豊玉姫神社(鹿児島県南九州市)を掲載しました。
豊玉姫神社(とよたまひめじんじゃ)
【鎮座地】〒897-0302 鹿児島県南九州市知覧町郡16510
【御祭神】豐玉姫命 日子火火出見命 豐玉毘古命 玉依毘賣命
【例祭】 3月1日 春季例祭 3月2日 春季例祭 10月9日 例大祭 10月10日 例大祭 12月1日 秋季例祭 12月2日
【旧社格等】
【御由緒】
海神綿津見神に二女あり、姉の豊玉姫は川辺に、妹の玉依姫は知覧に封ぜられることとなり、衣の郡(今のえい、開聞の辺り)を御出発になつた。
その経路は鬢水峠(此のを以て鬢の毛の乱れを整え給いしに依って呼ぶ)御化粧水(姫ここの水にて化粧されし故この名いづ)飯野(途中昼飯をとり給いしよりこの名を呼ぶ)宮入松(姫命ここより正式に行列を正し休憩せられし処)を経て、取違(姉妹の神様が行く手を違へされし故に取違と申し伝う)にお泊りになった。
ここで玉依姫は川辺が水田に富むことをお知りになり、急いで玄米のままの朝食をお炊きになって川辺へ先発された。平常のよぅに白米をお炊きになった豊玉姫はおくれてしまったので、やむなく妹姫の宰領されることになっていた知覧へ向かい、上郡の城山の下に宮居をお定めになって、知覧を宰領されたという。
ここで姫神は民生を撫育された後崩御遊ばしたので、郷民は御遺徳を慕って城山(のちの亀甲城)の麓に社殿を建立し、鎮守の神として崇敬したのが、この神社のはじまりであるといい伝う。
のちに父神・夫神・妹神の三柱も合祀申し上げたのであるが、天正年間(1573~1592)火災にあい、慶長15年(1610)時の領主島津忠充公が、現在の地を寄進して、遷宮したといわれている。豊玉姫神社は一郷の鎮守の神であるが、近郷の信仰も厚く、知覧忠世の和与状に見えるように、社格は高く、地方民の精神的統一の中心であった。
多数の古文書によると、応永年間(1394~1428)・元亀元年(1570)・慶長15年・寛文11年(1671)等の造賛再興の記載がある。現在の社殿は昭和15年に造営されたものである。
神社につたわる宝物も多数で、歴代知覧領主直筆の書額を始め、木彫の狛犬・セレベス島特有の武器である火焔形剣・また神楽面は(慶長・安永・貞享・元ろく年間作等)34面に達している。
祭神に対する特殊信仰も多く、豊玉姫命は御顔形が玉の如く御立派な方で、み子をお産のときも、産殿の屋根もまだ葺き終えないうちに、軽々と御安産遊ばされたので妊婦は、当社を信仰崇拝すれば、必ず安産で、その上美形の子をうむと信ぜられ婦人の崇拝は殊に厚い。
また豊玉姫・豊玉ひこ・玉依姫は共に海を司る綿津見の神であらせられ、航海や船出の折は、当社を崇敬し護符を受けて身につくるときは、絶対安全と幸福が得られるものとの信仰があって、漁業の方面に特殊の信仰がある。
(平成祭データ)
かつて陸軍特攻基地のあった、鹿児島県知覧町にあります。特攻隊員の遺品、遺書などを展示する知覧特攻平和会館から北に数100m、県道23号線沿いに鎮座。
鳥居から拝殿
境内へは安永9年(1780)に築造された水路に架かる神橋を渡ります。
手水舎鳥居をくぐると左にあります。
両側の銀杏の木は15代貴久公[永正11年(1514年)~元亀2年(1571年)]の御手植と伝えられる夫婦銀杏です。
拝殿
社殿は一段高い位置にあり階段をのぼります。
階段下左右に門守社があります。御祭神は豐磐間戸命、櫛磐間戸命です。
御祭神豊玉姫にふさわしく竜宮城を思わせる朱の鮮やかな社殿です。
拝殿の扁額金色に輝いてシンプルに豊玉姫神社とあります。
現在の社殿は「昭和15年に造営されたものである」と平成祭データにありますが、最近改修されたと思われます。
拝殿から本殿本殿はさらに一段高い位置にあります。
御祭神は豊玉姫命、兄の釣針をなくし、姫の宮殿を訪れ、後に夫となる天孫瓊々杵命の御子、彦火々出見命(山幸彦)、父君豊玉彦命、妹で神武天皇の母となる、玉依姫命です。
当初は城山「亀甲城」の麓に建立されていたが、1610年(慶長15年)に約1.5km西の現在地に遷座されています。
水からくり やかた境内右手前にあります。
境内前の水路の水車を動力とするからくり人形です。藩政時代から上演され、明治以後日露戦争、および太平洋戦争で一時中断の後、昭和54年保存会が結成され復活しました。
水からくり
毎年7月9日から行われる「六月灯」で上演されます。館内に平成20年の演目「はなさかじいさん」が展示されていました。
拝殿から境内境内は広くゆったりとしています。
境内の紅葉
豊玉姫神社(とよたまひめじんじゃ)
【鎮座地】〒897-0302 鹿児島県南九州市知覧町郡16510
【御祭神】豐玉姫命 日子火火出見命 豐玉毘古命 玉依毘賣命
