の誕生のことを知りました。東方の博士たちが星を見て幼子の誕生を知り、ヘロデのもとに行くまでには、それなりの時間が掛かったと思いますから、シメオンが幼子を抱いたのは、ヘロデ王が幼子の誕生を知る前だったのではないかと思います。シメオンはヨセフとマリヤと面識もないのに幼子の誕生を知り、さらには二人が連れていた幼子がキリストであることがわかったのですね。シメオンは、神の霊の聖霊に満たされていたので、そのようなことがわかったのでしょう。
 そうしてシメオンは、この幼子を自分の腕に抱きました。

私たちの心に安らぎを与えるイエスのことば
 きょう話したいことは、この幼子を抱いたシメオンとは、私たちのことでもあるということです。どういうことかというと、シメオンは私たちを代表して幼子を抱いてくれたということです。
 21世紀にいる私たちは、1世紀に人として生まれたイエス・キリストに直接会うことはできませんが、聖書のことばを通して会うことができます。しかし、ことばを通して会うことができるイエス・キリストは30歳ぐらいのイエス・キリストです。イエスさまは30歳ぐらいまでは目立った伝道活動はしておらず、30歳になった頃に、神の教えを宣べ伝え始めました。そして聖書には、その30歳ぐらいのイエスさまが人々に話したことばが記録されていますから、私たちは聖書のことばを通してイエス・キリストと出会うことができます。
 ことばは時間と空間を越えて私たちに届きます。ことばには、そのような不思議な働きがあります。旧約聖書のイザヤ書は、ことばについて、次のように書いてあります。

 「草は枯れ、花はしぼむ。
  だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ40:8)

 草花は元気な時はシャキッと立っていても、時間が経てばやがてしおれて、うなだれてしまいます。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ、とイザヤは言いました。私たちの神のことばは永遠にしおれることがなく、力強く私たちの心に迫り、励ましを与えてくれます。ことばには、そのような不思議な力があります。
 ですから私たちは聖書を通してイエスさまのことばを聞き、励ましを受けることができます。聖書にはイエスさまのことばが数多く記されていますが、たとえばマタイの福音書には、このようなイエスさまのことばがあります。

11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。

 イエスさまは、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」とおっしゃいました。そして私たちの魂に安らぎを与えて下さいます。単に心や体に安らぎを与えて下さるだけでなく、もっと心の奥深い所にある魂に安らぎを与えて下さいます。
 このように、イエス・キリストのことばは、時間を越えて21世紀の私たちにも届きます。そうして私たちの魂には安らぎが与えられます。
 では、幼子のイエスさまは、私たちにどのような恵みを与えてくれるでしょうか。幼子のイエスさまは、まだ話すことができません。話すことができないイエスさまからは、私たちはことばを聞くことができません。

無言の幼子イエスも私たちに安らぎを与える
 そうであるからこそ、私たちを代表して幼子のイエスさまを抱いてくれたシメオンの役割はとても重要です。私たちはイエスさまの両親のヨセフとマリヤとは面識がありません。シメオンもまた、ヨセフとマリヤとは面識がありませんでした。しかし、聖霊に導かれてシメオンはヨセフとマリヤに近付き、幼子のイエスさまを抱く恵みに与ることができました。このようにシメオンが私たちを代表してイエスさまを抱いてくれましたから、私たちもまた、幼子のイエスさまを抱く恵みに与ることができます。
 そうして幼子のイエスさまを抱くことで私たちは、魂に安らぎを得ることができます。幼子のイエスさまはことばを話すことができませんが、私たちは幼子のイエスさまを抱くことで魂の安らぎを感じることができます。
 私たちは幼子のイエスさまではない、普通の幼子であっても、幼子を抱くとき、安らぎを感じることができます。それは、どうしてでしょうか。いろいろなことが考えられると思いますが、一つには、幼子には罪汚れが無いということが挙げられるでしょう。私たち大人は成長するに連れて、心にいろいろと汚いものを付けてしまい、そのドロドロの中で時にくたびれ果ててしまいます。しかし、生まれたばかりの幼子はまだ、何の汚れもありません。そのことが私たちの心に安らぎを与えてくれるのでしょう。
 ましてイエスさまは神の御子であり、成長してからも罪を持たないお方でした。それゆえ、私たちの罪を背負い、十字架に付いて私たちの罪を処罰して下さることができました。こうして私たちは罪の奴隷状態から解放されましたから、これは素晴らしい救いの恵みです。幼子のイエスさまの誕生は、その素晴らしい救いの恵みを約束するものでした。

