15 コメント コメント日が 古い順 | 新しい順 神学的護教論 (豚) 2011-10-31 19:28:44 >治癒神に関わるような問題を、「正確に理解するためには、何よりも正統とか異端といった硬直したキリスト教理解から解放されることが必要である。」山形氏は「聖書の起源」の中で、イエスが福音書の中に書かれているように、奇跡的な方法で病気を癒したのかどうかを研究する事について、こう書いてます。「この素朴な疑問の背後には、しばしば強力な神学的護教論が隠されていて、史的イエスの論争を一層複雑なものに仕立てているからである。 それはしばしば、崩壊しかけた史的イエスの救難作業の願望と一つになっている。こうした願望が、奇跡物語をはじめ、福音書に映し出された治癒神イエスの研究をどれだけ阻害してきたか。」P127NJさんは、山形氏が「キリスト教信仰と、自分の疑問から始まる研究の結果による史的認識を、矛盾無く同時に持っている」とお考えでしょうか?私が読んだ「聖書の起源」は、1976年ごろですので、その後山形氏の気持ちも変わったのかも知れませんが、私がこの本を読んで感じたのは、「歴史研究者」としての山形氏ですね。彼が、学者として、一定の事実と推論に至ったのは、「神学的護教論」を排除したからだと思ってますが。 返信する 仰るとおり (NJ) 2011-10-31 23:47:50 > 山形氏が「キリスト教信仰と、自分の疑問から始まる研究の結果による史的認識を、矛盾無く同時に持っている」と考えるか?彼はキリスト教信仰から離れていたと考えます。宗教人類学者として神学的護教論とは無縁であったと理解しています。(彼は研究の結果、理解が開けて自由を得た。)しかし、最近の版のあとがきを読むと、聖書を昔の大きな物語を克明に映し出す歴史遺産と位置づけたり、「特別な知によって書かれた生きるための実用書ではなかったか」など聖書の価値を再確認する言葉が見えます。柔軟なキリスト教理解から。(「聖書を読み解く」、「聖書の起源」)。私は76, 79年の「思想」の記事を読んで以来のことで、その後単行本になったものは少し易しく書かれてるように見えます。(もっと重厚なものを頭に描いていた。) 返信する 信仰と真実 (豚) 2011-11-01 10:25:10 >その後単行本になったものは少し易しく書かれてるように見えます。(もっと重厚なものを頭に描いていた。)私には読みやすくてよかったです。しかし、もう少し、突っ込んだ根拠となる資料等も、見たいです。旧約のモーセ五書を、アブラハムに始まるイスラエルの民の「土地取得伝説」と説明しているのは、素直にナ得できました。遊牧民で有った、イスラエル民族が、カナンの地に定住し、遊牧民の神と農耕民族の神とどちらに従うか?と言った内容を読むと、それまで、不可解だった旧約聖書の内容がなんとなく納得できたものです。私は、信仰と真実は両立できる、両立するべきだ、と考えています。それを阻むのが、教団や、宗教指導者の利害だったら、信仰者の不幸ですね。純粋なイエスキリスト理解は、キリスト教会にとって迷惑なのかもしれませんね。 返信する 達観 (NJ) 2011-11-01 10:52:25 「賛成」、"Like" にクリックです。私は追い越されています。 返信する 心的な真理 (エリアーデ) 2011-11-21 11:18:23 少し考えさせられたので、書き込ませていただきます、僕自身はモルモン二世として育ちましたが、信仰はありません。新しい柔軟なキリスト教理解ですか・・・僕もエリアーデの書物は読みましたが、それよりもユングの方が好きです。正統と異端、という考え方よりも一番問題なのはその宗教を信じて精神的に不安定になったり社会的に問題を起こさないことが重要ですね。日本のキリスト者、モルモンを含めて精神的に病みがちな方が多いのは無意識的なものを抑圧しているからですね、簡単に言えば完璧主義になって本能的なものを抑圧するのがいけないわけですね。多分に柔軟なキリスト教理解とはユング著のヨブへの答えに書かれているように聖書を「心的な真理」としてみることだと思いますよ、聖書の記述を現実にあったこととして見るのではなく、精神的な象徴としてみると言うことでしょう。ただまぁ末日聖徒がこのような「心的な真理」という境地にまで達することができるかといえば甚だ疑問ですね。 返信する 心的な真理 (エリアーデ) 2011-11-21 16:42:00 ユングがキリスト教の問題で指摘しているのは善と悪の分離ですね。