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【滋賀・近江の先人第70回】普請奉行・作庭家・小堀遠州(長浜市)

小堀 政一(こぼり まさかず)1579年0月0日-1647年3月12日、満68歳没は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名、茶人、建築家、作庭家、書家。備中松山藩第2代藩主、のち近江小室藩(1万2千石)初代藩主。遠州流茶道の祖。近江坂田郡小堀村(現長浜市)出身。

一般には小堀 遠州(こぼり えんしゅう)の名で知られるが、「遠州」は武家官位の遠江守の唐名に由来する通称で後年の名乗り。幼名は作助、元服後は、正一、政一と改める。道号に大有宗甫、庵号に孤篷庵がある。

小堀遠州は、近世大名。戦国期、近江坂田郡小堀村(現長浜市)より興る。浅井氏滅亡後、正次は羽柴(豊臣)秀長に属し、その死後秀吉に仕え大和、和泉に5000石を領した。関ヶ原の戦では東軍に属し備中に1万石を加増される。その子政一(遠州)は1604年(慶長9年)遺領を継ぎ、のち近江に移封となり,備中・近江などの国奉行や伏見奉行を歴任した。また茶道遠州流の祖として知られ、作事奉行として造庭にも手腕を発揮した。その後、代々近江小室を領したが1788年(天明8年)政方の代に伏見奉行としての失政を問われ改易された。戦国時代から江戸時代にかけての大名、茶人、建築家。特に作庭家としても名高い。



↑滋賀県甲賀市の「大池寺」の「蓬莱庭園」は江戸初期寛永年間に小堀遠州の作として伝えられサツキの大刈り込み鑑賞式枯山水庭園とし有名である。

備中松山藩の2代藩主で近江小室藩の初代藩主でもある。 一般に知られる「遠州」は官位の遠江守に由来する呼称で、実際の名は政一。幼名は作助。初名は正一。道号は、大有宗甫。庵号は、狐蓬庵。おもな官位は、従五位下遠江守。

小堀遠州は、近江国坂田郡小堀村の土豪だった父・小堀正次の長男として誕生、父が羽柴秀吉(豊臣秀吉)の弟・秀長に仕えていたことから遠州も秀長に仕えた。秀長没後は秀吉に仕え、その頃、京を代表する文化人であった古田織部に茶の湯を学んだという。

秀吉の死後は父とともに徳川家康に仕えた。1604年には父の遺領である備中松山1万2000石余を受け継ぎ、1608年には駿府城の普請奉行に、1619年には近江国小室藩に移封となり、さらに1622年には近江国奉行、1624年には伏見奉行に任ぜられた。

小堀遠州が特にその才能を発揮したのが作事に関する数々の事業である。遠州が手がけた作事の一例をあげると、後陽成院御所の造営、駿府城修築、備中松山城の再建、品川東海寺、南禅寺金地院内東照宮や本坊方丈南庭、大徳寺竜光院密庵席など数え切れない。 また、「遠州流」といわれる茶道の一派を創設した茶人としても知られ、明るく大らかなその茶風は「きれいさび」と称され、三代将軍・家光の茶道師範も務めた。

ヒストリー
小堀氏の本姓は藤原氏で、光道の代に近江国坂田郡小堀村(現・滋賀県長浜市)に居住して村名を姓として名乗った。光道から6代の後の小堀正次は、縁戚であった浅井氏に仕えていたが、天正元年(1573年)の浅井氏滅亡後は羽柴秀吉の弟・秀長の家臣となった。

政一は天正7年(1579年)、その正次の長男として生まれた。

天正13年(1585年)、秀長が郡山城に移封されると、正次は家老となり、政一もともに郡山に移った。

この頃、秀長は山上宗二を招いたり、千利休に師事するなどし、郡山は京・堺・奈良と並んで茶の湯の盛んな土地となっていた。小姓だった政一は、秀吉への給仕を務め、利休や黒田如水、長政父子とも出会い、長い親交を深めていった。また、父の勧めもあって大徳寺の春屋宗園に参禅した。

秀長の死後を嗣いだ秀保もまもなく死去したため、文禄4年(1595年)に秀吉直参となって伏見に移ることになった。ここで政一は古田織部に茶道を学ぶことになり、第一の弟子と称された。

