コメント
Unknown
(
Unknown
)
2014-01-03 00:16:02
沼野兄弟はこの教会を、予言者が言うように真の教会と捉えられているのでしょうか。それとも人間が造った教会と捉えられているのでしょうか。
もし神によって導かれている教会ならば、人間的な間違いがあっても、それらも含めて神によって導かれていることになるのではないでしょうか。
しかし、人間が造った教会ならばあらゆる矛盾を含んでいて当然になると思います。
論点は、拙速伝道がどうというよりも、この教会が真実の教会か否か、ということになるのではないでしょうか。
それを抜きにして、末節を論じてみても仕方がない気がします。
私も大阪に住んでおり、ステークは違いますが、いつか実際にお会いしてお話しする機会があればと思っています。
正当化はノ―
(
沼野
)
2014-01-03 00:36:03
「人間的な間違いがあっても、それらを含めて神によって導かれていることになる」の部分ですが、大局から見てそう言えても、個々の間違いであった出来事を正当化することはできないと思っています。
旧約でも、新約でも、ldsの歴史でも皆言えることだと思います。
末節というよりも、そう言ったことを論じられること、矯正していけることが大事(神の教会の資質)ではないかと思っています。
私も語り合うことができれば嬉しい(光栄)です。
Unknown
(
Unknown
)
2014-01-03 00:55:04
私も不完全な人間のする個々の間違いを正当化する気は毛頭ありません。
伝道中に、東京南伝道部の話はほかの宣教師から聞いた覚えがあります。私が伝道したのはその時代より後ですが。
当時の伝道会長はビジネスライクに伝道を考えていたという話を聞いたように思います。バプテスマの多い宣教師を表彰していたとか。また聞きですので、本当のところは知りませんが。
この教会を神によって導かれているのか、はたまた人間によって導かれているのか、どちらに考えるかによってものの見方は変わってくるのだと思います。
私の考えで恐縮ですが・・・
(
落伍者
)
2014-01-03 19:36:53
預言者という職業は、いつも神の声を聞いて選民に述べているわけではなく自分の信念で述べる時も多々あると思います。
また、神から受けた予言を宣言したのに、自分自身がその通りに従わなかった預言者もいます。
旧約聖書には、間違った予言をした預言者は死ななくてはならないと書いてあります。
ということは、間違った予言をすることもあるということではないでしょうか・・
あくまでも私の考えですが、預言というものは預言者自身が、多くの学びを経た上で、何かしらの選択や決断を迫られた時に〝神ならこういう風に民に言うだろう“という気持ちを述べたものはないかと思います。もちろん直接神の声を聞いたと表現されていますが、実際は確信がそう思い込ませたことも多いと思うのです。
預言者が間違うということは神を汚すことになるので、落とし前をつけなければなりません。私にとって問題は、間違うか、間違わないかということではなく、落とし前をつけるかつけないかということで、その点でけじめがついていないように感じます。
エレミア書の23章を読むと偽預言者について書かれています。
旧約の時代、預言者のいたコミュニティには神の臨在があったと思いますが、そのようなところでも間違った予言は生じたものと思われます。
神に導かれていても、誤った預言は出てくる可能性はあったと強く感じます。
それは預言者の資質によるところも多いでしょう。
イエス以前の律法学者・パリサイ人も該当しますし、イエス以降の人々も誤った教えを流布したことが多々あると感じています。
間違った予言をしたものは死ななくてはならないと書かれてありますが、実際に処刑されないにしても、死に等しい状態に置かれることがあり、次の言葉を読むと、間違いに対する報いを読み取ることができます。
23:37
あなたは預言者にこう言わなければならない、『主はあなたになんと答えられましたか』、『主はなんと言われましたか』と。
23:38
もしあなたがたが『主の重荷』と言うならば、主はこう仰せられる、『わたしが人をあなたがたにつかわして、あなたがたは「主の重荷」と言ってはならないと言わせたのに、あなたがたは「主の重荷」という言葉を言ったので、
23:39
わたしは必ずあなたがたを捕え移させ、あなたがたとあなたがたの先祖とに与えたこの町と、あなたがたとを、わたしの前から捨て去る。
23:40
そして、忘れられることのない永遠のはずかしめと永遠の恥を、あなたがたにこうむらせる』」。
モルモンも、他の教会もすでに〝誤ったことを教えた教会“として永遠の侮辱を受けているように思います。
ルターにとって、カトリックは間違った教会であり、ローマ教皇は間違った予言者と捉えられたことでしょう。
