All Things Must Pass

森羅万象 ~ 歩く印象派

大集会路線に思う

2005年09月21日 12時45分04秒 | 平和憲法9条
いったん帰宅後T市へ。
J公民館には19時20分ごろ着。
「九条の会ネットワーク」の会議に参加。
正式には「~グループ代表者・事務局会議」という名称。
(この名称問題が当初より何度も引っかかっているのが特徴)参加者は12人。
今夜の議事進行予定ができていた。以下。
?@会の「申し合わせ」事項の検討。
?A10月8日(土)「自民党新憲法法案」学習会 (講師を招く。赤石あゆ子弁護士)について
?B11月3日(木)午後の前橋での大きな集会の件。「かがやけ9条 11.3群馬の集い」

?@ 申し合わせ事項の内容で合意したのは
(1) 名称を「邑楽・館林九条の会ネットワーク」で今後も行く。OさんからG先生に「同じ文書の中でも“と”が入っていたり、なかったりしている。混乱を招く。」と指摘があった。
(2)会費制は取らず、カンパ等でまかなう。
(3)代表と事務局をおく。(すでに仮事務局員がいる。)
(4)当面の活動については、安中の項を見習わず、ひとり一人の創意工夫による活動を育てあい、交流を深める。というような文面にまとめることで合意。(次回までに文章化)

?A 10月8日の件 講師の赤石さんは富岡から見える。謝礼は?交通費もろもろで1万でどうか。それと梨を贈るのはどうか。
?B11月3日(木)の件。バスを1台手配とのこと。Uさんが知り合いに打診。(6万円~ )集会の賛同・参加券(1枚500円)を200枚ほど預かってきたようだ。
?C次回は10月11日

感じたこと

 危機感を持ったり、「風雲急を告げる」情勢だなんてことは、誰も異論を唱えたりはしない。が、それはTVやマスコミなどのメディアを通して見聞きした伝聞を基にした認識が大半なのではないだろうか。大切なのは、自らが暮らす毎日の生活、働いている職場などで身近に接する周りの人たちとの接触で感じ取る「気配」や「空気」あるいは「臭い」である。その中に潜む「戦争の芽生え」これを感じ取れるかどうかだ。

(大集会路線に思う)
 大集会に結集というスタイルはどうも古の旧日本海軍の「大艦巨砲主義」にも似た力対力の路線に思えてならない。営業(憲法9条を守る)というのは、上意下達というわけには行かないものだ。売り子(営業)ひとりひとりが信頼に足りる人物だと客が思うことで商品への信頼も生まれる。(この場合の商品とは憲法9条のこと)
 「この人が進めるのだから、間違いないだろう。」というように。
まさに“九条について人々を説得する時、語りかける人の「信用」(ことばの内実)が問われる。”(九条を守る行動を実質的なものにするために(『世界』2005年1月号)東後寿男)と考える。

 私が危惧するのは「大集会」に集めてくればそれでこと足れりとする向きが無きにしも非ず(根底に見え隠れする)という点だ。「大集会」の怖い点は「情勢が逼迫した」とか「風雲急を告げる」と感じた方々が、なんとなれば「大きい物には大きい物をぶつけようではないか。」というけっこう荒っぽい考えが根底にあるのではないか。(マスコミも大きい物が好きだ。)これに悲壮感が加わると(実働部隊の方々には)たいへんつらい取り組みになる。いわゆるノルマである。これほど本末転倒なものはない。「○○○○人集めないと赤字になってしまう。」なんてことに血道を上げている姿をよく見かける。
そういう(ノルマに汲々とする)運動ならやらない方がましだ。下手をするとせっかく積み上げた周りとの信頼関係をぶち壊すことだってあるのだから。

 九条を守る売り子一人一人が成長し周りからの信頼を得、その積み重ねの延長線上に「大集会」のようなものあってもそれはおかしくはない。その『大集会』を自分たちの抱えられる範囲で利用すればよいのだから。どうも、今の護憲勢力は足元が浮き足立って、空回り、失速する危険を大いに孕んでいる。(もしかしたらまわりの身近な人たちの話を満足に聞いてないのでは?)

 今、必要なのは、何十万人とか何万人とか大きな集会に人を集めることではなく、一人一人が身近なところで、小さくても、見てくれが悪くても、ためらいつつでもいいから、とにかく自分が身近に感じ取ったものから出発し自分の力でできること(かならず何かあるはず)をやってみること。一人でもいいから話を聞いてくれる人を見つけること。そして、自分に自信をつけること。その先に、改憲勢力と真っ向から渡り合える底力のようなものが生まれると信じる。