第一次世界大戦後のドイツのハイパーインフレは、ドイツ政府による大量の紙幣発行の失敗と言われているが、事実はどうなのか?
金貸しが動き、ドイツ皇帝・政府からドイツ帝国銀行(中央銀行)を乗っ取っりハイパーインフレを起こしたのが事実ではないか。
以下、≪宋 鴻兵 著『通貨戦争―影の支配者たちは世界統一通貨をめざす』 より抜粋(22)≫
Roentgeniumより転載。
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■1922年ドイツ中央銀行の「独立」―ハイパー・インフレ
≪≪1922年から1923年に起きたドイツのハイパーインフレ Hyper Inflation は、西側諸国の教科書では「政府の通貨システム支配の失敗による典型的な人災」として紹介されている。
銀行家が通貨発行権を支配するということは「責任を課せられ」、「安全を保障する」ことである。しかしその実、銀行家と彼らが支配する中央銀行は、ドイツにハイパーインフレを起こした黒幕であった。
ドイツ帝国銀行 Reichsbank(1876~1948年)は、1876年に創設された民間所有のドイツの中央銀行ではあったが、ドイツ皇帝 Deutscher Kaiser と時の政府の意向を大きく受けていた。帝国銀行の総裁と理事は全て政府の要職が担当し、皇帝が直接に任命する終身制だった。中央銀行の収益は民間株主と政府に配当されるが、株主は中央銀行の政策決定権を有していなかった。
これはイングランド銀行 Bank of England(1694年~)や、フランス銀行 Banque de France(1800年~)、アメリカ連邦準備銀行と明らかに異なり、ドイツ特有の中央銀行制度であり、通貨発行権は最高統治者のドイツ皇帝にしっかりと握られていた。ドイツ帝国銀行創設後のマルク Deutsche Mark は非常に安定し、ドイツの経済成長を大いに促進し、金融制度の立ち遅れた国家が先進国を追い越す成功事例となった。
ドイツ敗戦後の1918年から1922年の間も、マルクの購買力は依然として堅調であり、インフレは英米仏などの戦勝国と比べても然程差はなかった。焦土と化した敗戦国でありながら、ドイツ帝国銀行の通貨政策がこれだけのレベル Level〔※水準〕で維持され、効果を上げたことは称賛されるべきことだった。
敗戦後、戦勝国はドイツの中央銀行に対するドイツ政府の支配権を完全に剥奪した。1922年5月26日、ドイツ帝国銀行の「独立性」を確保する法律が制定され、中央銀行はドイツ政府の支配から抜け出し、政府の通貨政策支配権も完全に廃止された。ドイツの通貨発行権は、ウォーバーグ Warburg Family などの国際銀行家を含む個人銀行家に移譲された。
近代史上最も深刻なハイパーインフレが発生した要因はここにあった。≫≫
≪≪ハイパーインフレの原因は、当時のドイツ首相ヴィルヘルム・クーノ Wilhelm Carl Josef Cuno(1876-1933)がフランスとベルギーによるルール地方 Ruhrgebiet の占領に対処する為、大量の紙幣を発行したからだ、というのが西側の多くの見方だった。しかし、この説ではどう考えてもうまく説明出来ないのである。
第1に、政府が限度を超えた紙幣を発行したのだろうか。
そうではない。中央銀行が私有化されたのは1922年5月である。それに対し、ルール地方が占領されたのは1923年1月である。即ち、大量に紙幣を発行したのは国債銀行家に支配されてからの中央銀行であった。
第2に、財政危機救済の為に大量の紙幣を発行したのだろうか。
それも違う。ドイツの財政は確かにルール地方が占領されたことで大きな打撃を受けたが、中央銀行が「通貨自殺」をしてまで解決する程のことはなく、それにこの方法では何の問題も解決出来ないのである。
クーノ首相には多くの選択肢があったはずである。彼はかつてハパグ社 Hamburg-Amerikanische Packetfahrt-Actien-Gesellschaft(HAPAG)の総裁を務めたことがあり、また中央銀行理事のマックス・ウォーバーグ Max Moritz Warburg(1867-1946)もハパグ社(HAPAG)の理事だった。
ウォーバーグ銀行 M.M.Warburg&CO はウォール街屈指のクーン・ローブ商会 Kuhn Loeb&Co. と良好な関係にあり、マックス・ウォーバーグとポール・ウォーバーグ兄弟は商会のシニアパートナーであった。そのポール・ウォーバーグ Paul Moritz Warburg(1868-1932)はアメリカ連邦準備銀行 Federal Reserve Banks(FRB)の実際の支配者でもあった。
