コメント
モルモン書にも加筆?
(
オムナイ
)
2015-08-29 13:39:13
セミナリーの聖徒用教材にな以下のようにありました。
----------
1ニーファイ20:1-『ユダの水」とは何か
ブルース・R・マッコンキー長老はこのように書いています。
「イザヤは『ヤコブの家』は『ユダの腰〔英文の欽定訳聖書では「水」となっている〕から出』たと語りました(イザヤ48:1)。
末日聖徒にとって非常に興味深いことは、真鍮の版に記されたイザヤの言葉に「すなわちバプテスマの水から」(1ニーファイ20:1)
という語句が加えられて、バプテスマに関する旧約聖書の文章の純粋さが守られたことです。」(モルモンの教義第2版 〔1966年〕,832)
これは聖書から「分かりやすくて貴い」真理が取り去られたことを表す良い例です(1ニーフアイ13:29)。
------------
元々の本文にはないのに訳者が解釈を挿入することは聖書では加筆として批判されていますが、モルモン書にも同様にことがあるんですね。
翻訳当時になかったのなら、そのままにしておけば良いのに。。
霊感訳聖書ではアダムがバプテスマを受けいるのでそれに影響されたのでしょうか。
Unknown
(
教会員R
)
2015-08-29 22:23:53
本当にヘブル語の「水」の複数形の「メー」が精液の象徴的表現であったならば、それがユダの子孫を現す「ユダの腰」という翻訳になっているという解釈は良く分かる。
一方「バプテスマの水のこと」となると、水=「ノアの洪水」である死の象徴とイエスがニコデモに教えたように、霊的な意味で「母の胎から生まれる」ということであって、水=羊水の象徴ですから、全く逆の解釈になりますよね。
加筆によって、かつて良くわかっていたものが余計分からなくなっているとすれば、残念な気がします。
単純に考えると
(
豚
)
2015-08-31 11:32:52
豚の脳味噌で考えると、答えは簡単!
ジョセフがイザヤ書を書き写すときに、「waist」を「water」と間違えた。
それで後に成って「こりゃいかんぞ!」って思って「すなわちバプテスマの水から出て」と付け加えて取り繕った。
単なる間違いも、堂々と描くと、「これはどんな意味なのだ??」と頭の良い人は考える。それで話はさらに複雑になる。
そもそも、イザヤの時代にバプテスマって有ったの?
久しぶりの師匠節
(
オムナイ
)
2015-08-31 13:16:31
最近の豚師匠のコメントがネガティブだったので心配してました。
アベノミクスで業績順調ウハウハと推察します。
>イザヤの時代にバプテスマって有ったの?
沐浴的な水の清めの儀式はあったようですが、いわゆるモルモンの浸礼的バプテスマはなかったでしょうね。
ユダヤ人としての印は洗礼ならぬ割礼のほうにあったわけですから、精液には象徴性を感じないわけでもありませんが。
このイザヤの箇所を説明的に補足するなら特段疑問は感じないのですが、原文に「加筆」したと思われるところに違和感を感じますね。
まぁ、モロナイは人間的間違いがあっても神のものを否定してはいけないと警告されているので。。ジョセフの軽率さを予見していたのでしょうね。
一般的なクリスチャンもこのように受け止めています。
http://www.logos-ministries.org/old_b/isa47-48.html
これは私たちクリスチャンに対する警告でもあります。
完全に信仰をしていて、他の人と同じように偶像を拝む生活はしていません。
けれども、形だけはクリスチャンで心がそこから離れている危険があります。
いつのまにか、偶像に、自分の肉の欲望に引かれていく危険があります。
----------
モルモンにとって水のバプテスマは「イスラエル」になることですから解説的には的を得ていると思います。
これって「的を射てる?」
(
豚
)
2015-08-31 13:37:41
豚にとってよく分からないのが、このスレッドの下記の部分です。
>頑ななイスラエルに語りかけ、捕囚からの解放についてイザヤが宣べるところである。先ずこの「水」はヘブライ語で מֵּ֥י [メー](מים [マイーム]の複数構成形。「・・の水」)、「精液」を意味している。それで口語訳「ユダの腰から出」など婉曲的な表現であっても「・・の血を引く」という意味に訳される。文脈からもその解釈に違和感は生じない。
これを読むと、原文のイザヤ書に「水」って書いてあるように誤解を受けるんですけど??
旧約聖書の、原文の「腰」に当たる部分に「水」って書いてあると言う話なら、ヘブライ語の水の語源にさかのぼるのも無意味じゃないと思いますが。
「水」って書いてあるのは、ジョセフスミスが書いた文章でしょ?だったら、その語源をヘブライ語に求めるのはまったく意味がないでしょ?
