歩いて、歩いている

新発見!この道はいつかきた道?

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世の中が変わったのか?

2017-01-30 18:01:10 | 日記

慌ただしい年の瀬も、新年も過ぎ去った。某国の新大統領がすさまじい勢いで、有権者との約束とばかりに公約を実現しようとしている。このニュースはフェークじゃないのか?と思ってしまう!

わが日本でも、年末には耳を疑うようなニュースがあった。何でも「寺の鐘がうるさいので、除夜の鐘を鳴らすな!」という苦情が寺に届いたたというのだ。日本の年末には新しい年を寿ぐために煩悩を払い清め、新年に誓いを立てる習わしがあるのだが。かの国ばかりか、わが国も最早「日出づる国、、、、云々」などと申すも恥ずかしい国となったのだろうか!?それとも”シンゴジラ”ならぬ”シンニッポん”に成ったのだろうか。

洒々落々(しゃしゃらくらく)等と言ってはいられぬ世の中になってしまったのだろうか。

寒空のもと久々に勝山通りを散策する。通りに面して公園があり背景に見るからに味のない、不規則に伐採された小山が見えた。何と、鉄策で囲まれた「御勝山古墳(大阪府史跡)」であった。つい、この間までは青々とした大樹がこの小山を覆っていたので「古墳」と認識はしていたが、こんなにじっくりと眺めたことが無かった。それにしても無残な形態を残したものだ。おそらくは育ちすぎた樹が倒れるのを心配した結果、危なそうな大樹を取り敢えず伐採したものであろうか。きっと、順次整理してゆくのかと思われるが、、、。しかし、もう少し先人の事を思いやって仕事をして貰いたいものである。事のついでに御勝山古墳について調べてみた。資料には以下の様にあった。

「御勝山古墳・おかちやまこふん」大阪府指定文化財(1972年3月31日指定資料参照)墳長約120mの前方後円墳(後円部径54.5m。周濠幅15~18mと推定されている)。江戸時代以前は「岡山」とも「丸山」とも称していたらしいが、戦国時代には大阪本願寺の出城である「丸山城」あった。そのご「大坂冬の陣」に将軍徳川秀忠がここに布陣し勝利を得た事により、岡山を改め「御勝山」と称したのが名前の由来と言われている。現在は、古墳の中央を府道大阪・八尾線(勝山通り)が東西に貫いている。古墳付近は少し盛り上がっている。古墳前方(南)は崩されて史跡公園「御勝山公園」になっている。古墳後円部は原形を止めている(約12.2m標高)。御勝山古墳の一帯は明治23(1890)年から大正15年(1925)年まで府立農業学校の敷地となっていて、大正15年の農業学校移転後、昭和4(1929)年地震観測所がおかれ、同年8月に気象観測所が移された(同14年に大阪管区気象となる)。古墳の分断は農学校の移転後、気象台の敷地となってからの事の様である。気象台は昭和(1968)年に東区(現中央区)に移転し、昭和49年に勝山通りの南側が御勝山南公園として開園され、北側は昭和23(1948)年に御勝山公園として開園されている。現在では、古墳史跡としては後円墳が鉄柵で保護されるばかりである。区役所の1階ロビーの片隅に古墳の資料が展示してあるがもう少し丁寧な展示があっても良いのではと思うばかりである。

都市計画により【1990年の調査で大阪市域では最古とされる縄文時代前半の土器が発見された事により、この付近は勝山史跡と名付けられた。】、分断された貴重な古墳史跡ではあるが、跡地(全てではないが)には初めに農学校ができ、その広大な土地のおかげで後に、気象台(今は無い)ができ、生野区役所を始め消防・警察署、郵便局・区民会館・中学校などが有効利用されている。

先人の事を思いながら、跡地にの大方は、かろうじて地区の方々の役に立っていることに感謝しながら、今年も佳き年に成るようにと願いつつ歩き続けよう。歩いていれば、、、、歩いて歩いて、、、。



                                                                        

 

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