慶長3年(1598年)、秀吉が死去すると、正次・政一は徳川家康に仕えた。正次は関ヶ原の戦いでの功により備中松山城を賜り、慶長9年(1604年)の父の死後、政一はその遺領1万2,460石を継いだ。浅井郡小峰邑主。

慶長13年(1608年)には駿府城普請奉行となり、修築の功により、慶長14年(1609年)、従五位下遠江守に叙任された。以後この官名により、小堀遠州と呼ばれるようになる。

居所としては、正次の頃から伏見六地蔵の屋敷があったが、越後突抜町(三条)にも後陽成院御所造営に際して藤堂高虎から譲られた屋敷があった。また元和3年(1617年)に河内国奉行を兼任となり、大坂天満南木幡町に役宅を与えられた。

元和5年9月(1619年10月)、近江小室藩に移封され、さらに元和8年8月(1622年9月)に近江国奉行に任ぜられる[1]。

元和9年12月(1624年1月)、伏見奉行に任ぜられた。

晩年になり真偽は不明であるが公金1万両を流用したとする嫌疑がかかった。しかし、酒井忠勝・井伊直孝・細川三斎らの口添えにより不問とされた。

その後も伏見奉行を務めながら茶の湯三昧に過ごし、正保4年2月6日(1647年3月12日)、伏見奉行屋敷にて69歳で死去した。

なお、子孫は松平定信により天明8年(1788年)に改易の憂き目に逢い、大名家としての小堀家は断絶することになった。文政11年(1828年)に300俵を与えられ、御家人として再興を許された。

作事
政一の公儀作事に関する主な業績としては備中松山城の再建、駿府城修築、名古屋城天守、後陽成院御所造営等の宮中や幕府関係の作事奉行が挙げられる。

宮中造営の業績のほかに品川東海寺(徳川家の菩提寺兼別荘)、将軍上洛の際の休泊所である水口御殿(滋賀県甲賀市水口町水口)、永原御殿(滋賀県野洲市永原)、伊庭御殿(滋賀県東近江市伊庭町)、柏原御殿(滋賀県米原市柏原)、大坂城内御茶屋などが知られている。また京都の寺では将軍の側近・以心崇伝の住坊である南禅寺塔頭金地院内東照宮や御祈祷殿(方丈)側の富貴の間、茶室および庭園、同寺本坊の方丈庭園など準公儀の作事に参画しているが、政一の書状の文面から推察できるように、彼は江戸にある幕府からの愛顧を気にしていた関係から公儀の作事(幕府の対皇室政策)以外は公家への出入りは極力避けていた。師・古田織部のような非業の死を避けるためとも思われる。

政一が奉行として参画したと思われる遺構は建築としては妙心寺塔頭麟祥院の春日局霊屋(慶長年間、うち溜りを移建)、氷室神社拝殿(慶長年間、内裏池亭を移建)、大覚寺宸殿(慶長年間の内裏の元和期増造の際に中宮宸殿となる)、金地院東照宮、同茶室(重文)、同方丈南庭(鶴亀庭)、南禅寺本坊方丈南庭、大徳寺塔頭龍光院の密庵席(みったんせき、国宝)、孤篷庵表門前の石橋、同前庭、同忘筌席露地(建築は寛政年間に焼失後、旧様式を踏襲して復元された)、仙洞御所南池庭のいで島およびその東護岸の石積み部分などである。京都の金工師で加賀藩前田家の家臣の後藤覚乗の茶室擁翠亭は、「十三窓席」といわれた多窓茶室である。また札幌市にある草庵茶室八窓庵(旧舎那院忘筌、重文)、加賀大聖寺藩長流亭も手がけていると言われる。

庭園の作風については政一は師である織部の作風を受け継ぎ発展させたとされるが、特徴は庭園に直線を導入したことである。屏風画に残る御所で実施した築地の庭(後には改修される)や桂離宮の輿寄の「真の飛石」が小堀好みと伝えられた所以とされるが、種々な形の切石を組み合わせた大きな畳石と正方形の切石を配置した空間構成は以前には見られないもので、特に松琴亭前の反りのない石橋は圧巻である。また樹木を大胆に刈り込み花壇を多く用い、芝生の庭園を作るなどの工夫は西洋の影響が指摘される。