日本の福音派のキリスト教徒(全てだとはいいませんが)は戒律主義に陥りやすいそうで、自分達は絶対的に善であり対立するものは悪であるという考えが自分の無意識の部分を否定することになり双方の断絶は精神的に良くないと、モルモンはそういった傾向が強いのだと思われます。モルモン聖典に男性の完全性と対をなす十全性(善と悪両方の面を持つもの)である女性の登場人物が少ないのもそういった傾向が強いからなのでしょう、そういった面でユングはカトリックの聖母被昇天の教義を賞賛していますね。 返信する ユングが好きなエリアーデさん (NJ) 2011-11-22 10:39:12 エリアーデさん、コメントありがとうございます。日本のキリスト者が精神的に病み勝ちであるというのは気がかりですね。生真面目な民族性に加えてキリスト教に改宗する日本人に内省的な人格の人が多いためでしょうか。いずれにしても、信仰実践を続けながら知的な探求も行って心が解放されていくことを望みます。私自身も「心的な真理」を聖書に見出していく境地にはまだ遠く、生涯学び続けていくことになると思っています。(方向としては端緒についた?)ユングの紹介と「心的な真理」、よい言葉を提示していただきました。末日聖徒でそのような境地に気付いて少しでも歩み始める人が出てくることを切望している私です。(実際にはもう幾人もいるかもしれません。いないと思うのは私の無知で傲慢かもしれない。) 返信する モルモン (エリアーデ) 2011-11-22 16:50:06 今までに世界では色々な宗教が発生して消滅していきましたがそういった宗教の中には終末論を唱えたのはいいものの実際には来なかったものが多くあります。末日聖徒は文字通り終末論を唱えていますが、終末論は大母への回帰への欲求であるという見方に変えたほうがこれから先を考えると無難なのではないのかと思います、さりとてそれが信仰でもあるわけですが仮に世界が破滅してもそれは歴史の再生産であるような気がします、僕としては終末論よりも世界を様々な問題をどうやって解決していくのかという方向に世の中が向かっていってほしいんですけどね。ただここまで宗教というものを客観化してしまうと「布教する」という意味が全く無くなってしまいますので教会幹部から見ればいいものではないでしょう。しかし今の末日聖徒の体制のままだと信徒への負担というものが大きいので行き詰まりしてしまうのではないかと存じます。 返信する 18, 19世紀の背景 (NJ) 2011-11-24 10:52:31 >終末論よりも世界を様々な問題をどうやって解決していくのかという方向に世の中が向かって・・私も同意見です。そうでなければなりません。ところで、終末論、言い換えれば「福千年」を含む黙示録的(apocalyptic)思考は18C末ー19C初のアメリカに見られ、それがモルモン書に反映していると見ることができます。(マーク・D・トマス「クモラ採掘」[Digging in Cumorah]).エリアーデ的視点でしょうか。 返信する うーん (エリアーデ) 2011-11-25 10:22:18 そう考えるよりも終末論は「母なる大地への回帰の欲求」だと思います。科学的なものと折衷する信仰の行き着く先は科学信仰です、だから終末論は自分の心の中にあるものだと考えるのがいいのではないかと思います。最近の大管長の発言で、「信仰と科学の両立、進化論の許容」というものがありましたが俺からしたら非常にナンセンスですよ、紀元前4000頃に人間の心の活動が始まったとして見るべきなのではと? 返信する モルモン書 (エリアーデ) 2011-11-25 10:34:42 モルモン書はまぁ確かに偽作であろうがアメリカ思想やジョセフの深層心理を反映した書物であることは間違いないと思います。ただそこまで客観的に考えてしまうと末日聖徒の信仰が普遍的なものではなく、アメリカの一宗教、つまりは個人的なものということになってしまいます、最初の示現は伝説という見方もできる、という記事もありましたけどそうだとするならば末日聖徒は「歴史の中の流れ一つ」であるという認識に立たざるを得ないですよ。NJさんはそこら辺のことについてどう思っていますか? 返信する テクストの読み方(記号論) (NJ) 2011-11-26 16:16:55 > 終末論は「母なる大地への回帰の欲求」興味ある解釈です。エリアーデさんの考え(表現)ですか、それとも誰かの思想ですか。文芸的テクストの読み方として、読書とは想像力を用いて対話的に臨み、読み手が解釈を折り込む創造的営みであるというのがあります。