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森羅万象 ~ 歩く印象派

足利の花火2007

2007年08月05日 20時19分37秒 | 歩く印象派
暑い一日だった。
この時期特有の夕立もなく、風も弱く花火には絶好の条件。
昨年に続き「特等席」を確保してくれたのはI村氏。
趣茶仲間たちと大の字になって迫力ある光と音のページェントを楽しんだ。




2時間はあっという間に過ぎてしまった。

原爆は本当にもう落ちないのか

2007年08月05日 09時23分59秒 | 平和憲法9条
ニュースUP:現場で考える 「ピカドン」の子どもに会う=毎日新聞広島支局・井上梢

 広島に新人記者で赴任して2年目になる。23歳の私は千葉県育ちで、原爆のことは机の上で学んだにすぎなかった。今年、平和報道を担当することになり、たまたま書店で手にした「ピカドン」(講談社)という本に引き込まれた。原爆投下当時の子どもたちが、ある小学校で書いた作文集だ。肉親を失った悲しみや原爆のない世界への願いを淡々と書き連ねた子どもたち。彼らの声を今、聞きたい。そう思った。

 ◇悲しみ、受け継ぎたい

 「ピカドン」の基になった作文集は原爆投下時に4~6歳だった子どもたちが小学5、6年生になって書いたものだ。00年、爆心地から約3キロの広島市立己斐小学校(同市西区)の倉庫から約50年ぶりに見つかり、15編にまとめられ、03年に出版された。

(写真:現在の己斐小学校)
 私は何度もページをめくる手を止めたが、中でも6年生の男児が残した記述にくぎ付けとなった。避難してきたおばさんが祖母に問われている光景だった。

 「もう1人の二つ(2歳)の子はときかれたとき、おばさんはなみだをこぼしてあれは、どこへおるのかわからないのでよんだら、ハイとこえはしたがどこにおるのかわからないので、川から水をくんでどんどんかけたが、とうとうまにあわずやけしんでしまったとおっしゃった」

 迫る火の手の前で、子どもを見殺しにして逃げなければ、もう1人の子どもを助けることができない。子どもの泣き声や炎にまみれて目を伏せる母親が目に浮かんだ。母親は目に見えぬ一生の傷を負ったはずだ。

 「やけどだらけの子どもがくろこげでしんでいる」「足がない人、目、耳、口、手がない人」「顔も手も足も皮がむけて、目だけきらきら光っていて」「ずるむけになった人たちが、うん、うん、うなって」……。当時の惨状をつづった子どもたち。彼らもまた、心の傷を負ったのだろう。

 時が経過して執筆したこともあってか、姉や親せきを奪われた子どもらが感情的にではなく、「私は、もうこんなおそろしいめにあわないように、心からいのっています」など冷静にまとめていることにも驚いた。一方で、その日の夜に食べた夕飯のおかずまで触れた作文もある。子どもたちにとって忘れられない1日の細部まで脳に焼き付いていたのだと思う。

      ◇

 己斐小は爆風で屋根瓦や窓ガラスが飛び散ったが、半壊ですんだ。しかし、そこで起きた惨状はここから始まる。同小の記録などによると、学校には1日で1000人を超える重傷者が運ばれた。しかし、医師は少なく、薬品もわずか。ひん死の重傷者は最後の力を振り絞って坂道を上がってきたという。

 当時の校長の手記にはこう記されている。「教室という教室には全部、廊下や路面にも避難者がいっぱいころげている」

 己斐小は火葬場と化した。校庭には幅2メートル、長さ20メートルの穴を7筋堀り、薪(まき)と一緒に遺体を置いた。軍の石油で3、4日後から連日焼かれ、燃え切らない死体の一部は野犬が荒らした。火葬した遺体は800体とも2300体とも言われる。その時のにおいは1カ月たっても消えなかったという。

 その校庭で、元気に遊ぶ今の子どもたち。私は不思議な思いで見つめた。

      ◇

 作文を書いた一人、西岡憲治さん(67)に会った。当時5歳だった西岡さんはあの時、学校近くの自宅の庭で母親とじゃがいもを選別していた。作文には「パッとまぶしい光が目にはいったと同時に、お母さんがぼくをだいてかげにはいられた」と書いている。

 避難者の手当てをした西岡さんの母は1カ月後に調子を崩し始めた。結核を併発し、「なんぼええ薬があっても血がないからダメだ」と言った医師の言葉が、幼い西岡さんの胸に突き刺さったという。

 翌46年4月の小学校入学式のことだ。西岡さんがきれいな服を着て、自宅の座敷で寝たきりの母の横に立つと、やせ細った母が涙をこぼして喜んでくれた。母はそれから間もなく亡くなった。

 西岡さんは、原爆のことを話す時に母の話を一番にする。「それが原爆だと思うから」。私は涙があふれた。重い証言であり、言葉だった。

 「ズッコケ三人組」の作者で知られる児童文学作家の那須正幹さん(65)=山口県防府市=も己斐小が母校だ。3歳で被爆した。被爆から半年たっても野犬が人を襲いに来たことを怖くて覚えている。中学2年の被爆者健診。要精密検査と出た。同級生が原爆症で亡くなり、死が現実のものになったという。

 検査で問題なしと分かっても、「風邪をひいた時、子どもが生まれた時、万が一を考える、それは被爆者にとって当たり前」と、60年を超えて続く恐怖を話す。

      ◇

 「原爆はもう落ちないと思っているでしょ」。全国で被爆ピアノの演奏活動をする被爆2世を取材した時、彼がふと問いかけた言葉を、私は忘れられない。「はい」と答えた私に、彼は「いずれ憲法が改正され、そのあとで戦争が起きますよ。そうなると、いつ原爆が落ちてもおかしくない」と憂えた。

 日本が巻き込まれる戦争がそうたやすく起こるとは思わないが、いや起こしてはならないが、危機意識をもって原爆のことを知るのは大事だろう。その大切さを教えてくれた。そして自分のことに置き換えて取材する大切さも。

 体験を語り継ぐ被爆者が高齢化で少なくなり、どう継承していくかが深刻な課題となっている。でも、那須さんは私にこう話してくれた。「悲しみが伝われば、直接の被爆体験じゃなくても継承は可能です」。被爆から62年。私が手にした「ピカドン」の子どもたちの作文もまた、同じことを教えてくれたのだと思う。

毎日新聞 2007年8月1日 大阪朝刊