どの教会にもありうることだと感じています。
いつの日か過ちは過ちとしてはっきりと認める必要があると思いつつも、すでに神と世間からある種の罰は受けていると感じています。
世間から、悪い評価を得ることは、すでに神から捨て去られた状態と思います。
ただ、禊をすればまた神の寵愛を受けられるとも思います。
聖書の世界では、悔い改めて主に立ち返れば再び加護を受け、神の恵みを受けられるようになった例も多くあると思うのです。
モルモンもそのような状態にあると考えています。
旧約を思い出します。
(
落伍者
)
2014-01-03 19:57:16
旧約の王にレハベアムという人がいましたね。
最初は神に従っていましたが、途中で長老たち(?)の意見を聞かず、若い者の意見を受け入れて、神のみこころに適わないことを行い、どんどん神から離れていき、神も彼から離れていったという話を思い起こします。
正しい道を踏襲しなかったという点で拙速伝道と共通するものを感じています。
このような事象が発生したのは、王にも問題があるのですが、その周囲にいる人々がみこころを理解していなかったということだと思うのです。
この状態が後に正されたのは、預言者の力が機能したのかなとも思います。
ちょっと時間が掛かりましたが・・・・
正鵠を得たコメント
(
沼野
)
2014-01-03 21:44:55
以前からそうでしたが、楽伍者さんの洞察は正鵠を得たもので、いつも敬服しています。円熟した深い見方でその通りだと思います。
現代の社会にあって、周囲にいる人々の責任も重要であるという点に特に賛意を覚えます。
拙速伝道はいまだ未精算状態にある
(
地方の教会員
)
2014-01-04 23:01:56
私が、改善しなければならないと思うのは、拙速伝道の結果、教会員になった人々の記録が教会に存在し、教会から迷惑な訪問やダイレクトメール(宣伝じみた手紙)を受けているという現実がいまだにあるということです。
このような会員記録は、活発会員と拙速伝道会員の両方に不幸をもたらし続けていると感じます。
私は、このような会員記録は早急に抹消されるべきであると思っています。
しかし会員記録の抹消について、実に多くの教会員が理解していません。驚くことは、私のワードの書記でさえ手続きを知らないという事実です。
また、会員記録の抹消によって、神様の前から断ち切られるような誤った感情を抱く神権指導者の存在も足かせとなっています。
拙速伝道の事実は、会員記録の抹消によって解消するわけではないけど、活発教会員や拙速伝道会員にとって祝福になると思います。
私の強い思いです。
対処しなければ
(
沼野治郎
)
2014-01-05 08:43:16
仰る通り、全く同感です。lds教会の大きな重荷なっていると思います。(全然処理[抹消]されたことがないわけではないと思いますが、殆どそのままになっている!?)。
神の教会から絶たれてしまうのを恐れるというのは、一理あるように聞こえますがそれは乗り越えなければならない考えであると思います。
拙速伝道について
(
教会員
)
2014-01-07 18:31:29
拙速伝道については色々思うところがあります。
末日聖徒は大菅長について、神に召された義なる人という認識を持っている。 それは正しいだろう。
そして神に召された義なる人だから、神につながっており、それゆえ教会運用を絶対に間違わないと思ってる。 なるほど大管長会は全力で教会を運用するから概ね正しい方向に導かれている。
しかし絶対にそうだという信仰おそらくそれが間違った認識なのだろう。
教会はそんなことは教えてはいなかったはず。人は誰でも不完全と教えてます。 預言者を非難するなとも教えてますが、預言者は間違わないと教えた事がない。
長老定員会の会長に召されたら、神から召されたから絶対に間違わないという保障はない。 というかしくじることの方が多かったりする。 義なる預言者も度々間違うというのが正しい信仰なのだろうと思います。 願望と信仰は違うものです。
拙速伝道については、確かに主が大管長に当時の日本をもっとバプテスマせよとお命じになったんだと思います。 だけどその方法は民(預言者)に任されたんだと思います。 拙速伝道が良いと思ったのかも知れないが義の原則からは外れており、運用を間違った。 結果は必ず生じ、呪いとして大量の反モルモンが生まれて明らかなトゲになっています。
本気でわけがわからんうちのバプテスマはモルモンが憎んだ幼児のバプテスマと同じことです。 義の原則から外れたら神権は働かないので、まともな神権者が行ってもそのバプテスマは無効だったという結果になるのだろうと思います。
神の教会から絶たれてしまう恐怖というよりは最初から繋がらないから、福千年には未信者と共に二回目のバプテスマを行うチャンスを得ることになるんじゃないですか?