互いに愛し合うべき私たち
 幼子を抱いたシメオンは言いました。

2:29 「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。
2:30 私の目があなたの御救いを見たからです。

 シメオンは自分の目で約束の御救いを見ることができたので、安心して、この世を去ることができると言いました。そしてシメオンはさらに、

2:31 御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、
2:32 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。

と言いました。救いは神様がすべての人のために備えて下さったものです。それゆえ、ユダヤ人だけではなく、世界中の人々がその救いの恵みに与ることができます。
 そのことを約束する神の御子を、シメオンは自分の腕に抱きました。それゆえ私たちもまた幼子のイエスさまを腕に抱くことができ、私たちの魂には安らぎが与えられます。
 成長したイエスさまは十字架に付く前の日、最後の晩餐で弟子たちの足を洗い、「互いに愛し合いなさい」とおっしゃいました。
 しかし、私たちは、どうでしょうか。私たちは、なかなか互いに愛し合うことができず、争い事の中で疲れ果てることを繰り返しているのではないでしょうか。
 そんな時は、私たちの腕の中には幼子のイエス・キリストがいることを思いたいと思います。幼子を腕に抱いたままで私たちは、人と争い事をするでしょうか。多くの場合、私たちは自重するでしょう。まして、それが幼子のイエスさまであるなら、私たちの魂に安らぎを与えて下さる方ですから、きっと心に平安を与えて下さり、互いに愛し合う心を与えて下さるでしょう。

おわりに
 このように幼子のイエスさまを抱く恵みを私たちにも分け与えてくれたシメオンに心から感謝したいと思います。
 お祈りいたしましょう。

2:28 すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
2:31 御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、
2:32 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」
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平和と聖書(2014.9.15 さんびと聖書の集い)

2014-09-18 12:59:43 | 特集


































































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「さんびと聖書の集い」(2014.9.15 千本プラザ)のご案内

2014-09-15 15:30:00 | 特集
<さんびと聖書の集い>
 『平和と聖書』
 日時:9月15日(月・祝)午後2時~3時半
 場所:千本プラザ(沼津市)2階・大会議室
  → チラシを見る
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さんびと聖書の集い(2014.9.15)のご案内

2014-08-28 11:45:15 | 特集
<さんびと聖書の集い>
 『平和と聖書』
 日時:9月15日(月・祝)午後2時~3時半
 場所:千本プラザ(沼津市)2階・大会議室

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魂の安らぎを求めて(2014.4.30 K兄 告別式)

2014-05-01 10:33:47 | 特集

   故 K兄 告別式
             召天日:2014年4月27日

             日時:4月30日午前10時半
             会場:原 平安典礼会館
             司式:小島 聡 牧師

前奏
賛美   聖なるかな(16)          一 同
聖書   マタイ11章28~30節      司式者
祈り                       司式者
弔電紹介
賛美   主よ、みもとに近づかん(407) 一 同
説教   『魂の安らぎを求めて』      司式者
賛美   いつくしみ深き(432)      一 同
頌栄   父・御子・御霊の          一 同
終祷                       司式者
後奏
挨拶                      遺族代表
献花

●聖書
《 マタイの福音書11章28~30節 》
28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。

●説教
『魂の安らぎを求めて』
【マタイ11:28~30/詩篇42:1~5】

《 詩篇42篇1~5節 》
1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
2 私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。
3 私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。人が一日中「おまえの神はどこにいるのか」と私に言う間。
4 私はあの事などを思い起こし、私の前で心を注ぎ出しています。私があの群れといっしょに行き巡り、喜びと感謝の声をあげて、祭りを祝う群集とともに神の家へとゆっくり歩いて行ったことなどを。
5 わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。

