7月26日、相模原市の「津久井やまゆり園」の入所者19人がいのちを奪われる事件があった。やりきれない思いの中で、どう考えたらよいのか、何ができるのか悩む日々である。
障害当事者や支援団体、精神科医などからの声明や意見は心を澄ませてしっかりと聞かねばならない。そんな中で私見というほどのものはないが、追悼の思いも込めて考えてみたい。
容疑者は元介護職員だった。やまゆり園には4年間勤務していたという。4年という年月は決して短くないし、報道されているような差別感情を最初から持っていたのではないだろう。「勤務の中で入居者と気持ちが通う経験もしただろうに」という意見も見られたが、「話せる」と確認した人は殺傷していないと報道されているというから、少なくとも彼のいう「安楽死の対象」と考えていないのだろう。だとすれば、話せない重複障害の人にも豊かな生命力と感性があることに気がつくことはできなかったのか。いれにしても、守るべき入居者たちの命を19人も奪うほどの感情をやまゆり園勤務中に育んだことは深刻受け止め、検証を続けていかねばならない。単に一人の「おかしな人」が起こした事件で片づけるわけにはいかない。
相次ぐ介護施設での事件
わけても高齢者介護と障がい者福祉(在宅介護)の事業者である私が考え続けなければならないのは、介護職員(元職員)による殺人事件が相次いでいる事態だろう。
介護職員による入居者殺害事件はこの数年でもいくつか起きている。中でも衝撃的だったのは今年3月に川崎市の有料老人ホーム「Sアミーユ川崎幸町」で入居者3人の転落死事件容疑者が逮捕された事件だ。高齢者が3人、いずれも深夜に高さ120㎝の柵から転落死した。2014年11月から12月までの2か月足らずの間だ。物証に乏しく立件が困難だといわれた事件で、容疑者段階で決めつけてはいけないが、この事件の経過には心底驚く。足腰も十分に立たない80代90代の高齢者が高い柵を乗り越えて転落死したら、一人目の事件で疑問を感じなかったのだろうか。結局3人が亡くなるまで(殺害されるまで)容疑者となった職員は働き続けた。このホームでは、夜勤帯は80人定員に対して3名の職員で担当していたそうだから、ひっきりなしのナースコール、細かく定められた定時の巡回で、休憩や仮眠も十分にはとれないだろう。有料老人ホームの離職率は介護職種の中でも高い。だからこんな事件がありながら立ち止まることができなかったのか。ここでは虐待事件も発覚、老いた身をゆだねる老人ホームの現実に暗澹とした方も多いだろう。
2010年2月には春日部市の特養ホーム「フラワーヒル」で、容疑者が入職してからわずか1週間のうちに4人の入居者が変死した事件があった。立件されたのは一件のみで、埼玉地方裁判所で懲役8年の判決が出ている。しかし、あとの3件は証拠不十分で不起訴になった。
この二つの事件は発生直後に「事故扱い」で警察に通報されることもなかったため、証拠保全がされず(遺体は火葬済み)、春日部の事件では1件だけの立件になった。シロウト考えだが、川崎の事件も同じ経過をたどるのではないだろうか。
こうした扱いになるのは、施設に入居している超高齢者は「もう十分生きた」という暗黙の了解が共有されているからではないか。1週間に1件は起きている計算になる家族による介護殺人の場合も、近所などから嘆願書が出るケースも見られ、比較的量刑が軽く執行猶予がつくことも多いようだ。
30年以上前になるが、新座市内在住の障がい者が親に殺害された事件で周囲から嘆願書が出たとき、障がい当事者たちが「殺されてもよい命なのか」と抗議した。けれども数々ある高齢者への虐待事件で高齢当事者が抗議の声を上げたことは聞いていない。有料老人ホームの居室でテレビニュースを見ながら、ひとり怯えている高齢者がどれほどいるのだろうか。
事件直後に開催された内閣府の障害者政策委員会では、犠牲者に黙祷をささげてから会議を開始したという。川崎事件の容疑者逮捕直後の社会保障審議会介護保険部会では、黙祷もなく誰ひとりこの事件に触れることはなかった。
事件の根っこにあるもの
介護職員による虐待事件全体の根っこには、人手不足のために起きる適性がない採用や過労、OJT不十分による職員の知識・技術不足がある。職員教育に時間を割き、職員が困ってしまうような症状や行動を相談できる、対応を教えてくれる環境があれば、半減できるのではないだろうか。そして、低賃金。「人生お金だけじゃない」と言ってみても、やはりこの世の評価はお金が絡む。やまゆり園容疑者の時間給は905円、神奈川県の最低賃金だったと報道された。コンビニのバイトより低い賃金は、追い回されるような忙しさ、障がいがある人々の介護をする感情労働のたいへんさを社会が評価しているとは思えない。