NJさん、私の読み方が間違っているのでしょうか?
>頑ななイスラエルに語りかけ、捕囚からの解放についてイザヤが宣べるところである。
と言う文章の後に、
>先ずこの「水」はヘブライ語で מֵּ֥י [メー](מים
ってくっつけると、すごく誤解すると思います。
いかにも、イザヤの預言が、「水」に関係するように思ってしまいますよね。
でも、「水」って書いたのは、ジョセフであって、イザヤは「水」って言葉をどこにも使っていないんでしょ?
ここのところ、はっきりと説明してください。
欽定訳聖書では「水」
(
オムナイ
)
2015-08-31 14:18:03
なのでNJさんは口語訳ではなく新共同訳に添えて書いたんです。
「イザヤは『ヤコブの家』は『ユダの腰〔英文の欽定訳聖書では「水」となっている〕から出』たと語りました(イザヤ48:1)。
修辞法から
(
黄昏のマリア
)
2015-08-31 17:36:32
加筆ならば加筆なのでしょう。あえて、さらに意味づけが必要でしょうか。
あまり、いじらなくてもいいのではないでしょうか。差支えがありますか?
それでも、これは私の見方ですけど
対句法でみれば、
「ユダの水の源」と「主の名をもって誓い」が対応すると考えれば、「契約」と言うことではないですか。当時の契約は「割礼」ですから、「メー」は「精液」で構わないと思いますが。この章は、バビロン捕囚について言及されています。バプテスマでもいいのですが、両義的な預言を考慮するとなると、末日のイスラエル、すなわち末日聖徒についての警告になるのでは、などとタイプしながら考えてしまいました。(聖書で主が言及されているのは主の民に対してではないですか。モルモン書も同じ。器の内部です。といつも思っています。)
オムナイさん、沐浴的な水の清めの儀式は、「ミクド」と呼ばれるものです。たいていは、狭い風呂みたいな感じ。イスラエルに残っていますよ
また、神殿の外にある、バプテスマフォントみたいのは、単に体、だったかな、を洗うものだとか。犠牲の血の生臭い匂いは相当強烈だったらしいです。血もけっこう浴びたとか。で、さっさと洗った・・・。祭司も大変な仕事でしたね。
なるほど
(
豚
)
2015-08-31 18:06:59
>なのでNJさんは口語訳ではなく新共同訳に添えて書いたんです。
オムナイさん解説ありがとうございます。
ジョセフスミスが読んでいた、当時の旧約聖書にも英語で「水」って書いてあったのでしょうか?
それで、ジョセフは「水」の意味が解らなくて、「すなわちバプテスマの水から出て」って頓珍漢な事を書き加えたのですか?
最近は的を射るでも的を得るでも正解。
(
オムナイ
)
2015-08-31 19:18:27
>それで、ジョセフは「水」の意味が解らなくて、「すなわちバプテスマの水から出て」って頓珍漢な事を書き加えたのですか?
いえ。ジョセフ・スミス当時はキングス・ジョームズ版(欽定訳)の聖書しかありませんでした。
末日聖徒ではその古臭い訳の欽定訳聖書を現代でも使い続けています。
まぁ、モルモン書の方で欽定訳聖書を多く参照しているので安易に改訂できないという諸事情があるみたいで、その辺はNJさんがこのブログで詳細に解説しています。
左下の検索窓で探してみてください。
欽定訳聖書では古い訳なので加筆の部分が残されていて、ジョセフ・スミスの時代には知られていなかった加筆部分を抜いて参照しているんです。
ですから、解説的加筆をジョセフがするとは。。。とうことです。
Unknown
(
オムナイ
)
2015-08-31 19:23:35
この箇所です。
https://apps.lds.org/cws/jp/index.php/2011-01-17-05-53-00/185-2011-02-09-07-47-33/909-w1984411
たとえば両方の書物に出てくる山上の垂訓ですが,欽定訳聖書には「兄弟に対して(故なく〉怒る者は,だれでも裁判を受けねばならない」(欽定訳マタイ5:22)とあります。かっこの言葉は,マタイが書いたずっとあとになって加筆されたものと見られ,最初の新約聖書の原稿にはその部分がありませんし,モルモン書にもありません。
なるほど!
(
豚
)
2015-08-31 20:12:24
オムナイさん、度々お手数をかけすみません、説明に感謝しています。
おかげでよくわかりました。
ユダの水は、ヘブライ語でユダの精液の事で、ジョセフはそれでバプテスマを行たって話ですね。
ユダの水=バプテスマの水で良いわけですね!
