All Things Must Pass

森羅万象 ~ 歩く印象派

ぎそうかいさん

2006年01月25日 23時09分59秒 | 歩く印象派
あかんべ山も間近に迫った。
あの“彼”は今頃どうしているだろう? 

友人R氏のふんしょくけっさん
真似てみた。(★★くらいかな?)


ぎたーやバンジョーはもちろん
それ以外の楽器だって
うまいのは誰もが知っているが、
かれの得意技はどちらかといえば
いにそわない者がいたりすると
さいあくな場合、グループのかいさ
んも辞さない強引な手法だろう。

沖縄 オキナワ おきなわ OKINAWA (その7)「あんつく」で夕食。

2006年01月24日 21時41分34秒 | 沖縄の旅
 大急ぎで那覇へ戻り、チェックインを済ませた。
F本氏はすでにホテルで一眠りしていた。小一時間
ほどだろうかベッドの上でうとうとしてしまった。

 夕飯は」F本氏にお任せである。
歩いて国際通りへ向かう。ホテルは県庁のすぐそば
にあり、繁華街までは10分もかからずに到着。

「何でこんなものが、ここに?」
だれか、ご存知の方はご教示あれ。(「あんつく」の近くで)

あー、吸い寄せられて行く。引力にはかなわない。
勝手に足がよろよろと店の方に向かってしまうF本氏。

落ち着きのある店内だ。

まずはビールで乾杯そのあとは「残波」の白。

いよいよ怒濤の沖縄料理だ!
まずは「すーちかー(三枚肉の塩漬け)

ご存知「とうふよー」

「とーふとからすぐあ」私的にはお気に入りNo.1

「らふてー」

「でんがく」素朴な味わい。
単品でデザートにもなりそう。

「いかのにらいため」

「ごーやちゃんぷるー」
F本氏は「オレの作ってるのと同じ味だ!」
と感激していた。

「みみがー」

締めは「ふーちばーのぼろぼろじゅーしー」
ふーちばというのはヨモギのこと。
ゴーヤ同様苦みを上手く料理に生かしている。
初体験だが旨かった。

メニューも披露してしまおう!

蜜月だったNE。

2006年01月24日 19時58分02秒 | 歩く印象派
12月1日、都内で行われた2005年流行語大賞授賞式で
年間大賞に輝いたライブドアの堀江貴文社長(左)と
自民党の武部勤幹事長。
堀江社長を「弟だ。息子だ。」と持上げた人だ。
ここでも仲のよいとこを見せつけているね。

武部氏には「似顔絵」を描いてもらい、
「年賀状」や雑誌の表紙を飾った。
 武部氏にとっても堀江氏と仲がいいとこを世間に
見せつけるのは、さぞ心地よかったであろうことが
看て取れる。

昨夏の広島では「刺客」になった。顔も「四角」い。

自民党と手を結んでメデタシ、メデタシ‥‥の訳だったが。

沖縄 オキナワ おきなわ OKINAWA (その6)平和祈念資料館(後編)蛍の光

2006年01月23日 23時53分09秒 | 沖縄の旅
(1)と(2)だが
 韓国・朝鮮に対して行ったことが沖縄で先取りされてい
たことに驚いた。それは、沖縄的なものの一切の否定で
「くしゃみまで日本人を真似ろ」 と言われたという。
(3)の「蛍の光」のことも知らなかった。

(1)方言追放
(2)改姓改名運動 (朝鮮の「創氏創名」に相当)
(3)「蛍の光」の3番と4番の歌詞の存在

 また、沖縄にはなかった神社が明治政府の皇民化政策に
よって建てられた話など、まるで準植民地のような扱い受
けて来た歴史も始めて知った。

(1) 方言追放 方言禁止=方言札
「くしゃみまで日本人を真似ろ」
 日本政府によって小学校が各地に作られるようになると、
「標準語励行」が半ば強引に推し進められた。具体的には
方言を使った子には罰として「方言札」を首にかけられた。
そして、それは次に方言を使う 子どもが現れるまで外せな
いのだ。紅衛兵の三角帽みたいだ。