酷暑の夏、介護職員の労働はいつにもましてきつい。熱中症で倒れないだろうか、精根尽きて離職するのではないだろうか。介護現場はどこも疲労の影が濃い。暮らしネット・えんにしてもそんなに余裕のある人員配置はできていないから、とりわけ気にかかる。介護に係わるものは声を大にして訴えよう。「介護現場に余裕を!」。これこそ介護現場での虐待防止の有効な策であると。
犠牲者への償いは、誰も排除しない社会を目指すこと
もうひとつ深く考えなければならないのは、容疑者が衆院議長に宛てた手紙や逮捕後の発言で為政者がこの凶行を承認すると思い込んでいることだ。こうした思い込みを介護現場にいたものが抱くにいたったのには、彼が殺害した人々=重度障害者を国家が大切にしているという実感を得られなかったこともあるのではないか。そして彼は「重複障害者」」を殺害することで自らを権力の側に同化するという捩れきった思い込みに陥り、凶行に走った。あまりにも無残で悲しい。
この事件の背景には、私たちの社会が抱える能力至上主義と小さな差異で排除する風潮があるといってよいだろう。社会全体を息苦しい競争原理が覆っている中での事件である。とんでもない異常な事件として片付けてしまう事はできない。なぜなら小さな違いをあげつらって他者を貶めたい暗い欲望は私自身にもある。その誰もが持っているだろう小さな差別感情を肥大させない道筋は、支えあって生きていく土壌を耕すことから始まる。それは、倦まずたゆまず終わりがない、例えば私自身の生が終わるときにバトンを渡し続けていく営為である。
そして、犠牲者を悼みつづけること、誰も排除せず排除されない社会を目指して行動を続けること。自分自身にそう言い聞かせている晩夏。
(この原稿を書きながら、いくつもの深く同意する意見、発言、声明にであった。たとえば脳性まひがある小児科医熊谷晋一郎さんへのインタビュー http://www2.nhk.or.jp/hearttv-blog/3400/251180.html 日本精神医学会の声明 https://www.jspn.or.jp/uploads/uploads/files/activity/sagamiharajiken_houiinkaikenkai.pdf)
シニアコミュニティ2016.9掲載原稿に加筆
障害当事者や支援団体、精神科医などからの声明や意見は心を澄ませてしっかりと聞かねばならない。そんな中で私見というほどのものはないが、追悼の思いも込めて考えてみたい。
容疑者は元介護職員だった。やまゆり園には4年間勤務していたという。4年という年月は決して短くないし、報道されているような差別感情を最初から持っていたのではないだろう。「勤務の中で入居者と気持ちが通う経験もしただろうに」という意見も見られたが、「話せる」と確認した人は殺傷していないと報道されているというから、少なくとも彼のいう「安楽死の対象」と考えていないのだろう。だとすれば、話せない重複障害の人にも豊かな生命力と感性があることに気がつくことはできなかったのか。いれにしても、守るべき入居者たちの命を19人も奪うほどの感情をやまゆり園勤務中に育んだことは深刻受け止め、検証を続けていかねばならない。単に一人の「おかしな人」が起こした事件で片づけるわけにはいかない。
相次ぐ介護施設での事件
わけても高齢者介護と障がい者福祉(在宅介護)の事業者である私が考え続けなければならないのは、介護職員(元職員)による殺人事件が相次いでいる事態だろう。
介護職員による入居者殺害事件はこの数年でもいくつか起きている。中でも衝撃的だったのは今年3月に川崎市の有料老人ホーム「Sアミーユ川崎幸町」で入居者3人の転落死事件容疑者が逮捕された事件だ。高齢者が3人、いずれも深夜に高さ120㎝の柵から転落死した。2014年11月から12月までの2か月足らずの間だ。物証に乏しく立件が困難だといわれた事件で、容疑者段階で決めつけてはいけないが、この事件の経過には心底驚く。足腰も十分に立たない80代90代の高齢者が高い柵を乗り越えて転落死したら、一人目の事件で疑問を感じなかったのだろうか。結局3人が亡くなるまで(殺害されるまで)容疑者となった職員は働き続けた。このホームでは、夜勤帯は80人定員に対して3名の職員で担当していたそうだから、ひっきりなしのナースコール、細かく定められた定時の巡回で、休憩や仮眠も十分にはとれないだろう。有料老人ホームの離職率は介護職種の中でも高い。だからこんな事件がありながら立ち止まることができなかったのか。ここでは虐待事件も発覚、老いた身をゆだねる老人ホームの現実に暗澹とした方も多いだろう。
