経済破局は来るのか?

経済破局がいつくるのかを、金貸し支配を読み解きながら、追及しています。

「消費せねばならない」と「貯蓄せねばならない」

2014年09月30日 20時33分28秒 | 日記
>一般人が「消費せねばならない」「貯蓄せねばならない」という脅迫観念にとらわれているからではないでしょうか。 <

 子守組合の例で考えると、「出掛けたいから、誰か信頼できる人に頼みたい」という単純な話が、クーポンを介することによって、蓄えの有無や、季節による価格変動などによる駆け引きが発生しています。
 その結果、やりとりを円滑にするためのクーポンが、駆け引きの道具になり、その損得判断により、逆に活動が制約されるというおかしな現象が起こっています。

 例えば、この子守組合に太郎さん夫婦という貯蓄好きのカップルと、ジョンさん一家という遊び好きのカップルが居たとします。
 太郎さんたちはいざというときのため、喜んで子守をし、クーポンを貯めようとします。そして、ジョンさんたちは太郎さんのお陰で、どんどん子どもを任せて、遊ぶことがことが出来ます。
 そうして気がつくと太郎さんは、1年分以上のクーポンを貯めました。逆にジョンさんは1年掛かっても返せないほどの借りを作ってしまったのです。
 太郎さんはクーポンを貯めて安心と思っていたら、ジョンさんは1年以上子守しないまま、遊んでいたので、今後、クーポンを返せそうにありません。

 さて、他のメンバーはこの状況を見てどう思うでしょうか?
 私なら、浪費したジョンさんも問題だが、自分の安心のために相手の返済のことを考えずにひたすら貯め込んだ太郎さんも同罪だ、50歩100歩だと考えるでしょう。

 結局、誰かの貯金は別の誰かの借金であること。また、金利が下がったから、借りようと言う人は、普段から借りている人で、借金をする人はする一方、貯金する人は貯まる一方でどんどん偏ってしまうと言うことのようです。
 そして、これは貯めたい人と浪費したい人の両方がいて、初めて成り立つ構造です。

 現実に、多くの日本人は貯金をすることによって安心を得ようとして、貯金をため込みましたが、その陰では、日本国政府やアメリカが膨大な借金を抱えています。

 この貸借関係は清算されるあてのないまま、膨らみ続けます。見方を変えれば、お互いの欠乏を満たしているので、清算云々さえ言わなければ、恒常的に安定しているとさえ言えそうです。
 しかし、清算について考え始めたとき、この関係は破綻し、それまでの安定を失ってしまうのです。





玉川泰行
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グローバリズムの母胎

2014年09月29日 21時30分08秒 | 日記
「グローバリズム」は明かにアメリカの国益と繋がっています。

では何故そのような「グローバリズム」を容易に受け入れてしまうのか?
以下にある現状のグローバリズム経済について平易に子ども向けに説明した文章がありましたので紹介します。
「今、日本は大きな変化の時を迎えている。なかでも大きな変化は、これからは「自己責任」の時代だということだ。これはお金の問題にも大きく影響する。4章でも見たように「金融の自由化」が進み、個人の選択の幅は広がる。同時に国の保護や規制は減っていく。
自分が選んでお金を預けた銀行が倒産したり、自分で考えた資産運用に失敗しても誰も責任をとってくれない。
さらに、年金などの問題も曲がり角に来ている。老後は国に任せておけば大丈夫」というわけにはいかない時代がやってくるだろう。働けなくなったとき、日々の生活に必要なお金をどうするのか。・・・・自分で考えておかなくてはいけない。こうした「自己責任」の時代だからこそ、自分の意志、自分の価値観で「選択」するいうことが大切になってくる。
(中略)
だからこそ、自分の価値観で仕事を「選択」していくことが必要だ。
実際、倒産や失業といった暗い話題も増えたが、自分の力を生かして自由に転職したり新しい事業を始めたり可能性は広がっている。「会社に頼る」のではなく、自分の力を生かして仕事を選べる時代なんだ。だから、自分は何がやりたいのか、何ができるのか自由に真剣に考えたい。」
~引用終わり~

「個人の自由」と「自己責任」という言葉が躍る。
要するにグローバリズムというイデオロギーの母胎は、「個人的自由」という近代イデオロギーの延長線上にあり、ひとつの帰結と言えるのではないだろうか。現実に進行するグローバル化という資本の国境を越えた運動と、「個人の自由」あるいは拘束からの自由という精神運動は重なり合った。そこにイデオロギーとしての「グローバリズム」が成立している。
こうして経済活動は、行政的規制からの自由、慣行からの自由、さらに国家・国境からの自由という方向で個人の自由を実現できるだろうと見なされた。近年の規制緩和論、構造改革、行政改革論などの思想的な意味はそこにある。

しかし、このルールや制度を無秩序にはずす自由放任経済は、結果としてバブルを生み、著しい所得分配の不平等をもたらし、といった意味での不安定な構造をもたらしている。このような不確かなものの上にある経済はいつ反転してもおかしくないのである。