 K兄は1944年の10月にお生まれになりました。そして、私たちの教会であるインマヌエル沼津キリスト教会で洗礼を受けたのは、2001年4月の、56歳の時でした。イエス・キリストを信じて洗礼を受け、新しい生活を始めることをキリスト教では「新生」と呼びます。「新生」とは新しく生まれることで、心が新しく生まれ変わることを指します。K兄は0歳の時に赤ちゃんとして、この世に生まれ、56歳の時に、心が新しく生まれ変わり、新しい生活を始めました。心が新しく生まれ変わった後の生活とはどのような生活かと言うと、それは心の内側にある「魂」を神様に委ねる生活のことです。
 私たちは、自分には心というものがあることを良く知っています。私たちは喜んだり悲しんだりする時に、自分の体の内側には心というものがあることを感じます。しかし、体の内側の心の、そのさらに内側にある魂の存在には、なかなか気付いていません。自分の魂の存在は、自分の心によって覆い隠されていると言っても良いでしょう。しかし、愛する家族の突然の死や、想定外の過酷な事態などによって心にヒビが入ると、心の内側にある魂に痛みを感じます。私たちの皮膚が乾燥するとヒビが入り、皮膚の内側の部分に激しい痛みを感じるように、心にヒビが入ると、心の内側にある魂の痛みが、わかるようになります。
 私たちの魂を覆っている心の表面は、普段は鎧のように固くなっています。それは、私たちが、他の人から傷付けられることを恐れて、心を防御しているからです。私たちは自分の心をプライドや優越感で塗り固めて、人から傷付けられることを防ごうとします。このプライドや優越感は、なかなかやっかいな代物で、例えば劣等感の塊りのような人であっても、他人の自分よりも劣っている部分を一生懸命に探し出して、つまり粗探しをして、自分はあの人よりはマシだと思おうとします。人はそうやって優越感に浸り、自分のプライドが傷付くのを防ごうとします。そうして人はプライドや優越感などによって心の表面を鎧のように覆っています。
 しかし、そのように心の表面を鎧で覆っている間は、人は神様の存在になかなか気付くことができません。なぜなら神様は、自分の弱さを認める者だけに、力を与えて下さる方だからです。というよりも、神様は全ての人に力を与えたいと願っているのですが、人の側が、自分で装着した心の鎧によって神様からの助けを拒んでいるのです。
 そのような心の鎧による鉄壁の防御も、愛する家族の死のような突然の悲しみに襲われるとヒビが入り、そのヒビ割れを通して神様の存在を感じることができるようになります。そして、そのヒビ割れの隙間から神様は私たちに力を与えて下さいますが、もし心の鎧を全て脱ぎ去って、自分の弱さを完全にさらけ出すなら、神様は圧倒的な存在感で私たちの前に現れ、私たちに大きな力を与えて下さいます。
 K兄が教会に来るようになったのは、兄の奥様のY姉の妹さんのMさんが、山で遭難して亡くなったことが、きっかけであると伺っています。K兄は設計事務所を営んでおられ、主に河川に架ける橋の設計をしていたそうです。そして、Mさんは兄の設計事務所の仕事を手伝っていました。身近な親族であり仕事の良き助け手でもあったMさんが山で遭難して亡くなるという、予期せぬ突然の出来事で悲しみに襲われた時、K兄の心にヒビが入り、魂の痛みを感じたのでしょう。
 そうして、魂の痛みを癒すことができるのは神様しかいないことを感じたK兄は、神様を求めて教会にやって来ました。
 その時のK兄は、先ほどお読みした詩篇42篇のようであったのだろうと思います。1節と、2節の前半をお読みします。

1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
2 私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。