【例祭】 3月1日 春季例祭 3月2日 春季例祭 10月9日 例大祭 10月10日 例大祭 12月1日 秋季例祭 12月2日
【旧社格等】
【御由緒】
海神綿津見神に二女あり、姉の豊玉姫は川辺に、妹の玉依姫は知覧に封ぜられることとなり、衣の郡(今のえい、開聞の辺り)を御出発になつた。
その経路は鬢水峠(此のを以て鬢の毛の乱れを整え給いしに依って呼ぶ)御化粧水(姫ここの水にて化粧されし故この名いづ)飯野(途中昼飯をとり給いしよりこの名を呼ぶ)宮入松(姫命ここより正式に行列を正し休憩せられし処)を経て、取違(姉妹の神様が行く手を違へされし故に取違と申し伝う)にお泊りになった。
ここで玉依姫は川辺が水田に富むことをお知りになり、急いで玄米のままの朝食をお炊きになって川辺へ先発された。平常のよぅに白米をお炊きになった豊玉姫はおくれてしまったので、やむなく妹姫の宰領されることになっていた知覧へ向かい、上郡の城山の下に宮居をお定めになって、知覧を宰領されたという。
ここで姫神は民生を撫育された後崩御遊ばしたので、郷民は御遺徳を慕って城山(のちの亀甲城)の麓に社殿を建立し、鎮守の神として崇敬したのが、この神社のはじまりであるといい伝う。
のちに父神・夫神・妹神の三柱も合祀申し上げたのであるが、天正年間(1573~1592)火災にあい、慶長15年(1610)時の領主島津忠充公が、現在の地を寄進して、遷宮したといわれている。豊玉姫神社は一郷の鎮守の神であるが、近郷の信仰も厚く、知覧忠世の和与状に見えるように、社格は高く、地方民の精神的統一の中心であった。
多数の古文書によると、応永年間(1394~1428)・元亀元年(1570)・慶長15年・寛文11年(1671)等の造賛再興の記載がある。現在の社殿は昭和15年に造営されたものである。
神社につたわる宝物も多数で、歴代知覧領主直筆の書額を始め、木彫の狛犬・セレベス島特有の武器である火焔形剣・また神楽面は(慶長・安永・貞享・元ろく年間作等)34面に達している。
祭神に対する特殊信仰も多く、豊玉姫命は御顔形が玉の如く御立派な方で、み子をお産のときも、産殿の屋根もまだ葺き終えないうちに、軽々と御安産遊ばされたので妊婦は、当社を信仰崇拝すれば、必ず安産で、その上美形の子をうむと信ぜられ婦人の崇拝は殊に厚い。
また豊玉姫・豊玉ひこ・玉依姫は共に海を司る綿津見の神であらせられ、航海や船出の折は、当社を崇敬し護符を受けて身につくるときは、絶対安全と幸福が得られるものとの信仰があって、漁業の方面に特殊の信仰がある。
(平成祭データ)
かつて陸軍特攻基地のあった、鹿児島県知覧町にあります。特攻隊員の遺品、遺書などを展示する知覧特攻平和会館から北に数100m、県道23号線沿いに鎮座。
鳥居から拝殿
境内へは安永9年(1780)に築造された水路に架かる神橋を渡ります。
手水舎鳥居をくぐると左にあります。
両側の銀杏の木は15代貴久公[永正11年(1514年)~元亀2年(1571年)]の御手植と伝えられる夫婦銀杏です。
拝殿
社殿は一段高い位置にあり階段をのぼります。
階段下左右に門守社があります。御祭神は豐磐間戸命、櫛磐間戸命です。
御祭神豊玉姫にふさわしく竜宮城を思わせる朱の鮮やかな社殿です。
拝殿の扁額金色に輝いてシンプルに豊玉姫神社とあります。
現在の社殿は「昭和15年に造営されたものである」と平成祭データにありますが、最近改修されたと思われます。
拝殿から本殿本殿はさらに一段高い位置にあります。
御祭神は豊玉姫命、兄の釣針をなくし、姫の宮殿を訪れ、後に夫となる天孫瓊々杵命の御子、彦火々出見命(山幸彦)、父君豊玉彦命、妹で神武天皇の母となる、玉依姫命です。
当初は城山「亀甲城」の麓に建立されていたが、1610年(慶長15年)に約1.5km西の現在地に遷座されています。
水からくり やかた境内右手前にあります。
境内前の水路の水車を動力とするからくり人形です。藩政時代から上演され、明治以後日露戦争、および太平洋戦争で一時中断の後、昭和54年保存会が結成され復活しました。
水からくり
毎年7月9日から行われる「六月灯」で上演されます。館内に平成20年の演目「はなさかじいさん」が展示されていました。
拝殿から境内境内は広くゆったりとしています。
境内の紅葉
ありがとうございます。
お役に立てて何よりです、大変うれしく思います。
今後とも宜しくお願いします。
あのあなたは、知覧に住んでいるんですか?
(あの別にこたえなくてもいいんですけど)
答えてもらえるとうれしいです!!!
おへんじまってます!!!
そうなんですか!!!
それってすごいですね!!!
うらやましいです!!!