これで落とし前が終わるとも思えないが、少なくとも、正しい会員登録の抹消方法についてはもっと公開すべきと思います。 いかに都合が悪かろうが正しい知識の普及は悪ではなく善なので。
鋭い指摘
(
沼野
)
2014-01-07 20:50:30
預言者であれ、召された指導者であれ、義の原則から外れては神に(また教会員に)受け入れられない。全くその通りです。また、
>「わけがわからんうちのバプテスマ」は「モルモンが憎んだ幼児のバプテスマ」と同じこと。
この指摘は、当時拙速バプテスマを推進ないし容認した指導者の心にずしりとくるはずです。
何も変わっていない
(
豚
)
2014-01-08 10:58:48
以前にも同じような事を書きましたが、「モルモンの教義を理解しないままバプテスマを受けて会員に成る」と言う状況は今も昔も同じです。
変わったのは数が多いか少ないかだけです。
まず基本的な問題が有ります。
それは、「教義を理解していただいた上で、会員になるかどうかを決めてもらう」と言う姿勢では無い事です。
私自身も、ほとんど全くといっていいほど、教義を理解しないまま会員に成りました。昔は標準聖典の一つである教義と聖約を、会員になる前は見せないと言う決まりさえ有りましたから。
つまり、「会員に成るのに、教義を理解する必要は無い」と言うのが現在でも基本的な考えです。
宣教師のレッスンを聞いて、「バプテスマを受けてもいい」と思った人がバプテスマを受けて会員に成ります。「聞け」ば良いだけです、「理解したか?」は関係有りません。
次に構造的な問題です。
それは、「会員に成るまでは、伝道部の責任、会員になった後はワード(地元支部)の責任」と言う構造です。
伝道部に所属するフルタイムの宣教師が、バプテスマを受けてもらうかどうかを判断し、その後の面倒を見るワードの役員には、判断の権限が有りません。
組織的に言って、伝道部の方がワードより上ですから、ワードから伝道部に文句を言う事が出来ない。
バプテスマを受けてから、全く教会に来ないような会員でも、ワードの会員がフォローしなければいけない。
違った側面から見ると、「教会に関心を持つ人に対して真摯に教会の教えを説くシステムが存在しない」と言う事です。
宣教師のレッスンの中に、「キリスト教について教える」と言う内容が入って居ません。
「そんなややこしい事は、ほっといて、とにかくバプテスマを受けさせなさい」と言う事なんでしょう。
もし、今のワードでこの問題を解決する方法を見つけるとすれば、「日曜学校の求道者クラス」を充実する。と言う方法しか無いでしょう。
ワードの日曜学校の教師が、宣教師が教えない事を、きっちりと教える。
ま、日曜学校の会長で、こんな事を考える人は居ないでしょうね。
現状で出来そうなシステムとすれば、
1、会員が教会に興味の有る人を見つける
2、その人を、日曜学校の求道者クラスで教える
3、その後、本人の希望が有れば、宣教師に紹介する
これが、わたしの思う「会員伝道」ですね。
蛇足ですが、日曜学校と言うのは便利なもので、必要であれば、日曜日以外にもクラスが開けるんですよね。
挑戦的表現になっています
(
沼野(現職SS会長)
)
2014-01-08 11:50:59
全般的にその通りで、賛意を感じていたのですが・・
>ま、日曜学校の会長で、こんな事を考える人は居ないでしょうね。
現職日曜学校会長に提案ですか、挑戦ですか?せっかくの、大賛成できる提案(気づき)も私の受ける印象は相変わらずの感じがしてしまいます。塩味をつけられた書き方を希望します。
塩分の取りすぎは・・・
(
豚
)
2014-01-08 18:56:22
塩分の取りすぎは、身体に良くない。
塩味は一度憶えると止められないそうです。
豚の塩漬けも美味しいらしいですが、食べない方が長生きできると思いますよ。
馬年になっても、豚は豚ですね。
南伝道部
(
オムナイ
)
2014-01-09 18:38:51
明けましておめでとうございます。
今年も宜しくお願いします。
当時の聖徒の道には輝かしい南伝道部の成功が記事になっていたように思います。
わたくし自身は地方にいたせいもあり、普通の伝道しか目にしませんでしたが。。
ただK長老が
「きっと末日には日本人は福音を受け入れない時代が来るでしょう。今のうちに刈り入れておきましょう。」という言葉には危険な香りを感じました^^;
まぁ、日本の指導者の多くは危ないなーと思いながらも、日本最初の幹部に逆らえなかったのかなと、半ば同情的です。
急成長を遂げたメキシコなども同じようなことがあったとか。
昔の伝統キリスト教の強制改宗の負の経験が現在の穏やかな伝道姿勢を作っているのでしょうか。ならば、LDSの負の伝道経験も正の伝道姿勢に役立てるべきでしょう。
提言素晴らしいと思います。
しかし、そーいえば数日前の毎日新聞だったか。。世界的にキリスト教信者が激減しているとか。。LDSはまだまし。。
Unknown
(
沼野
)
2014-01-10 09:44:42
