コメント
参加する側の問題も
(
ワサッチ
)
2009-05-19 19:21:16
教会機関誌の大管長メッセージよりもローカルページ、教会機関誌よりも個人的な努力によって続けられている支部単位の広報誌のほうに興味がいくのと似ていますね。
詰まらない集会は今後も詰まらないと思います。
平信徒ができることはあまりなくて
でもつまらないと投げてしまうのではなく
自分にできることは何かと問題意識をもって参加することが自分にとっても教会にとっても有益なのかな
と最近は思います。
説教
(
豚
)
2009-05-19 19:49:07
モルモンの大会や聖餐会の話で特徴的なのは、「説教」が無い、と言う事じゃないかな?
モルモン書や聖書の中から題材を取り、「これはこうなのだ!」と言う、教義の解き明かしにより、信仰を高めると言った話が全くと言っていいほど無い。
大会の話を聞いて、キリストの贖いに感動したり、救われた事への感謝を持つと言った事が無いですね。
宗教指導者の話って言うより、営業部長の訓示みたいな感じが多いですね。
感想(追加)
(
NJ(旧交をあたためる)
)
2009-05-20 07:48:54
先日のステーク大会で感じたことですが、地元の教会員にとって普段会わない教会員と旧交をあたためる機会になる、というのも一つの意義のように思われました。
ワサッチさんの始めの3行に類することですが、私は岡町(豊中市)の礼拝堂完成40周年記念の催しのニュースの方に興味を覚え、楽しみにしているといった心境です。
> 教義の解き明かしにより信仰を高める
確かにそのような説教が聞かれなくなっていると言えるでしょう。以前そのような説教をする幹部が訪問したことがありました。(十二使徒の訪問がなくなったことも関係している?)
ステーク大会と言うより
(
トゥゲザー
)
2009-05-20 12:58:12
教会そのものがつまらなく、役に立たないから、人が離れていくんじゃないかと思います。
何ができるか
(
ワサッチ
)
2009-05-20 16:10:12
>教会そのものがつまらなく、役に立たないから、人が離れていくんじゃないかと思います。
そんななかで個人は何ができるんでしょうか?
それとも教会はすでに人にとって不用な物なのでしょうか?
私はいまのところ教会以外に霊性を学んだり育んだりできるところを見つけられていません。もちろん他宗派でも霊性は学べると思いますが自分にとってはモルモンなんですね。
いまここで何ができるのか…。
NJさんはどう考えていますか?
難しい問題(力不足のためもあって)
(
NJ(模索中、自分流)
)
2009-05-20 16:37:47
これは「なぜ教会に留まるのか」という問題に通じるように思われます。(ステーク大会を離れますが。)
「何ができるか」さしあたって教会の中で出会う人々(家族を含む)のために何ができるか、何をすべきか(自分の状況に照らしてですが)と考えることができるのではないか、と思っています。
教会に集う人々も隣人なのですから。
自分が得ることができたものを、時宜にかなった方法で継承していくことか、などと考えたりします。
何が出来るか?
(
トゥゲザー
)
2009-05-20 18:18:30
揚げ足取りな言い方で申し訳ないのですが、「会員が何かしようと思い立ったら何かが出来る」そんな教会にすることが、すべきことです。
より一層指導者に柔順になる、とか言ったことではなく。
確かに
(
NJ(賛成)
)
2009-05-21 07:38:40
「会員が何かしようと思い立ったら何かが出来る」賛成です。常に異なった角度から見られるのがtogetherさんのよいところだと思います。
岡町が礼拝堂奉献40周年記念をやりたい、と思い立った平信徒がいてそれができるのは自然でよいことの一つであると思います。
自分とこも・・・
(
豚
)
2009-05-25 09:43:30
話はそれますが・・・。
>岡町が礼拝堂奉献40周年記念をやりたい、と思い立った平信徒がいてそれができるのは自然でよいことの一つであると思います。
NJさん、間もないので御存じないかもしれませんが、NJさんの所属ワードも、ユニット設立40周年だと思いますよ。
1070年大阪万博の前の年ぐらいかと思いますので。
たしか・・私はまだ生まれてなかったような気が・・・。
記念の集まり(リユニオン)希望
(
NJ(そうです)
)
2009-05-25 16:35:20
尼崎?高槻?西宮(これは済み)。
尼崎であれば希望(意識)しています。昔の方たちとお会いできれば大変楽しいですから。ただ、私に中国行きの話が浮上してタイミングが微妙な状況です。何にしても自分は提案しかできないで、地元で中心的な立場にある人の協力を得ないといけないですから。
ご指摘ありがとうございます。
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詰まらない集会は今後も詰まらないと思います。
平信徒ができることはあまりなくて
でもつまらないと投げてしまうのではなく
自分にできることは何かと問題意識をもって参加することが自分にとっても教会にとっても有益なのかな
と最近は思います。
モルモン書や聖書の中から題材を取り、「これはこうなのだ!」と言う、教義の解き明かしにより、信仰を高めると言った話が全くと言っていいほど無い。
大会の話を聞いて、キリストの贖いに感動したり、救われた事への感謝を持つと言った事が無いですね。
宗教指導者の話って言うより、営業部長の訓示みたいな感じが多いですね。
ワサッチさんの始めの3行に類することですが、私は岡町(豊中市)の礼拝堂完成40周年記念の催しのニュースの方に興味を覚え、楽しみにしているといった心境です。
> 教義の解き明かしにより信仰を高める
確かにそのような説教が聞かれなくなっていると言えるでしょう。以前そのような説教をする幹部が訪問したことがありました。(十二使徒の訪問がなくなったことも関係している?)
そんななかで個人は何ができるんでしょうか?
それとも教会はすでに人にとって不用な物なのでしょうか?
私はいまのところ教会以外に霊性を学んだり育んだりできるところを見つけられていません。もちろん他宗派でも霊性は学べると思いますが自分にとってはモルモンなんですね。
いまここで何ができるのか…。
NJさんはどう考えていますか?
「何ができるか」さしあたって教会の中で出会う人々(家族を含む)のために何ができるか、何をすべきか(自分の状況に照らしてですが)と考えることができるのではないか、と思っています。
教会に集う人々も隣人なのですから。
自分が得ることができたものを、時宜にかなった方法で継承していくことか、などと考えたりします。
より一層指導者に柔順になる、とか言ったことではなく。
岡町が礼拝堂奉献40周年記念をやりたい、と思い立った平信徒がいてそれができるのは自然でよいことの一つであると思います。
>岡町が礼拝堂奉献40周年記念をやりたい、と思い立った平信徒がいてそれができるのは自然でよいことの一つであると思います。
NJさん、間もないので御存じないかもしれませんが、NJさんの所属ワードも、ユニット設立40周年だと思いますよ。
1070年大阪万博の前の年ぐらいかと思いますので。
たしか・・私はまだ生まれてなかったような気が・・・。
尼崎であれば希望(意識)しています。昔の方たちとお会いできれば大変楽しいですから。ただ、私に中国行きの話が浮上してタイミングが微妙な状況です。何にしても自分は提案しかできないで、地元で中心的な立場にある人の協力を得ないといけないですから。
ご指摘ありがとうございます。