納得です!!
黄昏のマリアさま
(
オムナイ
)
2015-09-01 01:17:47
>当時の契約は「割礼」ですから、「メー」は「精液」で構わないと思いますが。
>両義的な預言を考慮するとなると、末日のイスラエル、すなわち末日聖徒についての警告になるのでは、
気が合いますねー^^
やっぱり東京オリンピックのマークはパクリではなく偶然かな。
>加筆ならば加筆なのでしょう。あえて、さらに意味づけが必要でしょうか。
加筆だと仮定した場合の問題点は2つ。
1、マタイの<故なく>の加筆を金版からの翻訳の際、欽定訳を修正し原典に忠実に回復していること。
他にも金版からの無意識の翻訳によって当時の英語にはないヘブライ語の表現が織り込まれている。
つまり、意図的な加筆を取り除くことが聖書本文のわかりやすくて尊い部分の回復であるはず。
逆に言えば「加筆」は批判している聖書の捏造に通じるのだからジョセフ自身がそれを行うことは同じ危険を冒すことになるから。
実際ジョセフはモルモン書本文からリーハイたちがアメリカインデアンの主な祖先だと誤解して解説している。
しかし、本文の研究から一部でしかないことが読み取れる。
この場合本文以外の解説だからまだ良いが、聖典本文内への説明的加筆は翻訳姿勢が一貫していないし矛盾している。
2、マッコンキー長老の解説でこの箇所を「聖書から「分かりやすくて貴い」真理が取り去られたことを表す良い例」としているが、マッコンキー長老はNJさん紹介のモルモン書初版などには無かった。
このことを当然知りうる立場にあったのだから、いかにもジョセフの解説的加筆ではなく金版(真鍮版からの抜粋)に「すなわちバプテスマの水から」と改変エジプト文字で直接書いてあるかのように表現するのは違和感がある。
また、それをセミナリーの教材に採用することは将来に原理主義的思考から離れた時に教会への不信感を増長させる危険がある。
(改宗の初期や青少年が原理主義的思考から信仰に目覚めるのは否定しないし多くの場合そうだろうと思う。)
誤解を招かないように
(
NJ
)
2015-09-02 23:49:47
豚さん、
オムナイさんの説明でお分かりになったようですので、特に必要はないと思いますが、念のため少し説明を加えさせていただきます。
イザヤ書の原語(ヘブライ語)で問題の語は「水」です。その二次的な意味に「精液」という意味が生じていて、ここはその意味で使われています。英語(KJV)は「水」water となっています。
「ヤコブの家よ、これを聞け。
ユダの水に源を発し(すなわちバプテスマの水から出て)・・」
( )のようにJSが加えたのは、ヤコブの家、すなわちイスラエルの名で呼ばれる者は神の民=バプテスマを受けた人たち、という現代的な考えからだと思われます。私も今まで気がつかなかった疑問でした。(out of the waters of ... も英語の調子から baptism が脳裏に浮かびやすい文脈なのでしょう。)
誤解を招きやすい表現であった所があれば、今後とも改めて注意したいと思います。
最初の示現も
(
通りすがり
)
2020-08-02 00:01:34
ここのコメントのやり取りを見てると、教会員がどれだけ聖文の理解なしに過ごしているかがよくわかります。わたしは”最初の示現”もこの「バプテスマの水から・・」問題と同じ過程を経て今の形に落ち着いていると思います。
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1ニーファイ20:1-『ユダの水」とは何か
ブルース・R・マッコンキー長老はこのように書いています。
「イザヤは『ヤコブの家』は『ユダの腰〔英文の欽定訳聖書では「水」となっている〕から出』たと語りました(イザヤ48:1)。
末日聖徒にとって非常に興味深いことは、真鍮の版に記されたイザヤの言葉に「すなわちバプテスマの水から」(1ニーファイ20:1)
という語句が加えられて、バプテスマに関する旧約聖書の文章の純粋さが守られたことです。」(モルモンの教義第2版 〔1966年〕,832)
これは聖書から「分かりやすくて貴い」真理が取り去られたことを表す良い例です(1ニーフアイ13:29)。
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元々の本文にはないのに訳者が解釈を挿入することは聖書では加筆として批判されていますが、モルモン書にも同様にことがあるんですね。
翻訳当時になかったのなら、そのままにしておけば良いのに。。
霊感訳聖書ではアダムがバプテスマを受けいるのでそれに影響されたのでしょうか。
一方「バプテスマの水のこと」となると、水=「ノアの洪水」である死の象徴とイエスがニコデモに教えたように、霊的な意味で「母の胎から生まれる」ということであって、水=羊水の象徴ですから、全く逆の解釈になりますよね。
加筆によって、かつて良くわかっていたものが余計分からなくなっているとすれば、残念な気がします。
ジョセフがイザヤ書を書き写すときに、「waist」を「water」と間違えた。
それで後に成って「こりゃいかんぞ!」って思って「すなわちバプテスマの水から出て」と付け加えて取り繕った。
単なる間違いも、堂々と描くと、「これはどんな意味なのだ??」と頭の良い人は考える。それで話はさらに複雑になる。
そもそも、イザヤの時代にバプテスマって有ったの?
