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森羅万象 ~ 歩く印象派

一般市民の集団が闇将軍に打撃を しかし有罪は?

2010年10月10日 02時08分47秒 | 歩く印象派
010年10月5日(火)15:30gooニュース

英語メディアが伝える「JAPAN」をご紹介するこのコラム、今週は小沢一郎・元民主党代表に対する「起訴議決」についてです。複数の英語メディアは「政治的打撃だが、有罪はないだろう」と書いています。だからでは決してありませんが、この議決になんとなく釈然としない思いを、私は抱いています。検察の判断も、検察審査会の議決も、議論プロセスが外からは見えず、結論だけがポーンと発表されるからです。そもそもは検察が「市民の代表」であるはずなのに、そう機能しないから、信頼が地に堕ちてしまっているから、検察審査会をよりどころにしたい気持ちは分かるのですが。プロ集団の検察が信頼できないから、市民集団の検察審査会に頼るしかない状態におかれた私たちは、実はすごく不幸なのだと思えてしまいます。(gooニュース 加藤祐子)

○有罪はないだろうと

小沢一郎・元民主党代表の資金管理団体「陸山会」の土地取引事件について、「市民の代表」たる東京第5検察審査会が10月4日、小沢氏を政治資金規正法違反(虚偽記載)の罪で強制的に起訴すべきだとする「起訴議決」を公表しました。事件の内容は日本のメディアに譲るとして、主要な英語メディアも各紙が「小沢氏を起訴へ」と詳しく伝えています。

英『フィナンシャル・タイムズ』のミュア・ディッキー東京支局長はまず、「政治資金事件で小沢起訴へ(Ozawa to be charged over funding dispute)」という見出し記事を掲載しました(英語メディアが記事で人の敬称や肩書きを略して呼び捨てにするのはいつものことで、そのこと自体に特に意味はありません)。

記事は「日本与党の重鎮(ruling party heavyweight)、小沢一郎の政治的未来が問われることとなった」とした上で、「過去四半世紀の日本政治でもっとも影響力をもつ政治家のひとり」の小沢氏が法廷に立つことになれば、政権与党として1年間苦しんだ挙げ句になんとか勢いを取り戻そうと苦労している民主党にとって、新たな不安定化要因となると論評しています。

小沢氏の起訴によって、党代表としての菅直人氏の力は強まるかも知れないが、「民主党内の緊張関係を悪化させるだろう」し、ただでさえ尖閣諸島をめぐる対中外交で支持率を下げている菅内閣の人気をさらに下げる要因にもなり得ると。

ディッキー記者はこの記事とは別に、「民主党の将軍、権力への挑戦に直面(DPJ shogun faces threat to power)」という、より修辞的というか煽り気味の見出しで解説を書いています。いわく、「法廷でのやりとりがいかに苦しいものになり得るか、小沢一郎は知っている。日本与党の重鎮は、かつて何年もかかった故・田中角栄元首相の公判全191回にすべて出席したことで有名だからだ。しかし今回、被告席に立つことになりそうなのは、小沢氏自身だ」と。

記事は、田中元首相がロッキード事件で受託収賄罪で有罪となった後でも議員の座と自民党内の派閥政治に圧倒的な力を持ち続けたことに触れながら、「小沢氏にかけられている虚偽記載の容疑はそれに比べるとはるかに軽いものだが、小沢氏が政治的影響力を維持できるかどうかは、党内の小沢支持者たちが次第だ。かつての小沢氏が自分の師匠を支え続けたように、彼らが小沢氏を支えてくれるかどうかだ」と書き、<そうはいかないんじゃないか>というニュアンスを匂わせています。

その一方で、「無実を主張し続ける小沢氏は、復活するかもしれない。日本の法廷が被告人を無罪にすることはめったにないが、一般市民から構成される日本の新しい訴追組織(訳注・検察審査会のこと)による『強制起訴』で、政治家が起訴されるのは今回が初めてのことだ。ということはつまり「小沢氏に対する事件は、裁判所が選任する資金の乏しい弁護士たちが担当することになる。有罪判決が見込めるほどの証拠は足りないと2度判断した、エリート検事たちではなく」と書くディッキー記者は、「多くの専門家は、有罪判決はありえないと考えている」と指摘しています。

