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森羅万象 ~ 歩く印象派

藤竹 暁 (著)『事件の社会学―ニュースはつくられる 』(中公新書) (1975年) その7

2008年01月19日 12時08分29秒 | 読んだ本・おすすめ本・映画・TV評
(その6より続き)
擬似環境

たとえば、今日の新聞だと信じてページを開き、むさぼるようにあるニュースを読んでいたとする。そのうちに、その新聞が一ヶ月前のものだとかに気付く。するとたちまち、その新聞の魅力は消えてしまうという経験を、読者は持っているであろう。そして、なんだ、今日の新聞ではなかったのかと投げ出してしまうであろう。その新聞が報道している事実それ自身が持っている意味は、まったく変わっていない。読者は新聞の日付によって、今日の新聞は読むべきものであり、大切なものと判断し、機能の新聞を読むことは、時間の浪費と決めてしまっているだけである。週刊誌のことを思い出してみると、もっとよくわかる。何故に、今週の週刊誌でないと、小脇にかかえて外出する気にならないのか。今週の週刊誌は、先週の週刊誌にくらべて、どれだけ新しい環境像をそこに盛り込んでいるのであろう。古い新聞や週刊誌を最新のものであるとして読んでいたことに気付いた時のあの味気なさはどこからやってくるのであろうか。

 そのとき読者は、自分一人だけが過去の環境に接しており、社会の他の人びととともに、共通世界に接していると錯覚していたことに気付いたからである。ここには、日付によって、人間にとって「擬似環境」のもっている重みが変わることが示されている。

 擬似環境が環境化する事態が進行すると現場(オリジナル)とニュース(コピー)の人間との関係は現場が復讐力をもって迫ってくる状況を次第に稀薄にしてしまう。現場の力は相対的に弱められてしまい、それだけ「擬似環境」が人間に対して共有世界としての力を発揮する度合いは高まってくる。

 現場の力が弱まってくると、現場のもっている「重み」を借りることのかわりにマスコミの消費者である民衆の期待と解釈に依存する傾向が強まってくる。(もし)マスコミがなければ、事件が人びとにとって「共有世界」となるためには、たくさんの人びとの口から口への「会話」によって受け継がなければならない。また、事件はこうした息の長い会話の連続に耐えるだけの、魅力ないしは人間の生存に対する重みをもっていなければならない。もちろん、今日、マスコミで報道される事件も、多かれ少なかれこうした素質を要求されてはいるが、それにもまして、マスコミの力が強く働いている。マスコミのもつ権威と威力が、事件を共有世界とするからである。だが、そのマスコミとても万能ではない。もしも人びとがその事件に興味を示さないことが事前にわかっていたら、マスコミはそれを事件としては扱わない
                              (その8へ続く)


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