”スローライフ滋賀” 

【滋賀・近江の先人第38回】7世紀前半廷臣、第1回遣隋使・小野 妹子(大津市)

小野 妹子(おの の いもこ、生没年不詳)は、飛鳥時代の官人。姓は臣。冠位は大徳。近江国滋賀郡小野村(現・大津市小野)出身。
 


『日本書紀』によると大唐に派遣され、大禮(冠位十二階の位)蘇因高(そいもこ)と呼ばれた。日本の通説では『隋書』が記録する「日出処天子」の文言で知られる国書を携えた使者は「小野妹子」とされる。

近江国滋賀郡小野村(現・大津市小野)の豪族で、天足彦国押人命を氏祖とする小野氏の出身。
系譜は明らかでないが、春日仲君(または仲若子)の子とする系図がある。
一般に流布されている小野氏の系図では、妹子を敏達天皇の皇子である春日皇子の子とするが、『日本書紀』雄略紀において「春日小野臣大樹」との人物が登場し、妹子はこの大樹の後裔と考えられることから、敏達天皇裔とするのは仮冒である。
春日仲君の娘老女子が敏達天皇の妃となり春日皇子を産んだことから、小野氏を春日皇子の系統に繋いだものと想定されるが、定かではない。

ヒストリー
『日本書紀』(巻第22[6])によれば、「十五年…秋七月 戊申朔庚戌 大禮小野臣妹子遣於大唐 以鞍作福利為通事」とあり、
推古天皇15年(607年)、鞍作福利らと大唐(当時の中国は隋の時代)に渡る。
推古天皇16年(608年)に裴世清を伴って帰国。但し、煬帝の返書は帰路に百済において紛失(紛失に関しては古来より議論がある)、一時は流刑に処されるが、恩赦されて大徳に昇進。
翌年、推古天皇17年(609年)には返書と裴世清の帰国のため、高向玄理、南淵請安、旻らと再び派遣された。

『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」には、大業三年(607年)、隋の皇帝煬帝が激怒したことで有名な 「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」との文言がある。『隋書』には国書を持参した者の名前の記載はなく、ただ使者とあるのみである。
小野妹子は「華道の祖」とされることがある。

よくある誤解
「小野妹子は女性である」という誤解があるが、男性である。
古代の日本の人名の最後に「〜子(あるいは古)」と付ける表現は男女問わずに用いられ、男性名についても珍しいものではなかったが、奈良時代以降に日本では「〜子」は女性名の最後に付ける文字となった。
これに加え、名前に「妹」の字が付いていることもあって一見すると小野妹子を女性の名前のように感じてしまうが、本人は先述の通り男性である。
但し、なぜ男性名に「妹」の字を遣ったのかは、現在でも詳細は判明していない。尚、「妹」とは、かつては「いも」と読み、男性からみた同腹の女性の他、恋人や妻などの親しい女性全般を指す言葉であった。

小野妹子墓は、
大阪府南河内郡太子町の科長神社南側にある小高い丘の上にある。大阪みどりの百選に選定されている。

一方、小野妹子公園(滋賀県大津市小野)傍の、唐臼山古墳(からうすやまこふん)を小野妹子の墓とする説があり、墳丘上に小野妹子神社が建立されている。
併せて、同古墳の南側にある古墳が妹子の父の墓である可能性が指摘されている。尚、後者は大津市教育委員会による事前調査が行われたのち破却され現存しない。

<Wikipedia引用>
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「滋賀・近江の先人」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事