(2)改姓改名運動

 これは完全に「創氏改名」の沖縄版だ。
下記のURLに詳しい説明がある。
(http://www10.ocn.ne.jp/~yuntaku/rekisito2.html#top)
以下は引用
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 明治の終わりごろから,海外や日本に働きに行った人たち
の間で「馬鹿にされるから」という理由で名前を(例えば
金城・・カナグシクをキンジョウ、宮城・・ミヤグスクを
ミヤギにと読み方を替えたり、名前のウシを久子・マカテ
を安子と 替えたり」し始め、それが沖縄での改姓改名運動
につながって行った。
 「将来のために特殊な姓は読み替えよう、名前も日本的
な名前にして行こう」と教育者や県の指導で行われていった。
 1937年(昭和12)に「読み替えられるべき姓」が県
によって発表され、多くの人が日本風に名前を変えていった
そうだ。
それは背景に沖縄に対する厳しい差別があったのだ。
 家が貧しく日本の紡績工場に出稼ぎに行った私の母もその
1人で、日本名とウチナーの名前がある。
沖縄の文化や言葉や名前まで自ら否定し「日本人」のように
しなければならない哀しい歴史である。
             (「ユンタクおばさん」より)
----------------------------------------------
(3)「蛍の光」と沖縄
「蛍の光」は2番までしか歌われていないが、今回4番まで
あることを知った。歌詞は稲垣千頴による。
 以下の歌詞は、小学唱歌集初編(明治14年11月24日発刊)
に掲載された時のもの。
1.
ほたるのひかり、まどのゆき、
書(ふみ)よむつき日、かさねつゝ、
いつしか年も、すぎのとを、
あけてぞけさは、わかれゆく。
2.
とまるもゆくも、かぎりとて、
かたみにおもふ、ちよろづの、
こころのはしを、ひとことに、
さきくとばかり、うたふなり。
3.
つくしのきわみ、みちのおく、
うみやまとほく、へだつとも、
そのまごころは、へだてなく、
ひとつにつくせ、くにのため。
4.
千島のおくも、おきなはも、
やしまのうちの、まもりなり。
いたらんくにに、いさをしく、
つとめよわがせ、つゝがなく。
[編集]
文部省による詩の改変
領土拡張等により文部省が詩を以下のとおり改変している。
千島のおくも、おきなわも、やしまのうちの、まもりなり。
千島の果ても 沖縄も 八島のそとの 守りなり
千島の果ても 沖縄も 八島のうちの 守りなり
千島の果ても 台湾も 八島のうちの 守りなり
台湾の果ても 樺太も 八島のうちの 守りなり(大正期)

はじめは千島と沖縄だったのが
最終的には台湾と樺太に変わっている。

こういうことは音楽の授業など現在の学校教育では紹介さ
れない。



突然の訃報・・・取引先の部長の葬儀に参列。

2006年01月22日 23時58分52秒 | 仕事
 仕事柄、取引関係の葬儀に参列することがある。
そのほとんどが取引相手の実父母や義父母といった
親族関係であり、亡くなった方と直接の面識がある
ことはあまりない。

 「訃報」の知らせが回覧されると、通夜、告別式の
場所や日時の確認を行い、花輪(生花)や弔電の手配
を指示し、あとは弔問に行く者を決めるだけ。淡々と
しているがこれも大事な仕事である。

 だが、当の本人が急逝されたとなると話は別だ。
しかも、単身赴任中のオフィスで仕事中に倒れ、救急
車で病院に運ばれ、そのまま逝ってしまったというか
ら、かなりショッキングだ。死因は大動脈解離という
聞き慣れない病名だった。腹部を押さえながら「痛い」
と言っていたそうだ。
(参考:http://www.geocities.jp/akatsuki52gou/kairi/shikumi.htm)

 第一報を聞いた時は驚いた。何の兆しもなく、不意打
ちに近かった。あのI部長が・・・。

「仏のような」(本当に仏になってしまわれたが)と
よく言われるが、I部長にぴたりと当てはまる表現だ。

 親族を代表して挨拶された長兄の方のお話が印象的
だった。
「S(I部長)は、昭和20年に島根県で4人兄弟の末
っ子として生まれた。翌21年、東京へ引き揚げて
来た。(私より)六つ下のSは小さい時からバカが
つくほどの正直者で、こんな要領が悪くて果たして世
の中へ出てうまくやっていけるだろうか?と心配した
ものだ。」

 あのF本氏の元上司でもある。
昔、F本氏のアパートで3人で飲んだことを思い出した。
(まだ、課長さんの時だった。)
あれこれと心配りを忘れず、部下を大切にし、営業マン
としてもその人柄から相手先からは全幅の信頼を受けて
いた。多くの人から慕われ、「いい人ほど先に逝く」典型
のような方であった。
(「梵天丸もかくありたい。」と思う。)