茶の湯
政一の茶の湯は現在ではきれいさびと称され、遠州流として続いている。政一は和歌や藤原定家の書を学び、王朝文化の美意識を茶の湯に取り入れた。

また、秀吉の時代以前に名物とされた茶道具の多くが秘蔵の品として入手困難となっていたため、新たにこれはという茶道具に銘をつけて宣伝し、名物として認知されるようにしていった[2]。その際、彼は和歌や歌枕の地名、伊勢物語や源氏物語といった古典から取った銘を用い、同じようなデザインのものを「-手」として類型化した上で特定の固体を「本歌」とし、同じ手のものには本歌にちなんだ銘を与えることで、茶道具のデザインを系統立てて把握できるような仕組みを考案した[3]。

こうして小堀が有名にした茶道具群は、後世中興名物と呼ばれることとなった。

茶室においては、織部のものより窓を増やして明るくした13の窓を持つ茶室「擁翠亭」がある。これは前田利常に依頼されて設計したものである。政一は生涯で約400回茶会を開き、招いた客は延べ2,000人に及ぶと言われる。彼の門下としては松花堂昭乗、沢庵宗彭などがいる。

華道
小堀遠州がもたらした美意識は華道の世界にも反映され、それがひとつの流儀として確立、江戸時代の後期に特に栄えた。遠州の茶の流れを汲む春秋軒一葉は挿花の「天地人の三才」を確立し、茶の花から独自の花形へと展開していった。

その流儀は、正風流・日本橋流・浅草流の三大流派によってその規矩が確立された。時代が下って、昭和の初期にかけては既成の流派から独立した家元や宗家が多く生まれ、明治の末期をピークとして遠州の名を冠した流派は大幅に増えることになった。

これらの流派は一般に、花枝に大胆で大袈裟な曲をつける手法という共通した特徴がある。華道でこうした曲生けは、技術的に習得するのが至難な技法として知られている。

七宝
小堀遠州は、茶室などの空間設計の一環に七宝細工による色彩や装飾を本格的に取り入れた(伝承上の)最初の人物である[4]。遠州は、豊臣秀吉に仕えていた金工師の嘉長を登用し、戸袋や襖の引き手など七宝細工の製作にあたらせたと伝えられている。嘉長は伊予(現在の愛媛県)松山の生まれの金工で、京都の堀川油小路に住んでいた[5]。

桂離宮の松琴亭の二の間戸袋の巻貝形七宝引手は遠州の指導により意匠をさずけられた嘉長の作という[6]。 京都の桂離宮、曼殊院、修学院離宮、大徳寺などの七宝引手や釘隠しは、今でも建屋の中で使われている状態を見ることができる。千利休や古田織部好みの茶室などと比較すると、七宝による装飾は遠州好みの書院風の空間によくなじむ。

尚、小堀家の家紋「花輪違紋」は「七宝花菱」とも呼ばれているが、これは、輪違い連続文様における一つの輪が四方へと無限に広がる様子、「四方」が「七宝」に転じたものという説や、「花輪違」は四個の輪からできており「四方襷(しほうたすき)」あるいは「十方」などとも呼ばれたことから、「十方」がなまって「七宝」に転じたという説がある。

ところで、七宝細工を意味する「七宝瑠璃」という語は、室町時代、足利義政が将軍の頃から使われているが、七宝瑠璃と七宝紋の関係については不明である。遠州以前の室町時代、侘び・さびを尊んだ茶の湯の隆盛の下では、華麗な色彩が身上の七宝器は茶人の受け入れるところではなかったという。豊かな色彩や装飾性が一般に受け入れられるようになったのは、遠州や琳派の時代(桃山時代以降)を迎えてからのことであった。

その他
    八条宮智仁親王、近衛応山、木下長嘯子など当代一流の文化人たちとの交際が知られる。元和7年(1621年)と寛永19年(1642年)の江戸から上洛途次の歌入日記にもその文学趣味がよく現れている。
    政一が着用したと伝えられる具足が東京国立博物館に所蔵されている。
    松山(高梁)に居住していた時、備中国で多く作られていた柚子を使い独自のゆべしを考案、同所の銘菓となった。現在でも高梁市の銘菓として知られ、代表的な土産物となっている。

<Wikipediaより>

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