安冨啓之
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アメリカの消費体質

2014年09月28日 08時28分28秒 | 日記
移民、大衆が経済の主体となる。ここで現代の「消費者」という概念が成立した。「消費者」という概念は「個人」という個性をもった独特の存在ではなく、いわんや国家や文化の印を背中に背負った社会の役者でもなく、ただ「モノを買う」存在なのである。「ただモノを買う存在」に決定的な重要性を与えたところからアメリカの「現代」がはじまる。
モノは通常、ある国の人々の生活様式や文化、歴史と不可分のはずはないのである。しかるに、アメリカはモノを特定の文化や歴史から切り離した、というよりも歴史や伝統を全くもたないアメリカ人にとって、モノは歴史を引きずるものではない。モノはただ「消費者」という一般的カテゴリーに向けれたものなのだ。歴史や文化から切り離されて初めて「消費者」という普遍カテゴリーが成立する。
例えば日本とアメリカでは商品に対する感覚が違うにもかかわらず、経済活動を評価する尺度として「消費者」の概念は日本もアメリカも同じなのである。つまり、アメリカ的価値観、制度、様式がこの「モノのデモクラシー」という「普遍性」と結びついている。
そしてアメリカがこのような理念の普遍性を唱えることによって、母国文化の個別性を払拭した。

結果、大衆消費者(移民)たちは、まず「アメリカ市民」になろうとした。アメリカ市民であるとは、それらしくみえることである。郊外住宅に住み、守るべき財産と家族をもつことであり、物事を民主的かつ合理的に考えることであった。商品と結びついたデザインや広告は、この「アメリカ市民」らしく見せるにはどうしたらいいかを指示したのである。(つまり「この商品を買えば、この銘柄のたばこを吸えば、この仕様の自動車を運転すればあなたは独りぼっちではありせんよ、消費者にいわば保証することである」)
そして表層の見せかけが大衆の脅迫観念になり、商品イメージがこの脅迫観念に対する精神安定剤になった。消費は一種のサイコ・セラピーの役割を果たすのである。
結局アメリカの過剰消費体質には、「移民の存在(もともと己の属する集団というものがない)」、そんな彼らががモノを通じてしか擬似コミュニュティが形成できないという要因が大きいのだと思う。
しかしいずれにしてもこのような人工国家(アメリカ)が、今他の国に対し自由な市場を要求し、そしてその国・地域に昔からある歴史や文化を解体し、例えば、マクドナルドが象徴しているように全世界に単純な「ただモノを買う存在=消費者」にしていくことは許し難い。

(参考:「この1冊でアメリカの歴史がわかる:猿谷要」「アメリカニズムの終焉:佐伯啓想」)






安冨啓之
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市場の闇

2014年09月27日 13時25分20秒 | 日記
どうも市場と国家の裏のつながりみたいなところがあるようなきがするんだけど・・・?

例えば、日銀は金融緩和の名目で殆ど無利子のお金を取引市場にどんどんつぎこむ。それを銀行は比較的金利の高い米国債などにつぎ込んでもうける。(為替リスクはあるかもしれないが、リスクヘッジの方法もあるという。)なにか銀行のために日銀がいるような感じだ。

また銀行は社会的な必要性が低下しても、自分は金融の上流にいるためしわ寄せは、金融の下流にいる中小企業を初めとする企業に押しつけて、自分はお上からの情報や公的資金を有利に用いて、リストラもやらずにのうのうとしている。

うがった見方かもしれないが、行政と金融機関での天下り関係とか、指導関係で結構利害関係が一致しており密着しているように感じる。(これはあくまで推測ですが。)

まっ、考えてみれば市場には闇がたくさんある、

・ヘッジファンドなんかその最たるものでなにやってるかほんとにわからない。
・日銀の為替介入なんかどういう判断でやってんのかぜんぜんわからない。

・・・・だれがどう考えて動いているのかほんとにわかりにくい。
自分の不勉強のせいかもしれないが、もっとオープンにならないのか?そうすればもうすこし社会的な圧力もかかりやすくなるんじゃないだろうか?





井上宏
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新しい社会ビジョンとは?

2014年09月26日 22時22分03秒 | 日記
 現代人が価値意識を変革し、「自然との対話」を取り戻し、「利便性」「快適性」「個的な生活」「人との相対優位意識」等などと決別し、消費をおおいに抑制したとき、当然、拡大再生産を前提とする現代市場社会の原動力は失われるであろうと思います。そうすると資本主義社会は完全に行き詰まると思うわけです。(例えば財政が破綻し、失業者も巷に溢れるでしょう。)

 そのとき、新しい社会ビジョンとは如何なるものかと言うことが知りたいです。
環境問題が叫ばれる一方で、政治家もマスコミも消費を煽っている矛盾を解消したいのです。(総理大臣もえらい先生もはっきりしたことを示せていないと思います)
 これは環境・農業の話とは少し違うようですが、結局ここに行きつくのではと思うわけです。




星埜洋
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