オムナイ様、明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。毎日新聞の記事についてお知らせくださり有難うございます。是非読んでみたいと思います。
「何も変わっていない」に関して
(
教会員
)
2014-01-14 10:06:59
バプテスマの前に最低必要な知識は何だろうか? 私が思うところは
神が存在すると信じていること。 キリストと贖いの役割、聖霊の役割、預言者の役割、「罪」の定義と悔い改めの方法。
モルモン書を聖典としていること。
バプテスマの意味・死者のバプテスマの意味
十分の一・智恵の言葉・純潔の律法・安息日を守ること。
末日聖徒イエスキリスト教会には神権があり、神に導かれた教会であるということ。
だいたいこんなものだろう。 どれひとつ欠けてもバプテスマはすべきではないだろう。 戒めについては従う意思が求められている。
それぞれの知識に関する詳細な情報は必要ではないだろう。 完璧性は不要だが、子供でも分かる程度の概念の理解だけで十分でしょう。 不完璧さはエンダウメントまでに改善すればいい。 だけどどれひとつはしょっても問題です。
十分の一を知らないでバプテスマはありえないし、キリストや罪の概念を持たない者はバプテスマはありえない。もちろんバプテスマの希望は重要な条件であるが、希望だけでは不可能です。
これらはすべて宣教師のレッスンプランのどこかに書いてあって、割愛は許されていないはずである。
だけど当時は大幅に割愛が許されてました。 「何も変わっていない」はずはないと思います。
行なわれた修正
(
沼野
)
2014-01-14 20:28:34
>「何も変わっていない」はずはない
もちろんそうだと思っています。
天国は許し赦された人でいっぱい
(
美ら
)
2014-02-02 22:57:08
大変な時期があったのですね。
胸が痛みます。
強制的にバプテスマを進められた人や周りの人は、苦々しく苦しかったでしょう。胸が痛む思いです。
そのような事態を招いた結果、良心の呵責で一番苦しんだのは、それを勧めた指導者、実行した宣教師だったと思います。本当に苦しく辛かったと思います。
「性急に伝道を進める」のは決して「悪」ではないと思います。性急に進めるには、非常に霊的な犠牲が伴うもので、容易なことではないと思います。
「義の原則」・・そうだと思います。主の方法を熱烈に求めていれば、素晴らしい結果に繋がっていたと思います。残念ながら、全ての面でそれを完全に求めていなかったということなのでしょう。
それでも、周りは自分の霊性、主への信仰を守るために
「天国は許し、赦された人でいっぱい」ということを忘れてはいけないと思います。人がどうのこうの問題に翻弄されないように気をつけなければと思います。
不完全で弱い人であってもイエス・キリストのような愛を持った人が結果的に「天国」では「よし」とされるのでしょう。
わたしの経験を話させてください。
ある時期、わたしに悩みがあり、私の集う教会の指導者には相談できるものではありませんでした。
理由は、その時期、その指導者は大変な苦しい辛い時期を迎えていて、言動に普通じゃない「?」が多かったのです。本来は愛情深く、正直で素晴らしい方でした。
その指導者に相談しても確かな答えを与えてはくれないと思い、他のエリアの落ち着いた人格の持ち主の親しい指導者に度々相談していました。結果、良い答えを受けることはなく、悶々としていました。
そのような状況の中で、祈りをしていたら相談したくないと思っていた指導者に「相談すべき」という「強い促し」があったのです。
相談の結果は分っていましたが、謙遜になって相談する決意をしました。そして、相談の前に「〇〇〇から主の御心を与えられますように」と祈り、面接に臨みました。
面接の内容は、さんざんでした。感情的に非難したくなる内容でしたが、わたしの心は穏やかで平安があり、にこにこしながら対応できたのは、真っ直ぐなわたしからすると普通ではありませんでした^^;
指導者との面接を後にして、駐車場に向かうとき確かな霊感された「答え」となる啓示が与えられたのです。
その経験から学んだのは、主が選ばれた指導者を支持することの大切さでした。
リチャード・G・スコット長老が話された内容、正確なではないのですが、
「わたしたちの話に盲従にならないで下さい。わたしたちの話が主から霊感されたものか祈りを通して確認して下さい」でした。
結局のところ、主と個人が繋がっているかどうかで、信仰、霊性、周りの状況も教会も更に大きく発展し変わってくるのでしょう。
預言者が主から霊感うけているのかどうか認識できるのは、聖霊の賜物からもたらされる祝福を享受できる準備がわたしたちに出来ているのかだと思います。教会が発展するかどうかは、わたしたち一人一人に責任があるのでしょう。
賛同 (Great!)
(
NJ
)
2014-02-03 10:30:46
個人的な(辛かった)経験を吐露してくださり、有難うございます。
姉妹の寛容、純粋(正道)を貫く勇気、人柄の大きさを改めて感じました。・・貴重な存在。
主の贖罪を求めたからこそです
(
美ら
)
2014-02-03 11:07:56
とんでもありません!