(構造分析、テクストの記号学)。読むたびに新しい意味をくみ取るというのはこれによると思います。それで「母なる大地への回帰の欲求」と受けとめることも可能だと思います。しかし、書き手または語り手の意図した意味がやはり優先されるべきだと思います。正確にメッセージを受け取るために。その場合、語り手の置かれたキリスト教的環境を考慮しなければならなくなります。>モルモン書は・・アメリカ思想やジョセフの深層心理を反映した書物である異議ありません。Dan Vogel, Jess Groesbeck の著が説得力を持ち興味深いです。>末日聖徒は「歴史の中の流れ一つ」であるまさにその通りです。学んで鳥瞰図が得られることは楽しい知的経験です。 返信する Unknown (Unknown) 2011-11-27 19:44:11 もちろん世界の終わりという考え方そのものは人間の歴史と同じくらい古い。宗教人類学者のエリアーデは、終末論とは人々に天変地異や事件や罪の鎖から解き放たれるという希望を与えるものだと述べた。「世界の終わり」は母親の子宮へ回帰する一表現でもある。誕生前の快適な状態を人は夢見る。また危機の時代の不安の核心は「終わり」が来ることに由来するのではなくて、「終わり」が見えてこないところにこそある。カタストロフィーの「終わり」の後には事態は改善されると期待できるからだ。「終わり」は不安の解消の表現なのだろう。精神病理学的にも、精神分裂病の症状のひとつとしての「世界没落体験」はよく知られている。この病気が人類に全く存在しなければ、そもそも宗教というものも今のようなかたちでは存在していなかったと思われる。カルトか宗教かより書き手の意思や時代背景と書かれていますがそういったものよりも普遍的な価値観としての終末論の深層にあるものを僕は指摘しました、てっきりどこかでユングやここでもエリアーデのことを指摘しているのでそういった知識も参考にしていると思ったのですがそういうわけではないんですね、別にそれがどうしたというわけではないのですが。こんな感じでしょうか、返答してくださり有難うございます。 返信する 名前の書き忘れ (エリアーデ) 2011-11-27 19:45:06 していました(汗すいません 返信する 解釈には状況復元が原則 (NJ) 2011-11-27 21:41:06 エリアーデによる終末論の一般的(あるいは普遍的)、心理面からの解釈だったのですね。私は聖書、キリスト教関連のテクストはそれが語られた時の「状況」復元が基礎的な作業という考え方(山形孝夫)によってコメント致しました。これは何かを解釈する場合重要な点であると思います。(深層に潜在的にある、またはたどれると考えられる概念や期待を拒否するわけではありません。そして現代にあって新しい解釈で代える智慧も除外するわけではありません。) 返信する コメントをもっと見る 規約違反等の連絡 コメントを投稿 goo blogにログインしてコメントを投稿すると、コメントに対する返信があった場合に通知が届きます。 ※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます 名前 タイトル URL ※名前とURLを記憶する コメント ※絵文字はJavaScriptが有効な環境でのみご利用いただけます。 ▼ 絵文字を表示 携帯絵文字 リスト1 リスト2 リスト3 リスト4 リスト5 ユーザー作品 ▲ 閉じる コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。 コメント利用規約に同意する 数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。 コメントを投稿する
山形氏は「聖書の起源」の中で、イエスが福音書の中に書かれているように、奇跡的な方法で病気を癒したのかどうかを研究する事について、こう書いてます。
「この素朴な疑問の背後には、しばしば強力な神学的護教論が隠されていて、史的イエスの論争を一層複雑なものに仕立てているからである。
それはしばしば、崩壊しかけた史的イエスの救難作業の願望と一つになっている。
こうした願望が、奇跡物語をはじめ、福音書に映し出された治癒神イエスの研究をどれだけ阻害してきたか。」P127
NJさんは、山形氏が「キリスト教信仰と、自分の疑問から始まる研究の結果による史的認識を、矛盾無く同時に持っている」とお考えでしょうか?
