コメント
パウロの研究楽しみ
(
オムナイ
)
2015-09-15 08:02:20
素晴らしく興味深い記事ですね。
ジョセフ・スミスもパウロをリスペクトしていた!
「実じつに、わたしたちはパウロの勧告に従したがうと言いってもよい。」信仰箇条13
新約聖書で多くを占めるパウロの書簡ですが、確かに素晴らしい。
ですが個人的には他の使徒達以上の見識があったとは思えない。
むしろキリストを失った使徒達が生まれながらのローマ市民でギリシャ語に堪能なサウロをヘッドハンティングした。という感覚を持っています。
他の使徒達もヘブライ語で教えを書かせればパウロ以上に名文を書いたと思います。
歴史学的な事実は?
(
豚
)
2015-09-16 14:20:46
>自信にあふれ、明確な書信が展開されるのを読んで心に生じた思いである。
パウロの書簡のすべてをパウロ本人が書いたとすれば、その様に思えるでしょうが、実際のところは、誰が書いたのかはっきりしないものが多いのではないですか?
マタイの福音書を書いたのが、マタイ本人ではなく、「マタイ学派」(と呼ばれたかどうかは知りませんが)の創作である。と言う説も有りますし、パウロの書簡の多くは、後の時代に書かれたもので、パウロ自身が書いた物ではない。と言う説も有ります。
特定の意図をもって、創作されたものは、文章に迷いは無く、自信にあふれ明確な展開がなされるのも当然です。
私も、最初に読んだときは少なからず感動したのですが、何度か読んでいるうちに「押しつけがましい」と感じることが多くなりました。
例えば、男はこうあるべき、女はこうあるべき、親は、子は・・・・さらに、人間はこうあるべき、信仰はこうでないといけない!
もっと押しつけがましいのは、「愛とはこうである!!」と大上段に構えるところです。
愛も、人間も、こうあるべきなんて基準は無いし、生きているうちに自然に生まれて身につくものです。
結局、パリサイ派から一歩も踏み出していない。
やかましい鐘や乳鉢と言うのは、それを書いた人たちだと思いますね。
「静かにしろ!!!!」と言う声が一番大きいのは、水戸黄門だけじゃないなぁ~・・・。
手紙って誰に
(
豚
)
2015-09-16 14:54:11
テレビの番組で、「開運なんでも鑑定団」と言うのが有って、そこに、古文書が時々出てきます。
織田信長が書いた手紙とか言うやつですけど。
これまでいくつもの古い手紙が出てきましたが、そのすべてが、個人に宛てたものです。
例えば、「豊臣秀吉から、中国地方の人々へ」等と言う手紙は見たことが有りません。
これは、手紙と言うのが、個人と個人の連絡手段だからです。
ところが、新約聖書の書簡は、すべて「・・・の人々へ」なのです。ちょっと考えれば、こんな変な手紙は有りません。郵便屋さんが何処に配達したらいいのか迷うじゃないですか。
それに、手紙と言うのは、受取人の手元に残るものです。バラバラの受取人、しかも受取人の名前が無い手紙が、どうして、一つの書物に集まっているのでしょうか?
ペテロの第二の手紙の最後には、ペテロの手紙の内容をパウロが知っているように書いてある。それも、みんなが当然それを読んでいるように書いてあります。
実に不自然だと思いませんか?
Eメールはもちろん、印刷技術もなく、紙そのものが貴重な時代に、1枚の手紙を多くの人が読むことがいかに困難なのか、そもそも、みんな字が読めたのか?
その辺のところを考えると、パウロの書簡の実在性を疑わざるを得ません。
実際に、パウロが書いた手紙が残っているのでしょうか?パウロの筆跡が残っているのでしょうか?パウロの指紋でもついているのでしょうか?
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ジョセフ・スミスもパウロをリスペクトしていた!
「実じつに、わたしたちはパウロの勧告に従したがうと言いってもよい。」信仰箇条13
新約聖書で多くを占めるパウロの書簡ですが、確かに素晴らしい。
ですが個人的には他の使徒達以上の見識があったとは思えない。
むしろキリストを失った使徒達が生まれながらのローマ市民でギリシャ語に堪能なサウロをヘッドハンティングした。という感覚を持っています。
他の使徒達もヘブライ語で教えを書かせればパウロ以上に名文を書いたと思います。
パウロの書簡のすべてをパウロ本人が書いたとすれば、その様に思えるでしょうが、実際のところは、誰が書いたのかはっきりしないものが多いのではないですか?
マタイの福音書を書いたのが、マタイ本人ではなく、「マタイ学派」(と呼ばれたかどうかは知りませんが)の創作である。と言う説も有りますし、パウロの書簡の多くは、後の時代に書かれたもので、パウロ自身が書いた物ではない。と言う説も有ります。
特定の意図をもって、創作されたものは、文章に迷いは無く、自信にあふれ明確な展開がなされるのも当然です。
私も、最初に読んだときは少なからず感動したのですが、何度か読んでいるうちに「押しつけがましい」と感じることが多くなりました。
例えば、男はこうあるべき、女はこうあるべき、親は、子は・・・・さらに、人間はこうあるべき、信仰はこうでないといけない!
もっと押しつけがましいのは、「愛とはこうである!!」と大上段に構えるところです。
愛も、人間も、こうあるべきなんて基準は無いし、生きているうちに自然に生まれて身につくものです。
結局、パリサイ派から一歩も踏み出していない。
やかましい鐘や乳鉢と言うのは、それを書いた人たちだと思いますね。
「静かにしろ!!!!」と言う声が一番大きいのは、水戸黄門だけじゃないなぁ~・・・。
織田信長が書いた手紙とか言うやつですけど。
これまでいくつもの古い手紙が出てきましたが、そのすべてが、個人に宛てたものです。
例えば、「豊臣秀吉から、中国地方の人々へ」等と言う手紙は見たことが有りません。
これは、手紙と言うのが、個人と個人の連絡手段だからです。
ところが、新約聖書の書簡は、すべて「・・・の人々へ」なのです。ちょっと考えれば、こんな変な手紙は有りません。郵便屋さんが何処に配達したらいいのか迷うじゃないですか。
それに、手紙と言うのは、受取人の手元に残るものです。バラバラの受取人、しかも受取人の名前が無い手紙が、どうして、一つの書物に集まっているのでしょうか?
ペテロの第二の手紙の最後には、ペテロの手紙の内容をパウロが知っているように書いてある。それも、みんなが当然それを読んでいるように書いてあります。
実に不自然だと思いませんか?
Eメールはもちろん、印刷技術もなく、紙そのものが貴重な時代に、1枚の手紙を多くの人が読むことがいかに困難なのか、そもそも、みんな字が読めたのか?
その辺のところを考えると、パウロの書簡の実在性を疑わざるを得ません。
実際に、パウロが書いた手紙が残っているのでしょうか?パウロの筆跡が残っているのでしょうか?パウロの指紋でもついているのでしょうか?