わたしの思いでは、成し得なかったことです。
主の贖罪の力を求めたからこそなんです。
失望
(
元モルモン
)
2014-05-11 14:44:20
独り善がりの一神教宗教、それしか言いようがない。
改善は見込めない、信徒の選民的意識も変わらない。
どの教派も原理主義に傾倒してるが気付く気配もない。
もしイエスが正体を隠して地上に現れたら、クリスチャンに門前払いされる。師匠のイエスが貴方がたと違いすぎて「穢れを持ち込むな!」と怒って追い出します。
モルモンも他のクリスチャンもイエスのようにはしない。イエスは実践を重視する行動と行いの人であり、その解説は解りやすい。
拙速伝道と言うより拙速勧誘と言った方が相応しい。
イエスも福音もカルトではないが、キリスト教自体がカルト的なのです。
モルモンも諸教会も、信徒が信徒候補を紹介するシステムがあり、その連れてこられた人に素人が解説してるのですから、この類の問題は今後も残るでしょう。
モルモンもプロテスタントもカトリックも、人より宗教を重んじるのが最大の問題です。
「神の名によって人々を惨殺する時、彼等は最も活き活きとする」ユダヤ系宗教の特徴です。これほどの事を平気でするのですから、神の御名を用いれば、瀕死の両親を置き去りにして宗教活動に専念するなど容易な事です。
モルモンでは「我ら死すとも」一般的キリスト教会では「26人の殉教者」等を引き合いに出して死に至るまでの従順(個人的には盲従)を説き勧める。
迷惑な拙速伝道なんぞは、気にする事でもないのでしょう。
宗教中心になるようでは、福音足り得ません。モルモンも他の教会も悔い改めを説く前に、自分たちが宗教から距離を置き、俯瞰で眺め自省し自戒すべきです。
あくなき布教意欲
(
NJ
)
2014-05-11 17:17:41
拙速勧誘とも言える布教活動は「独善的」「ユダヤ系宗教の特徴」・・・ご指摘に異議なしです。
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もし神によって導かれている教会ならば、人間的な間違いがあっても、それらも含めて神によって導かれていることになるのではないでしょうか。
しかし、人間が造った教会ならばあらゆる矛盾を含んでいて当然になると思います。
論点は、拙速伝道がどうというよりも、この教会が真実の教会か否か、ということになるのではないでしょうか。
それを抜きにして、末節を論じてみても仕方がない気がします。
私も大阪に住んでおり、ステークは違いますが、いつか実際にお会いしてお話しする機会があればと思っています。
旧約でも、新約でも、ldsの歴史でも皆言えることだと思います。
末節というよりも、そう言ったことを論じられること、矯正していけることが大事(神の教会の資質)ではないかと思っています。
私も語り合うことができれば嬉しい(光栄)です。
伝道中に、東京南伝道部の話はほかの宣教師から聞いた覚えがあります。私が伝道したのはその時代より後ですが。
当時の伝道会長はビジネスライクに伝道を考えていたという話を聞いたように思います。バプテスマの多い宣教師を表彰していたとか。また聞きですので、本当のところは知りませんが。
この教会を神によって導かれているのか、はたまた人間によって導かれているのか、どちらに考えるかによってものの見方は変わってくるのだと思います。
また、神から受けた予言を宣言したのに、自分自身がその通りに従わなかった預言者もいます。
旧約聖書には、間違った予言をした預言者は死ななくてはならないと書いてあります。
ということは、間違った予言をすることもあるということではないでしょうか・・
あくまでも私の考えですが、預言というものは預言者自身が、多くの学びを経た上で、何かしらの選択や決断を迫られた時に〝神ならこういう風に民に言うだろう“という気持ちを述べたものはないかと思います。もちろん直接神の声を聞いたと表現されていますが、実際は確信がそう思い込ませたことも多いと思うのです。
預言者が間違うということは神を汚すことになるので、落とし前をつけなければなりません。私にとって問題は、間違うか、間違わないかということではなく、落とし前をつけるかつけないかということで、その点でけじめがついていないように感じます。
エレミア書の23章を読むと偽預言者について書かれています。
旧約の時代、預言者のいたコミュニティには神の臨在があったと思いますが、そのようなところでも間違った予言は生じたものと思われます。
神に導かれていても、誤った預言は出てくる可能性はあったと強く感じます。
それは預言者の資質によるところも多いでしょう。
イエス以前の律法学者・パリサイ人も該当しますし、イエス以降の人々も誤った教えを流布したことが多々あると感じています。
