夏目漱石は明治29年4月、五高教師として熊本へやって来ます。しばらく親友の菅虎雄宅に厄介になりましたが、やがて婚約者の中根鏡子が東京から女中を伴って熊本へやって来るというので、光琳寺町(下通1丁目)の一軒屋を借りることになります。そして6月、この家で簡素な結婚式を挙げ、新婚生活が始まります。ところがこの家は、昔、お妾さんが手討ちになったといういわくつきの家だったことや、家の裏が光琳寺のお墓だったこともあり、鏡子夫人が気味悪がったため、わずか3ヶ月で合羽町(坪井)の家へ引っ越すことになります。漱石は、この家で次のような句を残しています。
涼しさや 裏は鉦(かね)うつ 光琳寺
光琳寺の家
その光琳寺も、漱石夫妻が住んだ家も今はありませんが、光琳寺通りという通り名だけが残っています。今では歓楽街となったその通りの一角の集合案内板を眺めながら、勇んで足を踏み入れる諸兄も多いことでしょう。
年の瀬や 唆(そそ)る通り名 光琳寺
光琳寺通り
涼しさや 裏は鉦(かね)うつ 光琳寺
光琳寺の家
その光琳寺も、漱石夫妻が住んだ家も今はありませんが、光琳寺通りという通り名だけが残っています。今では歓楽街となったその通りの一角の集合案内板を眺めながら、勇んで足を踏み入れる諸兄も多いことでしょう。
年の瀬や 唆(そそ)る通り名 光琳寺
光琳寺通り
昔懐かしいような、そそられる通りですね。