 葬儀は東京の自宅近くの集会所で執り行なわれた。
昨日の雪が歩道に凍り付いていた。2時間近くの告別式
を終え出棺を見送る際、周囲からすすり泣きが漏れた。

享年60歳であった。
心よりご冥福を祈りたい。
                  
                     合掌

グルメギャラリーその13 問答無用の「ゼロ鍋」大会 名車平で鴨鍋

2006年01月21日 23時57分52秒 | グルメ
 いやはや、発作的な鍋であった。
久しぶりの「名車平」で問答無用の「ゼロ鍋」大会となった。
集まったのはZEROCLEARのキング氏、A氏、私。
そして、あの「黒粉フリカケ賞」に輝いたRESANDO氏も加わり
大いに盛り上がった。

さっそくメインの「ゼロ鍋」をご紹介しよう。
「ゼロ鍋」の正体だが
実は「名車平」冬の名物カモ鍋のことだ。

まずは設えてある鍋(下の写真)

ふたを開ければ カモが「いらっしゃい。」

初めちょろちょろ中パッパ、ではなくいきなり強火で攻める。

熱々の鍋の出来上がり。
今夜のように寒い晩に鍋を囲む幸せを実感する瞬間だ。

最後は溶いた卵とご飯を投げ入れ、極上の雑炊に仕上がる。

順番は前後するが、オ・寒氏推奨の「鯨立田揚げ」
これはRESANDO氏も絶賛。

「名車平盛り」これも評判がよかった。

焼き鳥の串盛り合わせ。

キング氏の頼んだ「軟骨から揚げ」は「少数激戦」となった。

とにもかくにも粛々と「ゼロ鍋」いや「カモ鍋を囲む集い」は
無事に終了した。(協力:オ・寒氏)

ささくれ画伯と行く靖国遊就館

2006年01月20日 23時58分30秒 | 平和憲法9条
 来月の土曜休みにささくれ画伯と靖国神社の
遊就館を訪ねることになった。

 宿題の答えをもう一度考えるためだ。

 この2ヶ月の間に韓国の国立墓地、戦争記念館、
西大門刑務所そして沖縄の平和祈念資料館を訪ねた。
そして、安倍官房長官の「他の国だって戦没者を国
として弔っているではないか。靖国に行ってどこが
おかしい。」という主張が果たしてまっとうなもの
なのかを、現地で照らし合わせて来た。

 「遊就館逆ガイド」には、ぜひその答えを載せたい
と思っている。その意味で今回の靖国再訪は重要な意
味を持つ。
 遊就館逆ガイド作成にあたって最大の難問は展示物
の写真をそのまま使えない点にある。
 そこで考え付いたのが、模型とイラストのコラボに
よるビジュアル化である。画伯には、歴史的な展示室
の雰囲気が伝わるようなイラストをお願いしたい。
 ささくれ画伯のユニークな視点に遊就館がどう写る
かも楽しみの一つである。
 私は、ゼロ戦のマーキングやSLの詳細をつかみ展
示室をまるごと模型化(ジオラマみたく)してしまお
うかと思っている。

今回は正面の大きな鳥居からアプローチをはかろう
と思っている。最初に画伯の眼にとまるものは何だろう?

沖縄 オキナワ おきなわ OKINAWA (その5)平和祈念資料館(中編)

2006年01月19日 23時42分28秒 | 沖縄の旅
 トップの写真だが、米軍の上陸とその砲火、戦火
から逃れガマという洞窟の中に避難した住民たちと
それを監視、威嚇する日本兵が描かれている。
 この写真を見て「どうして日本の兵隊が住民を?
そんなことが本当に?」と思う方がほとんどだろう。
私も今回はじめて詳細を知った。

「沖縄戦」は私たち本土に住むものにとっては歴史の
外にある。それはスパイ取り締まりの名の下に日本軍
によって住民達の処刑が行われたからである。

(以下は高文研「観光コースでない沖縄」より)
 1945(昭和20年)6月27日から8月20日にかけて
久米島の海軍見張署分遣隊(鹿山正兵曹長、約30名)
がおこなった連続島民殺害事件がそれである。殺され
たのは郵便局員、区長、警防団長その家族など20名
(子供も5人含まれる。)にのぼる。

その背景には「沖縄県民は潜在的なスパイである。』
とか「防諜ニ厳ニ注意スベシ」という住民不信があ
った。

姑息にも全軍に「最後まで敢闘し悠久の大義に生く
べし」と命令したあと、あっさり自決してしまった第32
軍の牛島という司令官が神経をとがらせていたのが、
ほかでもない沖縄県民の「スパイ行為」である。