間違った予言をしたものは死ななくてはならないと書かれてありますが、実際に処刑されないにしても、死に等しい状態に置かれることがあり、次の言葉を読むと、間違いに対する報いを読み取ることができます。
23:37
あなたは預言者にこう言わなければならない、『主はあなたになんと答えられましたか』、『主はなんと言われましたか』と。
23:38
もしあなたがたが『主の重荷』と言うならば、主はこう仰せられる、『わたしが人をあなたがたにつかわして、あなたがたは「主の重荷」と言ってはならないと言わせたのに、あなたがたは「主の重荷」という言葉を言ったので、
23:39
わたしは必ずあなたがたを捕え移させ、あなたがたとあなたがたの先祖とに与えたこの町と、あなたがたとを、わたしの前から捨て去る。
23:40
そして、忘れられることのない永遠のはずかしめと永遠の恥を、あなたがたにこうむらせる』」。
モルモンも、他の教会もすでに〝誤ったことを教えた教会“として永遠の侮辱を受けているように思います。
ルターにとって、カトリックは間違った教会であり、ローマ教皇は間違った予言者と捉えられたことでしょう。
どの教会にもありうることだと感じています。
いつの日か過ちは過ちとしてはっきりと認める必要があると思いつつも、すでに神と世間からある種の罰は受けていると感じています。
世間から、悪い評価を得ることは、すでに神から捨て去られた状態と思います。
ただ、禊をすればまた神の寵愛を受けられるとも思います。
聖書の世界では、悔い改めて主に立ち返れば再び加護を受け、神の恵みを受けられるようになった例も多くあると思うのです。
モルモンもそのような状態にあると考えています。
最初は神に従っていましたが、途中で長老たち(?)の意見を聞かず、若い者の意見を受け入れて、神のみこころに適わないことを行い、どんどん神から離れていき、神も彼から離れていったという話を思い起こします。
正しい道を踏襲しなかったという点で拙速伝道と共通するものを感じています。
このような事象が発生したのは、王にも問題があるのですが、その周囲にいる人々がみこころを理解していなかったということだと思うのです。
この状態が後に正されたのは、預言者の力が機能したのかなとも思います。
ちょっと時間が掛かりましたが・・・・
現代の社会にあって、周囲にいる人々の責任も重要であるという点に特に賛意を覚えます。
このような会員記録は、活発会員と拙速伝道会員の両方に不幸をもたらし続けていると感じます。
私は、このような会員記録は早急に抹消されるべきであると思っています。
しかし会員記録の抹消について、実に多くの教会員が理解していません。驚くことは、私のワードの書記でさえ手続きを知らないという事実です。
また、会員記録の抹消によって、神様の前から断ち切られるような誤った感情を抱く神権指導者の存在も足かせとなっています。
拙速伝道の事実は、会員記録の抹消によって解消するわけではないけど、活発教会員や拙速伝道会員にとって祝福になると思います。
私の強い思いです。
神の教会から絶たれてしまうのを恐れるというのは、一理あるように聞こえますがそれは乗り越えなければならない考えであると思います。
末日聖徒は大菅長について、神に召された義なる人という認識を持っている。 それは正しいだろう。
そして神に召された義なる人だから、神につながっており、それゆえ教会運用を絶対に間違わないと思ってる。 なるほど大管長会は全力で教会を運用するから概ね正しい方向に導かれている。
しかし絶対にそうだという信仰おそらくそれが間違った認識なのだろう。
教会はそんなことは教えてはいなかったはず。人は誰でも不完全と教えてます。 預言者を非難するなとも教えてますが、預言者は間違わないと教えた事がない。
長老定員会の会長に召されたら、神から召されたから絶対に間違わないという保障はない。 というかしくじることの方が多かったりする。 義なる預言者も度々間違うというのが正しい信仰なのだろうと思います。 願望と信仰は違うものです。
拙速伝道については、確かに主が大管長に当時の日本をもっとバプテスマせよとお命じになったんだと思います。 だけどその方法は民(預言者)に任されたんだと思います。 拙速伝道が良いと思ったのかも知れないが義の原則からは外れており、運用を間違った。 結果は必ず生じ、呪いとして大量の反モルモンが生まれて明らかなトゲになっています。
本気でわけがわからんうちのバプテスマはモルモンが憎んだ幼児のバプテスマと同じことです。 義の原則から外れたら神権は働かないので、まともな神権者が行ってもそのバプテスマは無効だったという結果になるのだろうと思います。
神の教会から絶たれてしまう恐怖というよりは最初から繋がらないから、福千年には未信者と共に二回目のバプテスマを行うチャンスを得ることになるんじゃないですか?