アベノミクスで業績順調ウハウハと推察します。
>イザヤの時代にバプテスマって有ったの?
沐浴的な水の清めの儀式はあったようですが、いわゆるモルモンの浸礼的バプテスマはなかったでしょうね。
ユダヤ人としての印は洗礼ならぬ割礼のほうにあったわけですから、精液には象徴性を感じないわけでもありませんが。
このイザヤの箇所を説明的に補足するなら特段疑問は感じないのですが、原文に「加筆」したと思われるところに違和感を感じますね。
まぁ、モロナイは人間的間違いがあっても神のものを否定してはいけないと警告されているので。。ジョセフの軽率さを予見していたのでしょうね。
一般的なクリスチャンもこのように受け止めています。
http://www.logos-ministries.org/old_b/isa47-48.html
これは私たちクリスチャンに対する警告でもあります。
完全に信仰をしていて、他の人と同じように偶像を拝む生活はしていません。
けれども、形だけはクリスチャンで心がそこから離れている危険があります。
いつのまにか、偶像に、自分の肉の欲望に引かれていく危険があります。
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モルモンにとって水のバプテスマは「イスラエル」になることですから解説的には的を得ていると思います。
>頑ななイスラエルに語りかけ、捕囚からの解放についてイザヤが宣べるところである。先ずこの「水」はヘブライ語で מֵּ֥י [メー](מים [マイーム]の複数構成形。「・・の水」)、「精液」を意味している。それで口語訳「ユダの腰から出」など婉曲的な表現であっても「・・の血を引く」という意味に訳される。文脈からもその解釈に違和感は生じない。
これを読むと、原文のイザヤ書に「水」って書いてあるように誤解を受けるんですけど??
旧約聖書の、原文の「腰」に当たる部分に「水」って書いてあると言う話なら、ヘブライ語の水の語源にさかのぼるのも無意味じゃないと思いますが。
「水」って書いてあるのは、ジョセフスミスが書いた文章でしょ?だったら、その語源をヘブライ語に求めるのはまったく意味がないでしょ?
NJさん、私の読み方が間違っているのでしょうか?
>頑ななイスラエルに語りかけ、捕囚からの解放についてイザヤが宣べるところである。
と言う文章の後に、
>先ずこの「水」はヘブライ語で מֵּ֥י [メー](מים
ってくっつけると、すごく誤解すると思います。
いかにも、イザヤの預言が、「水」に関係するように思ってしまいますよね。
でも、「水」って書いたのは、ジョセフであって、イザヤは「水」って言葉をどこにも使っていないんでしょ?
ここのところ、はっきりと説明してください。
「イザヤは『ヤコブの家』は『ユダの腰〔英文の欽定訳聖書では「水」となっている〕から出』たと語りました(イザヤ48:1)。
あまり、いじらなくてもいいのではないでしょうか。差支えがありますか?
それでも、これは私の見方ですけど
対句法でみれば、
「ユダの水の源」と「主の名をもって誓い」が対応すると考えれば、「契約」と言うことではないですか。当時の契約は「割礼」ですから、「メー」は「精液」で構わないと思いますが。この章は、バビロン捕囚について言及されています。バプテスマでもいいのですが、両義的な預言を考慮するとなると、末日のイスラエル、すなわち末日聖徒についての警告になるのでは、などとタイプしながら考えてしまいました。(聖書で主が言及されているのは主の民に対してではないですか。モルモン書も同じ。器の内部です。といつも思っています。)
オムナイさん、沐浴的な水の清めの儀式は、「ミクド」と呼ばれるものです。たいていは、狭い風呂みたいな感じ。イスラエルに残っていますよ
また、神殿の外にある、バプテスマフォントみたいのは、単に体、だったかな、を洗うものだとか。犠牲の血の生臭い匂いは相当強烈だったらしいです。血もけっこう浴びたとか。で、さっさと洗った・・・。祭司も大変な仕事でしたね。
オムナイさん解説ありがとうございます。
ジョセフスミスが読んでいた、当時の旧約聖書にも英語で「水」って書いてあったのでしょうか?