豪『オーストラリアン』ではリック・ワラス東京特派員が、「日本政治の闇将軍、小沢一郎が詐欺裁判の法廷へ」という見出しで、「一般市民からなる委員会」と検察審査会を解説。「闇将軍(shadow shogun)として知られる小沢氏は、保釈されるだろう。しかし議会や民主党から、辞任要求が出ることが予想される」と書いた上で、「辞任すべきだという議論が、党内外から出るだろう」が「有罪が立証されるまでは無罪(innocent until proven guilty)なのだから辞任は必要ないと擁護する声もでるだろう。おそらく(小沢氏は)無罪となるはずだと思う」という中野晃一・上智大学准教授のコメントを紹介しています。

○記事の行間ににじむ言葉にならないニュアンス

米『ニューヨーク・タイムズ』のマーティン・ファクラー東京特派員は、「日本の審査会、疑惑にまみれた政治首領の起訴を後押し」という見出し記事で、小沢氏への打撃や民主党分裂の危機などを解説。「民主党の陰の実力者」小沢氏が、被告人として「法廷に立ち」恥ずかしい思いをする可能性が出てきたと。

尖閣諸島をめぐる対中外交姿勢で菅首相が批判される中、「小沢氏が再度、菅氏に挑戦するのではないか。時機をうかがっているのではないかと取りざたされていた」だけに、この展開は新たな「政治的打撃(political blow)」だと。

ファクラー記者は、日本では周知の事実関係を英語読者に淡々と説明しているのですが、上述のように「小沢再来」の可能性を取り上げたり、また代表選では小沢氏が「民主党の政策目標(アジェンダ)を実現するために必要な指導力をもつのは、自分だけだと、熱弁していた」と書いたり、さらには「民主党の歴史的な勝利を実現させたのは小沢氏の手腕のおかげだと、広く言われている」とも指摘。<これほどの人を…>という言葉にならないニュアンスを行間に私は感じました。

というのもファクラー記者は以前こちらでもご紹介したように、民主党代表選の直前に「そういう小沢氏こそ日本が必要としている実力者なのではないだろうかという意見もある」と持って回った調子で書いていたので。それだけに、小沢一郎という政治家の浮沈に対して一定の思いが込められているように、こちらは勝手に受け止めました。

米『ワシントン・ポスト』ではチコ・ハーラン特派員が、「政治資金をめぐる疑いで日本の代議士起訴」という(若干、勇み足な)見出しで、小沢氏を「polarizing」と表現。これは、直訳すれば「pole(=極)に分けるもの」という意味で、世論を分断する、議論を分断する、党を分断する、あるいは毀誉褒貶の激しい――などの意味になります。好きか嫌いかがはっきりしている人、という意味にも。

○ なんと不幸な法治のかたち

村木厚子内閣府政策統括官(元厚労省局長)に対する冤罪事件や資料改ざん事件と、小沢元代表への「強制起訴」の議決を結びついて書いている英語メディアは、今のところ見つけていません(そもそも、大阪地検特捜による一連の事件について、英語メディアはほとんど書いていません)。

けれども日本人としてはどうしても、立て続けにおきたこの二つを結びつけて考えてしまう。そもそも検察が信頼できない→その検察が出した不起訴処分の判断も信頼できない→市民感覚の判断なら信頼できる……のかどうか……。そもそも検察が「起訴できるほどの証拠がない」と判断した事件を、税金を使って、当事者の時間と資金を使って、法廷にかける意義はどの程度あるのか。殺人などの凶悪犯罪ならまだしも。あるいは国の行方に影響を与えかねない、「巨悪」な犯罪ならまだしも。しかしその一方で、そもそも「嫌疑不十分」と判断した検察そのものが信頼できないのなら……。

