経済破局は来るのか?

経済破局がいつくるのかを、金貸し支配を読み解きながら、追及しています。

大衆と特権階級を繋いでいた、豊かさ期待という社会意志

2014年12月31日 18時02分29秒 | 日記
本日のテーマは「豊かさ期待は、どのような段階を経て消えていったのか?その段階ごとに、どのような新しい潮流が生起してきたのか?」。
このテーマを扱う理由をまず説明する。

最近の10年間で、我々の認識が大きく変化してきた。
認識転換の最初の契機となったのは、'01年小泉フィーバーに始まるマスコミの偏向・扇動報道、さらに自作自演であることがすぐに知れ渡った米9・11事件などである。
次に'08年リーマンショックに始まる金融危機。
我々も最初は経済法則に基づいて分析していたが、スイス・イタリア国境での10万ドル紙幣事件を契機に、この世界は経済理論ではなく、金貸しによって支配されており、その手先として特権階級(官僚・マスコミ)が動かしているという認識に至った。実際、追い詰められたデビッド・ロックフェラーと検察・官僚・マスコミの暴走が至る所で頻発し、そこから、近代は金貸しとその手先による騙し共認の時代であったと考えるべきであるという認識が生まれた。これが最も大きな認識転換である。

ところが、大衆は暴走する特権階級の動きには無関心である。そこから、大衆の世界と特権階級の世界は断絶してしまったのではないか? だとすれば暴走している特権階級はすでに断崖を飛び出て空中浮遊しており、あとは奈落の底に落ちるだけなのではないか、という見方が登場した。

だとしたら、これまで特権階級と大衆はどのようにして繋がっていたのか? 
ここで豊かさ期待説と私権意識説という二つの仮説が提起されたが、一見似たように見える、この二つの概念を厳密に整理する必要があるだろう。

戦後の大衆運動や学生運動を担った者たちの動機は、潜在意識では私権追求であるが、顕在意識では「大衆のため」というのがその動機であった。つまり、潜在意識では豊かさ期待の実現という社会的な期待に応えるという大義名分を以って闘っていたのである。豊かさ期待は社会の意志(ベクトル)であり、この中に大衆も特権階級も包摂されていた。その点では大衆も特権階級も一体であり、だからこそ両者は繋がっていたのである。この見方は、'70年豊かさが実現され、豊かさ期待が衰弱すると同時に大衆運動が衰弱したという流れとも合致している。

また、豊かさ期待は時代を貫く社会意志なので特権階級にも真正面からこれに応えるという姿勢が要求された。その代表が田中角栄であり、それを引き継いだのが小沢一郎である。逆に言うと、豊かさ期待がなくなると、それを良いことに好き放題やる連中が登場する。例えば、小泉~仙石といった連中だが、豊かさ期待があった時代はあのような輩が登場する可能性は全くなかったのである。

ここで、次のような仮説が生まれる。

現在は特権階級が暴走して社会をグチャグチャにしている。それに対する大衆的活動は、豊かさ期待に代わる新たな社会的期待(意志)が生起してはじめて登場するのではないか?

本日のテーマはここからスタートする。
「豊かさ期待は、どのような段階を経て消えていったのか? その段階ごとに、どのような新しい潮流が生起してきたのか?」

これを明らかにするためには、豊かさ期待の中心的な推進力であった私権意識に焦点を当て、そもそも私権意識とは何なのか?、その成立構造(発生過程)と衰弱構造を明らかにしておく必要がある。





冨田彰男
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