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<訃報>日本共産党元名誉議長の宮本顕治氏死去、98歳

2007年07月18日 16時47分06秒 | 時事スクラップブック(論評は短め)
7月18日15時46分配信 毎日新聞

 日本共産党元名誉議長の宮本顕治(みやもと・けんじ)氏が18日午後2時33分、老衰のため、東京都内の病院で死去した。98歳。自宅は東京都多摩市連光寺1の31の28。
 1958年に書記長に就任し党の実権を掌握。(1)国会で多数派を形成し政権を目指す平和革命(2)外国の共産党の影響を受けない自主独立路線――に代表される「宮本路線」(綱領路線)を推し進め、現在の共産党の基礎を築いた。1997年を境に党の活動の一線から退いた。その後、党指導部は綱領見直しなど柔軟路線を進める一方で、宮本氏が敷いた基本路線を維持している。戦前、戦後を通して日本の左翼運動の一翼を担ったカリスマだった。
 宮本氏は08年、山口県光井村(現在の光市)の肥料米穀商の長男として生まれ、旧制松山高校から東大経済学部に進んだ。東大在学中の29年に芥川龍之介を批判した「敗北の文学」で雑誌「改造」の懸賞文芸評論1等になり、以降プロレタリア文学運動の理論的担い手になった。
 共産党入党は31年。翌年、党員文学者の故宮本(旧姓中条)百合子さんと結婚、間もなく地下に潜った。33年に中央委員となったが、同年暮れに「スパイ査問事件」などで逮捕され、終戦直後の45年10月まで、網走刑務所などで12年近い獄中生活を送った。この間、非転向を貫いた。
 戦後45年12月の第4回党大会で、再び中央委員に。徳田球一書記長(当時)らと対立し一時反主流派に身を置いたが、党再建を図る58年の第7回党大会で書記長に選出され、70年に幹部会委員長、82年に議長に就任。この間不破氏らを要職につけ、最高実力者の地位を確立した。77年から、参院議員を2期。94年6月に一過性脳虚血発作で入院してから体力の衰えが目立ち、97年9月の第21回党大会で名誉議長となり、一線を退いた。同大会直後の10月の常任幹部会に出席した後、公の場に姿を見せておらず、2000年11月の第22回党大会ではほかの名誉職と横並びの「名誉役員」となった。
 対外的には旧ソ連、中国の両共産党と距離を置く「自主独立」路線を確立。特に中国共産党とは66年、ベトナム侵略に反対する国際的な統一行動にソ連を入れるべきでないと主張する毛沢東主席(当時)に対し、訪中した宮本氏が強く反発して会談が決裂。その後、関係断絶に至ったが、不破氏が98年7月に訪中、江沢民総書記と首脳会談を行い、32年ぶりに関係を正常化した。
 国内的には、議会重視の平和革命路線をとり、民主主義に対立する「プロレタリアート独裁」の用語を党綱領から削除、「マルクス・レーニン主義」も「科学的社会主義」に置き換えた。ソ連・東欧の共産主義政権崩壊の際は「ソ連型社会主義の敗北で、日本共産党は違う」と強調、党員の動揺を抑えた。

>以下は朝日COMより
共産党の宮本顕治・前名誉議長が死去

2007年07月18日20時44分

 日本共産党の中央委員会議長、同幹部会委員長などを歴任し、40年近く同党の最高指導者だった宮本顕治(みやもと・けんじ)氏が18日午後2時33分、老衰のため、東京都内の病院で死去した。98歳だった。同党が非合法とされていた戦前からの幹部で、50年代に「宮本体制」を確立。対外的に旧ソ連や中国などの社会主義国と一線を画した「自主独立」、国内での「議会主義」の路線を進め、、「少数が多数に従う」という「民主集中制」を組織原則とする共産党を築いた。同党の支柱として90年代まで君臨した。

写真共産党第4回中央委員会総会であいさつする宮本顕治議長=1995年10月25日

 宮本家で密葬を行うとし、共産党として参院選後に葬儀を執り行う。自宅は東京都多摩市連光寺1の31の28。

 宮本氏は97年9月の第21回党大会を機に引退し、実権を持たない名誉議長になり、00年11月の第22回党大会で名誉役員の一人になっていた。

 宮本氏が一線を退いた後の党運営は、委員長を引き継いだ不破哲三・前議長が中心となって担ってきた。不破氏も06年に議長を勇退し、党の実務は志位和夫委員長と市田忠義書記局長に引き継がれている。

 不破氏は90年代に志位氏とともに「ソフト路線」を進めた。現在の党運営は不破氏が敷いてきた路線に沿っている。宮本氏の死去で党の政策や路線に変更は生じないものの、党にとって宮本氏の死去は大きな節目となりそうだ。

 08(明治41)年、現在の山口県光市生まれ。東大在学中の29年、芥川龍之介を論じた「『敗北』の文学」が雑誌「改造」懸賞論文の1等になって文筆活動を開始。大学卒業後の31年に共産党に入党。翌32年、作家中条百合子と結婚し、33年5月には党中央委員になったが、同年12月に逮捕され、治安維持法やいわゆる「スパイ査問事件」などで有罪となり、無期懲役の判決を受けた。その後、45年10月に網走刑務所から釈放されるまで非転向を貫いた。

 戦後は、55年に指導部に復帰。58年には書記長に就任し、事実上の最高指導者となった。70年には新設された幹部会委員長となり、不破氏を書記局長に抜擢(ばってき)。82年には委員長を不破氏に譲り、議長になった。77年には参院全国区で初当選。83年には比例代表区で再選され、89年まで議席を維持した。

 宮本氏の指導下、共産党は64年には旧ソ連の「修正主義」と日本の党に対する干渉を批判して断絶。66年には文化大革命直前の中国共産党と決裂するなど、外国の共産党に対する「自主独立」路線を取った。87年の大韓航空機爆破事件について「北(朝鮮民主主義人民共和国)のやったことだ」と発言。89年からの旧ソ連・東欧諸国の体制崩壊に対しては「科学的社会主義とは無縁の出来事で、こうした政権の崩壊は当然のことだ」との考えを表明した。


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