この国の司法や法治は今、とても不幸なかたちになっています。検察が信頼できないだなんて。検察や検察官のことを英語では「public prosecutor」と言います。「公に訴追する人」、もしくは「public=市民」の代わりに公訴を提起する人。つまりそもそもは「検察=市民の代表」なはずなのです。それが機能しないから、信頼できないから、市民の代表という素人集団に検察判断が適切か判断してもらわなくてはならない司法制度というのは、実はとても不幸な状況にあると思うのです。

この不幸な状況を何とか打破する手はずはひとつには、取り調べの可視化と弁護士の立ち会いが大事なのではないでしょうか。

大阪地検特捜の証拠改ざん事件で、日本で警察・検察当局がこれまで取り調べの完全可視化に抵抗してきたのは、なるほどこういうことをしているからか――と思えてしまった(なにせ、犯人隠避容疑で逮捕された大阪地検特捜の幹部たちが「検察が描いたストーリーに沿って逮捕された」と主張しているのだとか。検察がそもそもどういう体質の組織なのか、当事者が語るに落ちるとはこのことです)。これは不幸なことであると同時に、制度改正のチャンスなのかもしれません。

欧米をやたらお手本にしろとは言いませんが、イギリスでは取り調べに弁護士が立ち会う権利、完全録画・録音された取り調べ以外は証拠採用されない権利が保障されています(前にも書きましたが、これはひどい冤罪事件の反省から導入されたものです)。アメリカではよく警察ドラマに出てくるように、逮捕時にミランダ警告(弁護士を呼ぶ権利など)が必ず読み上げられますし、一部州では取り調べの電子記録化が導入されています。

そしてもうひとつ、検察が起訴なら起訴、不起訴なら不起訴と判断するに到った議論プロセスの公開も必要だと思います。検察審査会の議論プロセスも(議決要旨だけでなく)。とくに今回、小沢元代表に対する議決要旨を読みましたが、「信用できない」「苦し紛れ」という表現は主観的とさえ読めてしまいました。たとえば裁判官による判決文で「信用できる」とか「信用できない」とか書かれているのは、そこに到る公判の審理記録が支ているわけです。公判に類する、公にされたプロセスがないのにいきなり「信用できない」と言われても、「そうですか?」と反論したくなる。なので、議論プロセスの公開が必要だと思うわけです。

どうも日本の司法には、法治は秘密裏に行うをもって良しとする本能があるように思えてなりません(死刑に関する秘密主義をもってしても)。戦前からの遺物なのかもしれませんが、民主法治国家においては、本質的に変な話だと思います。

そして最後に、今回の第五検察審査会の議決要旨の結びには「検察審査会の制度は、嫌疑不十分として検察官が起訴をちゅうちょした場合に、国民の責任において、公正な刑事裁判の法廷で黒白をつけようとする制度であると考えられる」という決意表明めいた一文があります。

これは「小沢一郎」という「闇将軍」とも「陰の実力者」とも言える人を相手にした文章なので、つい「ふむふむ、そうだよな」と読んでしまいがちです。けれども、検察が公判維持できないと考えるほど証拠不十分な被疑者が一般市民だった場合はどうでしょう。そんな場合に、これをやられたらたまらないなと、正直そう思いました。「推定無罪」「疑わしきは罰せず」が、法治国家の大原則なのですから。

「あいつが悪だってあかしはないかも知れないけど、なんだか怪しいからとりあえず訴人して、ひったててもらって、お上にお裁きして貰いましょう」では、江戸時代に逆戻りです。それで無罪となっても、裁判で職を失ったり周囲の信用を失っていたりしたら、誰が責任をとってくれるのか。

小沢一郎氏や陸山会事件について、私は何の特別な思いや意見があるわけではないのですが。冤罪被害のリスクは誰にでもあるので、怖いことだなと思うわけです。

最後にちなみに英『テレグラフ』のこの記事に載っているこの写真(日本時間10月5日正午現在)、小沢氏ではなく、海江田万里氏ですよね……(あ、11日午前零時すぎに再確認したら、まぎれもない小沢氏の写真に差し替わっていました!)。