このような背景の中で、ドイツ政府が国際銀行家にハイリターン High-return〔※高収益〕の特殊国債を発行するか、或いはマックス・ウォーバーグが代表するドイツ中央銀行から弟のポール・ウォーバーグが代表する連邦準備銀行に「国際援助」を申し入れれば、ルール地方問題による1年程の財政難は難なく乗り越えられたはずだった。
第3は、戦争賠償金支払いの為に大量の本位通貨を発行して外債の償還負担の軽減と免除を狙ったのだろうか。
それも不可能である。「ヴェルサイユ条約 Traite de Versailles(1919年)」では金 Gold、ポンド £ または米ドル $ で戦争賠償金を支払うことが明記されていた。となると、大量に本位通貨を発行しても全く無意味なことであり、しかも本位通貨が多ければ多いほど外貨との両替は難しくなる。これはアジア金融危機の際に、タイが発行した本位通貨であるバーツ Baht でドル建て外債を返済することが出来なかったのと同じ理屈である。
ドイツ帝国銀行総裁シャハト Horace Greeley Hjalmar Schacht(1877-1970)は1927年に出版した著書『Die Stabilisierung der Mark』(Deutsche Verlags-Anstalt 1927年刊行)〔※邦題:『戦時経済とインフレーション―ドイツ・マルクの混乱より安定まで』(叢文閣 1935年刊行)〕の中で、伝統的な自由主義経済学者だったシャハト〔※Hjalmar Schachtは、Max Warburgと特に親しい間柄だった。国際銀行家達の代理人〕は、次のような解釈を示した。
――ハイパーインフレはドイツ政府が主導したもので、帝国銀行は権限範囲内でインフレを抑制したが、解決することは出来なかった。当時の帝国銀行は、ルール地方がフランスに占領されている限り、外債総額は確定出来ず、一方のドイツ政府は十分な歳入がない為、通貨を安定させる為の如何なる措置も役に立たない、と考えていた。
そして、帝国銀行が狂ったように紙幣を発行したのはドイツ政府を存続させる為には帝国銀行の通貨発行権を借りるしかなかった。当時のドイツは死活問題に直面していた為、中央銀行は独自の通貨政策を維持出来なかった、と言うのがシャハトの解釈だった。だが、シャハトの論旨は全く辻褄が合わない。≫≫
つづく・・・
yooten
金貸しが動き、ドイツ皇帝・政府からドイツ帝国銀行(中央銀行)を乗っ取っりハイパーインフレを起こしたのが事実ではないか。
以下、≪宋 鴻兵 著『通貨戦争―影の支配者たちは世界統一通貨をめざす』 より抜粋(22)≫
Roentgeniumより転載。
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■1922年ドイツ中央銀行の「独立」―ハイパー・インフレ
≪≪1922年から1923年に起きたドイツのハイパーインフレ Hyper Inflation は、西側諸国の教科書では「政府の通貨システム支配の失敗による典型的な人災」として紹介されている。
銀行家が通貨発行権を支配するということは「責任を課せられ」、「安全を保障する」ことである。しかしその実、銀行家と彼らが支配する中央銀行は、ドイツにハイパーインフレを起こした黒幕であった。
ドイツ帝国銀行 Reichsbank(1876~1948年)は、1876年に創設された民間所有のドイツの中央銀行ではあったが、ドイツ皇帝 Deutscher Kaiser と時の政府の意向を大きく受けていた。帝国銀行の総裁と理事は全て政府の要職が担当し、皇帝が直接に任命する終身制だった。中央銀行の収益は民間株主と政府に配当されるが、株主は中央銀行の政策決定権を有していなかった。
これはイングランド銀行 Bank of England(1694年~)や、フランス銀行 Banque de France(1800年~)、アメリカ連邦準備銀行と明らかに異なり、ドイツ特有の中央銀行制度であり、通貨発行権は最高統治者のドイツ皇帝にしっかりと握られていた。ドイツ帝国銀行創設後のマルク Deutsche Mark は非常に安定し、ドイツの経済成長を大いに促進し、金融制度の立ち遅れた国家が先進国を追い越す成功事例となった。
ドイツ敗戦後の1918年から1922年の間も、マルクの購買力は依然として堅調であり、インフレは英米仏などの戦勝国と比べても然程差はなかった。焦土と化した敗戦国でありながら、ドイツ帝国銀行の通貨政策がこれだけのレベル Level〔※水準〕で維持され、効果を上げたことは称賛されるべきことだった。
