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 松茸は奈良時代から珍重されてきたが、絶滅が心配される.松茸山づくりは里山復活の近道であり里山の再生は松茸復活に繋がる.

里山林の保全には、マツタケ増産が似合う

2005年06月13日 |  マツタケの林地栽培 
マツタケの増産は、里山林の保全である
アカマツの出現はいつから
 魏志倭人伝(西暦239年)には、日本の植生として松類の記載がない.
 花粉分析によると、アカマツは縄文時代には瀬戸内沿岸にのみ存在していた(安田喜憲:1998、森と文明の物語、ちくま新書).本州、四国、九州でアカマツが増えた時期は西暦500年頃からである(塚田松雄:1974、花粉は語る、岩波新書)が、その急増期は鎌倉時代以降で、東北北部のアカマツの拡大は江戸時代後半以降に見られる(安田:1998).
 
昔、人は生活するために炭や薪や柴などエネルギー源を住居近辺の原生林で調達した.住居や神社仏閣を造るためにも、また土木工事用にも膨大量の木材を伐採している.木製生活用具の材料の採取も森林であった.食糧生産には水田にも農地にも肥料を施すが、落葉や刈敷も集落に近い林から得ていた.このような森林の活用が人口増とともに激しさを増し、終には里山林(アカマツ-コナラ林)という二次的な生態系を創出するのである.
 
先述のように、人の生産活動によって、アカマツの進出は規定されているといえる.北上山系では、古くからたたら式製鉄業が盛んで、これにはアカマツの炭が最良であるためアカマツの保育もなされたようである.焼き物業も同様、原生林の二次林化をすすめた.それに製塩業、寒冷地の酒造業(恒温のため)も禿山化を推し進めた.又、畜産業も原生林の草地化を促すはずである.
昭和30年代までの岩手県岩泉町の景観は、短角牛の産地だけに見渡す限り草地で、見える林のほとんどがアカマツ林であったと聞いている.牛と炭が基幹産業であったためであろう.

マツタケの出現はいつから
 ホストであるマツ科の植物の存在抜きには、マツタケは子実体を形成しない.すると、マツタケがあちこちで人目に触れるようになった時期は西暦500年以降と考えられる.しかし、その頃は、現大阪府堺市でも未だ広葉樹が優占していて、7・8世紀になってアカマツが優占したと考えられる(広木詔三:2003、里山の生態学、名古屋大学出版会.西田正規:1976、大阪府文化財調査報告書第28輯、大阪府教育委員会).すると、マツタケの登場は、それ以降と考えられる.

マツタケとアカマツは共生関係
マツタケの生活史は、アカマツ、クロマツ、ハイマツ、ツガ、コメツガ、シラビソ、トドマツ、エゾマツ、レバノンスギなど宿主(寄主)になるマツ科の植物がないと完結しない.
マツ科の植物があればよいというわけではない.すなわち、アカマツはマツタケを必ずしも必要としないからである.アカマツをホストとするキノコはシメジ類、テングタケの仲間、クロカワなど多種である.
①マツタケとアカマツの菌根は、植物ホルモンIAAを産生し、根の分岐を促し特徴ある形態 
的変化を来す.
②土壌中の病原菌や金属毒性から宿主を守っている.抗微生物能のある物質を分泌.
  Al、Ca、NiやZnの害を防ぐ.
③マツタケの菌糸は風乾土壌からも水を吸収できる.従ってアカマツの耐乾性能に寄与す る.
④根外菌叢は有機酸や酵素を分泌しP,N,Kなどの無機塩類を吸収し、アカマツに与えて いる.
⑤マツタケはエネルギー源としてアカマツから光合成産物(グルコース)を摂取.
⑥菌根感染樹木の光合成の向上が報告されている.
⑦菌根を介した地下部のネットワークの役割が脚光を浴びている.
相互扶助的な養分等の流れが見られる.

アカマツの材線虫の枯損を止める意味でも、生物の多様性保全のためにも、もちろんマツタケ増産のためにも、里山林の主要構成樹種であるアカマツ林の手入れ面積を拡大させる必要がある.
そうすると、里山保全に必要な資金が浮いてくると考えられる.また、100年・200年のアカマツ材は、現在でも、高価に取引されていることを忘れがちである!
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