私が読んだ「聖書の起源」は、1976年ごろですので、その後山形氏の気持ちも変わったのかも知れませんが、私がこの本を読んで感じたのは、「歴史研究者」としての山形氏ですね。
彼が、学者として、一定の事実と推論に至ったのは、「神学的護教論」を排除したからだと思ってますが。
彼はキリスト教信仰から離れていたと考えます。宗教人類学者として神学的護教論とは無縁であったと理解しています。(彼は研究の結果、理解が開けて自由を得た。)
しかし、最近の版のあとがきを読むと、聖書を昔の大きな物語を克明に映し出す歴史遺産と位置づけたり、「特別な知によって書かれた生きるための実用書ではなかったか」など聖書の価値を再確認する言葉が見えます。柔軟なキリスト教理解から。(「聖書を読み解く」、「聖書の起源」)。
私は76, 79年の「思想」の記事を読んで以来のことで、その後単行本になったものは少し易しく書かれてるように見えます。(もっと重厚なものを頭に描いていた。)
私には読みやすくてよかったです。
しかし、もう少し、突っ込んだ根拠となる資料等も、見たいです。
旧約のモーセ五書を、アブラハムに始まるイスラエルの民の「土地取得伝説」と説明しているのは、素直にナ得できました。
遊牧民で有った、イスラエル民族が、カナンの地に定住し、遊牧民の神と農耕民族の神とどちらに従うか?と言った内容を読むと、それまで、不可解だった旧約聖書の内容がなんとなく納得できたものです。
私は、信仰と真実は両立できる、両立するべきだ、と考えています。
それを阻むのが、教団や、宗教指導者の利害だったら、信仰者の不幸ですね。
純粋なイエスキリスト理解は、キリスト教会にとって迷惑なのかもしれませんね。
新しい柔軟なキリスト教理解ですか・・・
僕もエリアーデの書物は読みましたが、それよりもユングの方が好きです。
正統と異端、という考え方よりも一番問題なのはその宗教を信じて精神的に不安定になったり社会的に問題を起こさないことが重要ですね。
日本のキリスト者、モルモンを含めて精神的に病みがちな方が多いのは無意識的なものを抑圧しているからですね、簡単に言えば完璧主義になって本能的なものを抑圧するのがいけないわけですね。
多分に柔軟なキリスト教理解とはユング著のヨブへの答えに書かれているように聖書を「心的な真理」としてみることだと思いますよ、聖書の記述を現実にあったこととして見るのではなく、精神的な象徴としてみると言うことでしょう。
ただまぁ末日聖徒がこのような「心的な真理」という境地にまで達することができるかといえば甚だ疑問ですね。
ユングがキリスト教の問題で指摘しているのは善と悪の分離ですね。
日本の福音派のキリスト教徒(全てだとはいいませんが)は戒律主義に陥りやすいそうで、自分達は絶対的に善であり対立するものは悪であるという考えが自分の無意識の部分を否定することになり双方の断絶は精神的に良くないと、モルモンはそういった傾向が強いのだと思われます。
モルモン聖典に男性の完全性と対をなす十全性(善と悪両方の面を持つもの)である女性の登場人物が少ないのもそういった傾向が強いからなのでしょう、そういった面でユングはカトリックの聖母被昇天の教義を賞賛していますね。
私自身も「心的な真理」を聖書に見出していく境地にはまだ遠く、生涯学び続けていくことになると思っています。(方向としては端緒についた?)
ユングの紹介と「心的な真理」、よい言葉を提示していただきました。末日聖徒でそのような境地に気付いて少しでも歩み始める人が出てくることを切望している私です。(実際にはもう幾人もいるかもしれません。いないと思うのは私の無知で傲慢かもしれない。)
末日聖徒は文字通り終末論を唱えていますが、終末論は大母への回帰への欲求であるという見方に変えたほうがこれから先を考えると無難なのではないのかと思います、さりとてそれが信仰でもあるわけですが仮に世界が破滅してもそれは歴史の再生産であるような気がします、僕としては終末論よりも世界を様々な問題をどうやって解決していくのかという方向に世の中が向かっていってほしいんですけどね。
ただここまで宗教というものを客観化してしまうと「布教する」という意味が全く無くなってしまいますので教会幹部から見ればいいものではないでしょう。
しかし今の末日聖徒の体制のままだと信徒への負担というものが大きいので行き詰まりしてしまうのではないかと存じます。
私も同意見です。そうでなければなりません。
ところで、終末論、言い換えれば「福千年」を含む黙示録的(apocalyptic)思考は18C末ー19C初のアメリカに見られ、それがモルモン書に反映していると見ることができます。(マーク・D・トマス「クモラ採掘」[Digging in Cumorah]).エリアーデ的視点でしょうか。
科学的なものと折衷する信仰の行き着く先は科学信仰です、だから終末論は自分の心の中にあるものだと考えるのがいいのではないかと思います。
最近の大管長の発言で、「信仰と科学の両立、進化論の許容」というものがありましたが俺からしたら非常にナンセンスですよ、紀元前4000頃に人間の心の活動が始まったとして見るべきなのではと?