ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

何某の院の物語…『夕顔』(その9)

2017-07-21 03:30:08 | 能楽
後シテは若女の面が建前となっていますが、増を使うこともあります。装束は長絹に緋大口の姿。長絹は夕顔の花の色の印象から白地を選ぶ演者が多いと思いますが、もう少し工夫の余地はあるように思います。

後シテ「さなきだに女は五障の罪深きに。聞くも気疎きものゝけの。人失ひし有様を。現す今の夢人の。跡よく弔ひ給へとよ。とワキヘ向き
ワキ「不思議やさては宵の間の。山の端出でし月影の。ほの見え初めし夕顔の。末葉の露の消え易き。本の雫の世語を。かけて顕し給へるか。
シテ「見給へ此処も自づから。気疎き秋の野らとなりて。
ワキ「池は水草に埋もれて。古りたる松の蔭暗く。
シテ「また鳴き騒ぐ鳥の嗄声身に沁み渡る折からを。
と面伏せて聞き
ワキ「さも物凄く思ひ給ひし。
シテ「心の水は濁江に。引かれてかゝる身となれども。
とワキへツメ足
シテ「優婆塞が。行ふ道をしるべにて。と正へ向き
地謡「来ん世も深き。とサシ込ヒラキ 契り絶えすなとシテ柱にクツロギ 契り絶えすな。 と正面に向き これより序之舞

後シテも ひたすら動作が少ないですねー。ぬえの経験としても後シテが登場して舞にかかるまでにシテ柱から動かないまま、というのは初めての経験かもしれません。『井筒』が同じようにシテ柱から動かないけれど、「形見の直衣。。」あたりに型もありましたが、『夕顔』ではワキとの問答の中から舞に移ってゆく感じです。

序之舞でようやく動き出すシテ。可憐な夕顔がシテでありながら、能『夕顔』はひたすら重厚に、彼女の恋というよりは その死に焦点を当てたような曲ですね。この場面も夕顔が舞を舞う、というよりは僧の弔いに対する報謝として描かれていると思います。

やがて序之舞が終わると終曲に向かいます。

シテ「お僧の今の。弔ひを受けて。とワキヘ向き
地謡「お僧の今の弔ひを受けて。数々嬉しやと。と正へ出
シテ「夕顔の笑みの眉。とヒラキ
地謡「開くる法華の。
シテ「英も。
とツマミ扇にて扇を前へ上げ
地謡「変成男子の願ひのまゝに。 と左へ廻り、解脱の衣の。袖ながら今宵は。何を包まんと とワキの前でヨセイ、言ふかと思へば音羽山。 と正へ出、嶺の松風通ひ来て。 と脇座の上の方を見回し、明け渡る横雲の と雲ノ扇にて見上げ、迷ひもなしや。東雲の道より と脇座よりサシにて舞台を大きく右に廻り、法に出づるぞと。暁闇の空かけて とシテ柱にて正へヒラキ、雲の紛れに。失せにけり。 とトメ拍子踏み幕へ引く

夕顔が舞を舞う。。前述したように、これは報謝の舞ではありますが、それはそのまま夕顔が僧の弔いに感謝してダンスを見せた、という訳ではないでしょう。ぬえは、ここは本来「イロエ」を舞う心なのだろうと解釈しています。

本三番目物、鬘物の能の定石として能『夕顔』にも序之舞が置かれており、ここまで動きの少ない能であれば、この序之舞が唯一 この能の見どころという事になりますが、この舞は夕顔上が実際に舞ったのではなく、僧の弔いに感謝を述べ回向を受けている、ということを舞台芸術として視覚的に表現した、と解するべきだと思います。

夕顔の感謝の気持ちと、僧による教化を敬虔な気持ちで受けているはずのこの場面であれば、この舞はこの夕顔の心の動き、と読むべきでしょう。とすれば実際には ゆったりしたテンポでノリのない囃子、動作の方が似合うはずです。拍子に合わない囃子による舞というものは能の中にはないと思いますが、これに一番イメージが合うのが「イロエ」なのです。

イロエはごくゆったりと地を打つ大小鼓と、拍子に合わずに演奏される笛による舞ですが、いまひとつ定義が定まっていません。ときに太鼓が参加する「イロエ」もありますが、シテ方では太鼓が入った場合は「イロエ」と称せず「立廻り」と言う方が多いのですが、『歌占』や『百萬』のそれには太鼓は入らないのにシテ方でも「立廻り」と唱えますし、『巻絹』は太鼓が入るのに「イロエ」。このように同じ舞をシテ方と囃子方とでは呼び方が違う場合さえあるのです。

上に「舞」と書きましたが、「イロエ」でのシテの動作には 積極的な意味はない場合がほとんどです。静かに舞台を一巡する程度で、多くは主人公の心の揺らぎとか、茫洋とさまよう動作を表します。これに対して「立廻り」には動作に積極的な意味がある場合が多く、前述の『百萬』では母親が生き別れた我が子を探す動作です。シテ方はこの動作に意味があるかないかで「イロエ」と「立廻り」を区別している、とも考えられますが、その基準に合わない場合もあって、結局このふたつの定義は曖昧だと言わざるを得ません。

能『夕顔』でこの場面に「イロエ」ではなく「序之舞」が舞われるのは、台本全体の中では後場が短いので「イロエ」ではバランスが取れない、ということもありましょうし、やはり格式を備えた本三番目物の能として、重量のある「序之舞」が必要だった、ということもあるでしょう。

しかし、序之舞が置かれているから、と言って舞踏としての舞を舞うのは、この曲の場合そぐわないはずです。あくまで僧に対する感謝と、仏法に帰依する敬虔な気持ちの表現であるべきでしょうね。

もうひとつ、ここに序之舞が置かれた理由として ぬえが考えることがあります。それは10分近くにおよぶ序之舞の長さ。この中でシテの心情は変わってきています。

それを如実に語るのがキリの冒頭。。つまり序之舞を舞い上げたシテが発する最初の言葉です。「お僧の今の弔ひを受けて、数々嬉しやと夕顔の笑みの眉。。」 シテは弔いに対する感謝だけではなく喜びを表していて、これが能『夕顔』のひとつの特長であると思います。

それどころか夕顔のシテは成仏までをも果たしているのですね。地謡「変成男子の願いのままに解脱の衣の袖ながら今宵は何をつつまん」。。シテがワキ僧に対して包み隠すことがありましょう、というのは、その回向によって成仏できた喜びのことで、この曲の終盤は主人公が成仏する清浄な世界と、その法悦にひたるシテの喜びに満ちあふれています。終曲は「雲の紛れに失せにけり」という文句で、主人公は昇天して消え失せるのですよね。

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