それで、ジョセフは「水」の意味が解らなくて、「すなわちバプテスマの水から出て」って頓珍漢な事を書き加えたのですか?
いえ。ジョセフ・スミス当時はキングス・ジョームズ版(欽定訳)の聖書しかありませんでした。
末日聖徒ではその古臭い訳の欽定訳聖書を現代でも使い続けています。
まぁ、モルモン書の方で欽定訳聖書を多く参照しているので安易に改訂できないという諸事情があるみたいで、その辺はNJさんがこのブログで詳細に解説しています。
左下の検索窓で探してみてください。
欽定訳聖書では古い訳なので加筆の部分が残されていて、ジョセフ・スミスの時代には知られていなかった加筆部分を抜いて参照しているんです。
ですから、解説的加筆をジョセフがするとは。。。とうことです。
https://apps.lds.org/cws/jp/index.php/2011-01-17-05-53-00/185-2011-02-09-07-47-33/909-w1984411
たとえば両方の書物に出てくる山上の垂訓ですが,欽定訳聖書には「兄弟に対して(故なく〉怒る者は,だれでも裁判を受けねばならない」(欽定訳マタイ5:22)とあります。かっこの言葉は,マタイが書いたずっとあとになって加筆されたものと見られ,最初の新約聖書の原稿にはその部分がありませんし,モルモン書にもありません。
おかげでよくわかりました。
ユダの水は、ヘブライ語でユダの精液の事で、ジョセフはそれでバプテスマを行たって話ですね。
ユダの水=バプテスマの水で良いわけですね!
納得です!!
>当時の契約は「割礼」ですから、「メー」は「精液」で構わないと思いますが。
>両義的な預言を考慮するとなると、末日のイスラエル、すなわち末日聖徒についての警告になるのでは、
気が合いますねー^^
やっぱり東京オリンピックのマークはパクリではなく偶然かな。
>加筆ならば加筆なのでしょう。あえて、さらに意味づけが必要でしょうか。
加筆だと仮定した場合の問題点は2つ。
1、マタイの<故なく>の加筆を金版からの翻訳の際、欽定訳を修正し原典に忠実に回復していること。
他にも金版からの無意識の翻訳によって当時の英語にはないヘブライ語の表現が織り込まれている。
つまり、意図的な加筆を取り除くことが聖書本文のわかりやすくて尊い部分の回復であるはず。
逆に言えば「加筆」は批判している聖書の捏造に通じるのだからジョセフ自身がそれを行うことは同じ危険を冒すことになるから。
実際ジョセフはモルモン書本文からリーハイたちがアメリカインデアンの主な祖先だと誤解して解説している。
しかし、本文の研究から一部でしかないことが読み取れる。
この場合本文以外の解説だからまだ良いが、聖典本文内への説明的加筆は翻訳姿勢が一貫していないし矛盾している。
2、マッコンキー長老の解説でこの箇所を「聖書から「分かりやすくて貴い」真理が取り去られたことを表す良い例」としているが、マッコンキー長老はNJさん紹介のモルモン書初版などには無かった。
このことを当然知りうる立場にあったのだから、いかにもジョセフの解説的加筆ではなく金版(真鍮版からの抜粋)に「すなわちバプテスマの水から」と改変エジプト文字で直接書いてあるかのように表現するのは違和感がある。
また、それをセミナリーの教材に採用することは将来に原理主義的思考から離れた時に教会への不信感を増長させる危険がある。
(改宗の初期や青少年が原理主義的思考から信仰に目覚めるのは否定しないし多くの場合そうだろうと思う。)
オムナイさんの説明でお分かりになったようですので、特に必要はないと思いますが、念のため少し説明を加えさせていただきます。
イザヤ書の原語(ヘブライ語)で問題の語は「水」です。その二次的な意味に「精液」という意味が生じていて、ここはその意味で使われています。英語(KJV)は「水」water となっています。
「ヤコブの家よ、これを聞け。
ユダの水に源を発し(すなわちバプテスマの水から出て)・・」
( )のようにJSが加えたのは、ヤコブの家、すなわちイスラエルの名で呼ばれる者は神の民=バプテスマを受けた人たち、という現代的な考えからだと思われます。私も今まで気がつかなかった疑問でした。(out of the waters of ... も英語の調子から baptism が脳裏に浮かびやすい文脈なのでしょう。)
誤解を招きやすい表現であった所があれば、今後とも改めて注意したいと思います。