これで落とし前が終わるとも思えないが、少なくとも、正しい会員登録の抹消方法についてはもっと公開すべきと思います。 いかに都合が悪かろうが正しい知識の普及は悪ではなく善なので。
>「わけがわからんうちのバプテスマ」は「モルモンが憎んだ幼児のバプテスマ」と同じこと。
この指摘は、当時拙速バプテスマを推進ないし容認した指導者の心にずしりとくるはずです。
変わったのは数が多いか少ないかだけです。
まず基本的な問題が有ります。
それは、「教義を理解していただいた上で、会員になるかどうかを決めてもらう」と言う姿勢では無い事です。
私自身も、ほとんど全くといっていいほど、教義を理解しないまま会員に成りました。昔は標準聖典の一つである教義と聖約を、会員になる前は見せないと言う決まりさえ有りましたから。
つまり、「会員に成るのに、教義を理解する必要は無い」と言うのが現在でも基本的な考えです。
宣教師のレッスンを聞いて、「バプテスマを受けてもいい」と思った人がバプテスマを受けて会員に成ります。「聞け」ば良いだけです、「理解したか?」は関係有りません。
次に構造的な問題です。
それは、「会員に成るまでは、伝道部の責任、会員になった後はワード(地元支部)の責任」と言う構造です。
伝道部に所属するフルタイムの宣教師が、バプテスマを受けてもらうかどうかを判断し、その後の面倒を見るワードの役員には、判断の権限が有りません。
組織的に言って、伝道部の方がワードより上ですから、ワードから伝道部に文句を言う事が出来ない。
バプテスマを受けてから、全く教会に来ないような会員でも、ワードの会員がフォローしなければいけない。
違った側面から見ると、「教会に関心を持つ人に対して真摯に教会の教えを説くシステムが存在しない」と言う事です。
宣教師のレッスンの中に、「キリスト教について教える」と言う内容が入って居ません。
「そんなややこしい事は、ほっといて、とにかくバプテスマを受けさせなさい」と言う事なんでしょう。
もし、今のワードでこの問題を解決する方法を見つけるとすれば、「日曜学校の求道者クラス」を充実する。と言う方法しか無いでしょう。
ワードの日曜学校の教師が、宣教師が教えない事を、きっちりと教える。
ま、日曜学校の会長で、こんな事を考える人は居ないでしょうね。
現状で出来そうなシステムとすれば、
1、会員が教会に興味の有る人を見つける
2、その人を、日曜学校の求道者クラスで教える
3、その後、本人の希望が有れば、宣教師に紹介する
これが、わたしの思う「会員伝道」ですね。
蛇足ですが、日曜学校と言うのは便利なもので、必要であれば、日曜日以外にもクラスが開けるんですよね。
>ま、日曜学校の会長で、こんな事を考える人は居ないでしょうね。
現職日曜学校会長に提案ですか、挑戦ですか?せっかくの、大賛成できる提案(気づき)も私の受ける印象は相変わらずの感じがしてしまいます。塩味をつけられた書き方を希望します。
塩味は一度憶えると止められないそうです。
豚の塩漬けも美味しいらしいですが、食べない方が長生きできると思いますよ。
馬年になっても、豚は豚ですね。
今年も宜しくお願いします。
当時の聖徒の道には輝かしい南伝道部の成功が記事になっていたように思います。
わたくし自身は地方にいたせいもあり、普通の伝道しか目にしませんでしたが。。
ただK長老が
「きっと末日には日本人は福音を受け入れない時代が来るでしょう。今のうちに刈り入れておきましょう。」という言葉には危険な香りを感じました^^;
まぁ、日本の指導者の多くは危ないなーと思いながらも、日本最初の幹部に逆らえなかったのかなと、半ば同情的です。
急成長を遂げたメキシコなども同じようなことがあったとか。
昔の伝統キリスト教の強制改宗の負の経験が現在の穏やかな伝道姿勢を作っているのでしょうか。ならば、LDSの負の伝道経験も正の伝道姿勢に役立てるべきでしょう。
提言素晴らしいと思います。
しかし、そーいえば数日前の毎日新聞だったか。。世界的にキリスト教信者が激減しているとか。。LDSはまだまし。。
神が存在すると信じていること。 キリストと贖いの役割、聖霊の役割、預言者の役割、「罪」の定義と悔い改めの方法。
モルモン書を聖典としていること。
バプテスマの意味・死者のバプテスマの意味
十分の一・智恵の言葉・純潔の律法・安息日を守ること。
末日聖徒イエスキリスト教会には神権があり、神に導かれた教会であるということ。
だいたいこんなものだろう。 どれひとつ欠けてもバプテスマはすべきではないだろう。 戒めについては従う意思が求められている。
それぞれの知識に関する詳細な情報は必要ではないだろう。 完璧性は不要だが、子供でも分かる程度の概念の理解だけで十分でしょう。 不完璧さはエンダウメントまでに改善すればいい。 だけどどれひとつはしょっても問題です。
十分の一を知らないでバプテスマはありえないし、キリストや罪の概念を持たない者はバプテスマはありえない。もちろんバプテスマの希望は重要な条件であるが、希望だけでは不可能です。