 その論理はこうだ。(「観光コースでない沖縄」より)
「沖縄では国家総動員法を発動して、足腰の立つ住民は
ほとんどすべて軍の作戦に協力させられた。したがって、
住民は軍の機密を知りすぎている。そこへ敵が上陸して
来て住民を捕らえた場合、軍の機密はつつ抜けになって
しまう。そこで軍の論理からすれば『敵に捕まった者は
スパイと看做して処刑する』ということになるのである。」

さらに
「この命令は暗黙のうちに『スパイの汚名を着たくなけれ
ば自決せよ』と命じたことにもなる。これが美談風に伝え
られている『軍民一体の戦闘協力』の実態」であり、来る
べく「本土決戦』の「一億総玉砕」の究極の姿でもある。

 この国を戦争へと導いたA級戦犯もひどいが、沖縄の住
民=日本の国民を殺した兵士(鹿山正)も靖国流にいえば
本土(国体)を守った立派な「英霊」なのかもしれない。

 本土決戦引き延ばしのための「持久戦法」が住民を巻き
込み沖縄戦を3ヶ月もの長期にわたるものとし、20万人も
の命が失われた。

 太陽の光を浴びて輝く海と青い空、この美しい海岸で60
年前に地獄のような惨劇が繰り広げられたのが嘘のようだ。



沖縄 オキナワ おきなわ OKINAWA (その4)平和祈念資料館(前編)

2006年01月18日 20時22分19秒 | 沖縄の旅
F本氏はレンタサイクルで首里城へ向かった。
私は、摩文仁の平和祈念資料館を目指すことにした。
まずはバスターミナルで糸満方面の89番のバスを待つ。

赤丸の部分が乗ったバスの発車時刻。
これだとバスはかなり頻繁に出ているように思える。

バスの乗客は私を含めて2人という寂しさ。
終点では降りたのは私だけだった。
糸満のバスターミナルの接続は悪くて、平和祈念公園
方面のバスは出たばかりであった。次のバスまであ
と40分もある。仕方ないのでここからタクシーを利用。

15分ほどで資料館前に到着。
車中、タクシーの運転手さんは20年ほど本土の川崎に
いたと話していた。その当時は、沖縄戦について何も
知らず、本土の人に何を聞かれても答えられなかった
という。沖縄に戻ってからこの資料館には3度通った
そうだ。そして、自分の生まれ育った故郷でこんな悲
惨なことがあったことを初めて知り、今はお客さんに
もぜひここを訪ねるようすすめていると語っていた。

タクシーを降り、そのまま公園の広場に向かった。
途中、真っ赤にさび付いた旧日本海軍の酸素魚雷が
目に入った。巨大な魚雷である。直径60センチある
という。

しばらくするとエピタフというかモノリス状の墓碑銘
が目に入った。同心円状に並ぶ石碑には沖縄戦で亡く
なった人たちの名前が刻まれている。沖縄は第2次世
界大戦において、国内唯一の住民を巻き込んだ地上戦
の場ということで、民間人の死者の数が兵士を上回っ
ている。

高台に上り眺めてみるとその大きさがわかる。
これで、まだ半分しか見えていない。

 沖縄戦の戦没者数は20万人を越えるという。
しかし、この戦没者は単純に「戦没」とは言い切れない。
 それはこの中に沖縄を守るべき日本軍の兵士によって
虐殺された民間人も含まれているからだ。(中編へ続く)


沖縄 オキナワ おきなわ OKINAWA (その3)牧志市場

2006年01月17日 20時53分55秒 | 沖縄の旅
 10分ほどで県庁前駅に到着。長い階段を下り、初の第一歩を踏んだ。
第一印象は「臭い」だ。排ガス臭い。昔の都内東名高架の下を走る246を
思い出した。そういえばフィリピンマニラ市もすごかったがあんなにひど
くはない。そのうち慣れそうだ。

F本氏は「沖縄のタクシーは(本土より)型が旧い。」と言っていた。
しかし、初乗り440円はかなり安い!

国際通りを縦断し牧志市場に到着。10分ほど歩いただけだがかなり暑い。
23度以上はありそうだ。ここで半袖に着替えることにした。

ブタの王国(?)らしく豚肉製品は充実している。

魚だって負けてはいない。ブダイなどカラフルな熱帯の魚が並ぶ。

市場の2Fは食堂になっていて、東南アジアのフードセンターに
よく似ている。下の魚屋で刺身にしてもらい上で食べることも
できる。

沖縄に来たら「オリオンビール」だ。
まずは上陸を記念して乾杯!

私は魚系の定食、F本氏は肉系の定食をとった。


うーむ。満腹だ。腹ごしらえも済み、それぞれの旅がいよいよ始まる。