 当時のK兄は、自分の魂が神を欲していることを、頭ではまだ十分に理解できていなかったと思います。しかし、K兄は魂の欲するままに行動して教会に辿り着きました。そうして教会で聖書を学び始めることで、自分の魂が何を欲していたのかを、やがて頭でも理解できるようになり、少しずつ心の鎧を脱いでゆきました。そうして自分の弱さを認めることでイエス・キリストを信じることができるようになり、洗礼を受けて新しく生まれ変わったのでした。
 私がこの沼津の地の教会の牧師として着任したのは去年の4月ですから、いま話したことには、私の想像が多分に含まれています。しかし私の想像は、そんなに大きくは間違っていないだろうと思います。なぜなら私自身もかつて、愛する家族の突然の死によって心にヒビが入り、魂に痛みを感じて教会へと導かれた者だからです。私が教会で洗礼を受けたのは、K兄と同じ2001年のことでした。その2001年に、私の父がすい臓ガンで亡くなりました。父は、すい臓にガンが見つかってからわずか1週間で亡くなってしまいました。少し前までは全く予期していなかった父との突然の別れによって、私の心にはヒビが入り、痛みが走りました。そんな時、ふと私は、クリスチャンの友人に以前から誘われていた教会に行ってみようと思いました。それで私は、友人が通っている東京の教会に連れて行ってもらいました。そして、そこで聞いた聖歌隊の賛美歌のコーラスによって、私の心の奥深い所にある痛みが癒されるのを感じました。それは、とても不思議な体験でした。その時の私は聖書のことなど全くわかっていませんでしたから、私の頭が神のことを理解したのではなく、私の魂が神を感じて癒されたのでした。
 私の魂もまた、詩篇42篇のように神を求めて、あえいでいたのですね。42篇の1節と2節の前半を、もう一度、お読みします。

1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
2 私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。

 現代社会の中で忙しい生活を送っている私たちは、多くのストレスを抱えています。それらのストレスは、時に旅行に行ったり映画を観たりして気分転換をはかれば解消するものもあります。しかし、もし魂が神を求めてあえいでいるのに、それに気付いていないことがストレスの原因になっているのなら、旅行や映画でそのストレスを解消することはできません。そのようなストレスは、心の鎧を脱いで、魂が神様によって癒されることによってしか、解消できません。
 きょうの式の最初のほうで、マタイの福音書をお読みしました。マタイの福音書11章28節を、もう一度、お読みします。

28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

 これはイエス・キリストのことばです。イエス・キリストは、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」とおっしゃいました。K兄の心にヒビが入って魂に痛みを感じた時、K兄はこのイエス・キリストの声を魂で聞いて、教会へと導かれました。
 イエス・キリストは、すべての人に対して「わたしのところに来なさい」と声を掛けています。しかし、魂が心の鎧で覆われている間は、その声を聞くことはできません。それでも、たとえ魂が心の鎧で覆われていたとしても、長い人生の間には何度か、心にヒビが入ることがあるでしょう。その心のヒビ割れを通して私たちは、「わたしのところに来なさい」というイエス・キリストの声を、魂で聞くことができます。私自身もまた、そのようにして、教会に導かれました。
 ですから、イエス・キリストが言う「わたしがあなたがたを休ませてあげます」とは、私たちの体を休ませるという意味ではなく、私たちの魂を休ませる、ということです。そうしてイエス・キリストは私たちの魂に安らぎを与えて下さいます。
 14年前にK兄はイエス・キリストの「わたしのところに来なさい。わたしがあなたを休ませてあげます」という声を、魂で聞いて教会を訪れ、魂に安らぎを得ることができました。そうして、今週の日曜日の4月27日に、兄は天の主のみもとに召され、今や完全な安らぎの中におられます。ですから、私たちは、K兄のことについては、今や心配する必要は、まったくありません。このことを、心から感謝に思います。
 そして神様は、まだ地上にいる私たちの全てに等しく天からの慰めを与えて下さっています。イエス・キリストはまた、マタイの福音書の別の箇所で、「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから」(マタイ5:4)とも言っています。

「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。」

 悲しむ者は幸いとは、何と幸いなことでしょうか。
 きょうのK兄とのお別れの時に際して、兄の信仰を通して、このような幸いについて分かち合う時がいただけたことを、兄と神様に心一杯、感謝したく思います。
 一言、お祈りさせていただきます。

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弱い時にこそ強い(2014.4.29 K兄 前夜式)

2014-05-01 09:15:43 | 特集

       故 K兄 前夜式
             召天日:2014年4月27日

             日時:4月29日午後6時半
             会場:原 平安典礼会館
             司式:小島 聡 牧師

前奏
賛美 主よ、みもとに近づかん(407) 一 同
聖書 詩篇23篇 全            司式者
祈り                       司式者
説教 『弱い時にこそ強い』        司式者
賛美 いつくしみ深き(432)       一 同
頌栄 父・御子・御霊の           一 同
終祷                      司式者
後奏
挨拶                     遺族代表
献花