2010年2月には春日部市の特養ホーム「フラワーヒル」で、容疑者が入職してからわずか1週間のうちに4人の入居者が変死した事件があった。立件されたのは一件のみで、埼玉地方裁判所で懲役8年の判決が出ている。しかし、あとの3件は証拠不十分で不起訴になった。
この二つの事件は発生直後に「事故扱い」で警察に通報されることもなかったため、証拠保全がされず(遺体は火葬済み)、春日部の事件では1件だけの立件になった。シロウト考えだが、川崎の事件も同じ経過をたどるのではないだろうか。
こうした扱いになるのは、施設に入居している超高齢者は「もう十分生きた」という暗黙の了解が共有されているからではないか。1週間に1件は起きている計算になる家族による介護殺人の場合も、近所などから嘆願書が出るケースも見られ、比較的量刑が軽く執行猶予がつくことも多いようだ。
30年以上前になるが、新座市内在住の障がい者が親に殺害された事件で周囲から嘆願書が出たとき、障がい当事者たちが「殺されてもよい命なのか」と抗議した。けれども数々ある高齢者への虐待事件で高齢当事者が抗議の声を上げたことは聞いていない。有料老人ホームの居室でテレビニュースを見ながら、ひとり怯えている高齢者がどれほどいるのだろうか。
事件直後に開催された内閣府の障害者政策委員会では、犠牲者に黙祷をささげてから会議を開始したという。川崎事件の容疑者逮捕直後の社会保障審議会介護保険部会では、黙祷もなく誰ひとりこの事件に触れることはなかった。
事件の根っこにあるもの
介護職員による虐待事件全体の根っこには、人手不足のために起きる適性がない採用や過労、OJT不十分による職員の知識・技術不足がある。職員教育に時間を割き、職員が困ってしまうような症状や行動を相談できる、対応を教えてくれる環境があれば、半減できるのではないだろうか。そして、低賃金。「人生お金だけじゃない」と言ってみても、やはりこの世の評価はお金が絡む。やまゆり園容疑者の時間給は905円、神奈川県の最低賃金だったと報道された。コンビニのバイトより低い賃金は、追い回されるような忙しさ、障がいがある人々の介護をする感情労働のたいへんさを社会が評価しているとは思えない。
酷暑の夏、介護職員の労働はいつにもましてきつい。熱中症で倒れないだろうか、精根尽きて離職するのではないだろうか。介護現場はどこも疲労の影が濃い。暮らしネット・えんにしてもそんなに余裕のある人員配置はできていないから、とりわけ気にかかる。介護に係わるものは声を大にして訴えよう。「介護現場に余裕を!」。これこそ介護現場での虐待防止の有効な策であると。
犠牲者への償いは、誰も排除しない社会を目指すこと
もうひとつ深く考えなければならないのは、容疑者が衆院議長に宛てた手紙や逮捕後の発言で為政者がこの凶行を承認すると思い込んでいることだ。こうした思い込みを介護現場にいたものが抱くにいたったのには、彼が殺害した人々=重度障害者を国家が大切にしているという実感を得られなかったこともあるのではないか。そして彼は「重複障害者」」を殺害することで自らを権力の側に同化するという捩れきった思い込みに陥り、凶行に走った。あまりにも無残で悲しい。
この事件の背景には、私たちの社会が抱える能力至上主義と小さな差異で排除する風潮があるといってよいだろう。社会全体を息苦しい競争原理が覆っている中での事件である。とんでもない異常な事件として片付けてしまう事はできない。なぜなら小さな違いをあげつらって他者を貶めたい暗い欲望は私自身にもある。その誰もが持っているだろう小さな差別感情を肥大させない道筋は、支えあって生きていく土壌を耕すことから始まる。それは、倦まずたゆまず終わりがない、例えば私自身の生が終わるときにバトンを渡し続けていく営為である。
そして、犠牲者を悼みつづけること、誰も排除せず排除されない社会を目指して行動を続けること。自分自身にそう言い聞かせている晩夏。
(この原稿を書きながら、いくつもの深く同意する意見、発言、声明にであった。たとえば脳性まひがある小児科医熊谷晋一郎さんへのインタビュー http://www2.nhk.or.jp/hearttv-blog/3400/251180.html 日本精神医学会の声明 https://www.jspn.or.jp/uploads/uploads/files/activity/sagamiharajiken_houiinkaikenkai.pdf)
シニアコミュニティ2016.9掲載原稿に加筆