敗戦後、戦勝国はドイツの中央銀行に対するドイツ政府の支配権を完全に剥奪した。1922年5月26日、ドイツ帝国銀行の「独立性」を確保する法律が制定され、中央銀行はドイツ政府の支配から抜け出し、政府の通貨政策支配権も完全に廃止された。ドイツの通貨発行権は、ウォーバーグ Warburg Family などの国際銀行家を含む個人銀行家に移譲された。
近代史上最も深刻なハイパーインフレが発生した要因はここにあった。≫≫
≪≪ハイパーインフレの原因は、当時のドイツ首相ヴィルヘルム・クーノ Wilhelm Carl Josef Cuno(1876-1933)がフランスとベルギーによるルール地方 Ruhrgebiet の占領に対処する為、大量の紙幣を発行したからだ、というのが西側の多くの見方だった。しかし、この説ではどう考えてもうまく説明出来ないのである。
第1に、政府が限度を超えた紙幣を発行したのだろうか。
そうではない。中央銀行が私有化されたのは1922年5月である。それに対し、ルール地方が占領されたのは1923年1月である。即ち、大量に紙幣を発行したのは国債銀行家に支配されてからの中央銀行であった。
第2に、財政危機救済の為に大量の紙幣を発行したのだろうか。
それも違う。ドイツの財政は確かにルール地方が占領されたことで大きな打撃を受けたが、中央銀行が「通貨自殺」をしてまで解決する程のことはなく、それにこの方法では何の問題も解決出来ないのである。
クーノ首相には多くの選択肢があったはずである。彼はかつてハパグ社 Hamburg-Amerikanische Packetfahrt-Actien-Gesellschaft(HAPAG)の総裁を務めたことがあり、また中央銀行理事のマックス・ウォーバーグ Max Moritz Warburg(1867-1946)もハパグ社(HAPAG)の理事だった。
ウォーバーグ銀行 M.M.Warburg&CO はウォール街屈指のクーン・ローブ商会 Kuhn Loeb&Co. と良好な関係にあり、マックス・ウォーバーグとポール・ウォーバーグ兄弟は商会のシニアパートナーであった。そのポール・ウォーバーグ Paul Moritz Warburg(1868-1932)はアメリカ連邦準備銀行 Federal Reserve Banks(FRB)の実際の支配者でもあった。
このような背景の中で、ドイツ政府が国際銀行家にハイリターン High-return〔※高収益〕の特殊国債を発行するか、或いはマックス・ウォーバーグが代表するドイツ中央銀行から弟のポール・ウォーバーグが代表する連邦準備銀行に「国際援助」を申し入れれば、ルール地方問題による1年程の財政難は難なく乗り越えられたはずだった。
第3は、戦争賠償金支払いの為に大量の本位通貨を発行して外債の償還負担の軽減と免除を狙ったのだろうか。
それも不可能である。「ヴェルサイユ条約 Traite de Versailles(1919年)」では金 Gold、ポンド £ または米ドル $ で戦争賠償金を支払うことが明記されていた。となると、大量に本位通貨を発行しても全く無意味なことであり、しかも本位通貨が多ければ多いほど外貨との両替は難しくなる。これはアジア金融危機の際に、タイが発行した本位通貨であるバーツ Baht でドル建て外債を返済することが出来なかったのと同じ理屈である。
ドイツ帝国銀行総裁シャハト Horace Greeley Hjalmar Schacht(1877-1970)は1927年に出版した著書『Die Stabilisierung der Mark』(Deutsche Verlags-Anstalt 1927年刊行)〔※邦題:『戦時経済とインフレーション―ドイツ・マルクの混乱より安定まで』(叢文閣 1935年刊行)〕の中で、伝統的な自由主義経済学者だったシャハト〔※Hjalmar Schachtは、Max Warburgと特に親しい間柄だった。国際銀行家達の代理人〕は、次のような解釈を示した。
――ハイパーインフレはドイツ政府が主導したもので、帝国銀行は権限範囲内でインフレを抑制したが、解決することは出来なかった。当時の帝国銀行は、ルール地方がフランスに占領されている限り、外債総額は確定出来ず、一方のドイツ政府は十分な歳入がない為、通貨を安定させる為の如何なる措置も役に立たない、と考えていた。
そして、帝国銀行が狂ったように紙幣を発行したのはドイツ政府を存続させる為には帝国銀行の通貨発行権を借りるしかなかった。当時のドイツは死活問題に直面していた為、中央銀行は独自の通貨政策を維持出来なかった、と言うのがシャハトの解釈だった。だが、シャハトの論旨は全く辻褄が合わない。≫≫
つづく・・・
yooten