これらはすべて宣教師のレッスンプランのどこかに書いてあって、割愛は許されていないはずである。
だけど当時は大幅に割愛が許されてました。 「何も変わっていない」はずはないと思います。
もちろんそうだと思っています。
胸が痛みます。
強制的にバプテスマを進められた人や周りの人は、苦々しく苦しかったでしょう。胸が痛む思いです。
そのような事態を招いた結果、良心の呵責で一番苦しんだのは、それを勧めた指導者、実行した宣教師だったと思います。本当に苦しく辛かったと思います。
「性急に伝道を進める」のは決して「悪」ではないと思います。性急に進めるには、非常に霊的な犠牲が伴うもので、容易なことではないと思います。
「義の原則」・・そうだと思います。主の方法を熱烈に求めていれば、素晴らしい結果に繋がっていたと思います。残念ながら、全ての面でそれを完全に求めていなかったということなのでしょう。
それでも、周りは自分の霊性、主への信仰を守るために
「天国は許し、赦された人でいっぱい」ということを忘れてはいけないと思います。人がどうのこうの問題に翻弄されないように気をつけなければと思います。
不完全で弱い人であってもイエス・キリストのような愛を持った人が結果的に「天国」では「よし」とされるのでしょう。
わたしの経験を話させてください。
ある時期、わたしに悩みがあり、私の集う教会の指導者には相談できるものではありませんでした。
理由は、その時期、その指導者は大変な苦しい辛い時期を迎えていて、言動に普通じゃない「?」が多かったのです。本来は愛情深く、正直で素晴らしい方でした。
その指導者に相談しても確かな答えを与えてはくれないと思い、他のエリアの落ち着いた人格の持ち主の親しい指導者に度々相談していました。結果、良い答えを受けることはなく、悶々としていました。
そのような状況の中で、祈りをしていたら相談したくないと思っていた指導者に「相談すべき」という「強い促し」があったのです。
相談の結果は分っていましたが、謙遜になって相談する決意をしました。そして、相談の前に「〇〇〇から主の御心を与えられますように」と祈り、面接に臨みました。
面接の内容は、さんざんでした。感情的に非難したくなる内容でしたが、わたしの心は穏やかで平安があり、にこにこしながら対応できたのは、真っ直ぐなわたしからすると普通ではありませんでした^^;
指導者との面接を後にして、駐車場に向かうとき確かな霊感された「答え」となる啓示が与えられたのです。
その経験から学んだのは、主が選ばれた指導者を支持することの大切さでした。
リチャード・G・スコット長老が話された内容、正確なではないのですが、
「わたしたちの話に盲従にならないで下さい。わたしたちの話が主から霊感されたものか祈りを通して確認して下さい」でした。
結局のところ、主と個人が繋がっているかどうかで、信仰、霊性、周りの状況も教会も更に大きく発展し変わってくるのでしょう。
預言者が主から霊感うけているのかどうか認識できるのは、聖霊の賜物からもたらされる祝福を享受できる準備がわたしたちに出来ているのかだと思います。教会が発展するかどうかは、わたしたち一人一人に責任があるのでしょう。
姉妹の寛容、純粋(正道)を貫く勇気、人柄の大きさを改めて感じました。・・貴重な存在。
わたしの思いでは、成し得なかったことです。
主の贖罪の力を求めたからこそなんです。
改善は見込めない、信徒の選民的意識も変わらない。
どの教派も原理主義に傾倒してるが気付く気配もない。
もしイエスが正体を隠して地上に現れたら、クリスチャンに門前払いされる。師匠のイエスが貴方がたと違いすぎて「穢れを持ち込むな!」と怒って追い出します。
モルモンも他のクリスチャンもイエスのようにはしない。イエスは実践を重視する行動と行いの人であり、その解説は解りやすい。
拙速伝道と言うより拙速勧誘と言った方が相応しい。
イエスも福音もカルトではないが、キリスト教自体がカルト的なのです。
モルモンも諸教会も、信徒が信徒候補を紹介するシステムがあり、その連れてこられた人に素人が解説してるのですから、この類の問題は今後も残るでしょう。
モルモンもプロテスタントもカトリックも、人より宗教を重んじるのが最大の問題です。
「神の名によって人々を惨殺する時、彼等は最も活き活きとする」ユダヤ系宗教の特徴です。これほどの事を平気でするのですから、神の御名を用いれば、瀕死の両親を置き去りにして宗教活動に専念するなど容易な事です。
モルモンでは「我ら死すとも」一般的キリスト教会では「26人の殉教者」等を引き合いに出して死に至るまでの従順(個人的には盲従)を説き勧める。
迷惑な拙速伝道なんぞは、気にする事でもないのでしょう。
宗教中心になるようでは、福音足り得ません。モルモンも他の教会も悔い改めを説く前に、自分たちが宗教から距離を置き、俯瞰で眺め自省し自戒すべきです。