●聖書
《 詩篇23篇 全 》
1 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

●説教
『弱い時にこそ強い』
【詩篇23篇全/Ⅱコリント12:9~10】

《 コリント人への手紙第二12章9~10節 》
9 主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

 K兄は、ちょうど1年前の4月に脳梗塞で倒れて3度目の入院をして、それ以来、ずっと入院しておられました。それ以前にも2回、脳梗塞で倒れて入院したことがあったそうですが、2回とも退院できるまでに回復されていました。しかし、3度目に入院した時には症状がかなり重くて、ご自分で体を動かすことができなくなり、そしてまた、人と会話をすることができなくなりましたから、ずっと入院したきりになってしまっていました。
 私はK兄が入院していた病院に、何度かお見舞いに行かせていただきましたが、私がこの沼津の地に教会の牧師として着任したのは、昨年の4月でしたから、結局私は、K兄と会話を交わすことができませんでした。しかし、お見舞いに行くとK兄はいつも眼をしっかりと見開いて私の方を見て下さり、また時には私が話し掛けることばに微かに反応もして下さいました。病院では苦しそうにしておられることもありましたが、穏やかにしておられる時もありました。特に先週の木曜日にお見舞いに行った時には、大変に穏やかにしておられました。この1年の間には、何度も危篤の状態になったことがありましたが、その都度、危機を脱していたので、K兄の強靭な生命力にはお医者様も驚いていたとのことでした。

 このように、病床にいたK兄は、一見すると弱い体をベッドに横たえていたように見えていましたが、実はその内側には、驚くべき強さが与えられていました。この強さは神様が与えて下さったものに他ならないと私は思っています。イエス・キリストを信じて洗礼を受け、クリスチャンとなったK兄の内には神様の霊である聖霊が入り、内側からK兄を強めて下さっていました。
 K兄が洗礼を受けたのは2001年のことです。実は、私が洗礼を受けたのも2001年のことでした。この年に私の父がすい臓ガンで亡くなったのですが、ガンが見つかってから、わずか1週間であっという間に父はこの世からいなくなってしまいました。その渦中にいる時には、私は何が何だかわかりませんでしたが、後から考えてみると、その急展開の1週間を過ごす中で、私は、人間がいかに無力な存在であるかということを思い知らされ、教会へと導かれ、そうして神様と出会ったのでした。

 K兄が教会へと導かれたのも、義理の妹さんが急に亡くなったこと、すなわち奥様のY姉の妹さんのMさんが山で遭難して亡くなったことがきっかけだったと伺っています。ですから私は、私自身の経験に照らして、K兄もまた人間が無力で弱い存在であることを知り、そして自分もまた無力で弱い存在であることに気付き、そうして神様に出会うに至ったのではないかと想像しています。神様とは不思議な存在で、自分で自分のことを強いと思っている間は決して気付くことができない存在です。しかし、自分の弱さを認める者に対しては、神様は圧倒的な存在感を示して現われて下さいます。

 そのことは、今お読みした新約聖書のコリント人への手紙第二の12章からも分かります。このコリント人への手紙とは、使徒パウロがギリシャのコリント人に宛てて書いた手紙です。パウロはユダヤ人でしたが、パウロがキリストの教えを説いた相手は主に、ユダヤ人から見たら外国人であるギリシャ人やローマ人たちに対してでした。このようなパウロたちによる外国人への伝道の働きによってキリストの教えは世界へと広がって行き、やがて日本にも伝えられました。しかし、キリストの教えを外国人に伝えることは、様々な困難を伴いました。それゆえ、パウロもまた様々な困難を味わいました。それらの困難はパウロの肉体の外側からも内側からも苦痛を与え、パウロの体をすっかり弱くしてしまっていました。それで、パウロは神様に苦痛を取り去って欲しいと祈り願っていました。それに対して神様は、パウロに答えました。それがプログラムに印刷されている9節のことばです。

「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」

 苦痛を取り去ってほしいと神に願ったパウロにとっての神の恵みとは、苦痛が無くなることでした。激しい苦痛の中でパウロは神の恵みを感じられないでいました。しかし、そんなパウロに対して神様は、「わたしの恵みは、あなたに十分である」と言いました。つまり神様は、「わたしはあなたに十分な恵みを与えているんだよ」とおっしゃった、ということです。というのは、神の力は、人が弱ければ弱いほど、より強く現われるからだと神様はパウロに言いました。パウロは心も体もすっかり弱り切っていましたから、神の力は、正に、その弱さのうちに完全に現れたのでした。この言葉を聞いたパウロは、続いて、このように書きました。

「ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」

 さらにまたパウロは、10節のように書きました。

「ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」

 キリストの力は、私たちの体の外側よりも、むしろ内側を強めて下さいます。それゆえパウロは、10節で、「私が弱いときにこそ、私は強い」とコリント人への手紙に書いたのでした。
 K兄もまた、病院のベッドの上にあって肉体は完全に弱っておられましたが、K兄の内側はキリストの力によって強められていたのだと私は思います。だから、お医者さんが驚くほどの強靭な生命力を示しておられたのだと思います。

 神様が弱い者に力を与えて下さる存在であることは、きょうの始めにお読みした詩篇23篇からも、またわかります。この詩篇23篇は旧約聖書の時代にイスラエルの王であったダビデが書いたものです。ダビデ王もまた波瀾万丈の生涯を送った人物であり、様々な困難の中を通りました。その困難の中でダビデの心と体が弱り切ってしまったことは、一度や二度ではありませんでした。しかし、神様はそんなダビデを内側から強めて下さいました。ダビデは詩篇23篇で、自分を羊にたとえ、神様を羊飼いに例えています。羊はとても弱く、臆病な動物です。羊飼いは、その弱い羊をしっかりと守っています。
 K兄の奥様のY姉は、K兄が危篤の状態にあった時、兄のベッドの横で詩篇23篇を読み、神様に祈っておられました。そうして弱い羊であったK兄の内には、お医者さんも驚くほどの強い力が神様から与えられました。
 詩篇23篇でダビデは、まず1節で、

1 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

と言っています。「乏しいことがない」とは、ダビデには十分な恵みが与えられていた、ということです。これはパウロに対して神様が、「わたしの恵みはあなたに十分である」と言ったのと同じですね。ダビデもまた十分な恵みの中におり、それはまるで2節にあるように、緑の牧場と水辺にいるようでした。そうして、ダビデの魂は生き返ることができました。このようにして、神様が共にいて下さり、守っていて下さっていましたから、ダビデは4節にあるように、「死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」という心境になっていました。
 Y姉が読む詩篇23篇のこの4節に、K兄はどんなに力付けられたことでしょうか。K兄の耳はしっかりしていましたから、姉が読む詩篇23篇を聞き、力を得ていたことと思います。
 神様に守られている確信は私たちの心に大きな平安を与えます。この平安はとても大きなものです。困難という敵が目の前にあっても、なお食事が取れるほどの大きな平安です。ですから、ダビデは、

5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。

と詩っています。この5節の後半にある、注がれた油、そしてあふれている杯とは、現代においてイエス・キリストの恵みをいただいている私たちにとっては、神の霊、すなわち聖霊のことであると考えて良いでしょう。神様は弱い羊である私たちに、聖霊を溢れるほど豊かに注いでくださいます。
 それゆえ、私たちは、この世においても、神様のいつくしみと恵みとに包まれ、また、この世の生涯を終えた後の世においても、主の家に住んで、永遠の世界に入ることができます。私たちは、この世においても、後の世においても、主に守られ、平安の中にいることができます。これが6節でダビデが言っていることです。

 いまK兄は神のみもとにあり、永遠の中で神様の平安に包まれています。この世にあって病院のベッドの上にいた時には、肉体の様々な苦痛があったことと思いますが、K兄の内側は強められていました。そして今は全てから解放され、内も外も無い、完全な平安の中にいます。そして、神様は、まだこの世にいる私たちにも平安を与えて下さっています。K兄を失ったご遺族、そして私たちは悲しみの中におり、その悲しみのゆえに弱さの中にいますが、神様は弱い者にこそ力を与えて下さいますから、そのことを心から感謝に思います。
 K兄が弱さの中にこそ強さがあることを、ご自身の身をもって示して下さったことに心から感謝したく思います。
 一言、お祈りさせていただきます。

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2014イースター招待礼拝

2014-04-18 09:10:13 | 特集
2014年4月20日午前10時半~

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