鎮懐石八幡宮(福岡県二丈町)を掲載しました。
鎮懐石八幡宮(ちんかいせきはちまんぐう)
【鎮座地】〒819-1601 福岡県糸島郡二丈町大字深江2143-1 旧筑前国 怡土郡
【御祭神】譽田別天皇 氣長足姫尊 武内宿禰命
【例祭】9月27日 例大祭
【旧社格等】村社
【御由緒】
鎮懐石八幡宮由緒
祭神、神功皇后、応神天皇(八幡大神)武内宿祢
例祭、九月末の日曜日(昔は旧暦八月十五日)
由緒、住昔神功皇后(息長足日女命)は応神社天皇を懐妊しながらこの地を通って新羅征伐にむかわれた時に卵形の美石二個を求めて肌身に抱き出産の延期を祈られたのであった。願いは叶って凱旋後宇美にて応神帝を御出産されたのである。そこで皇后がかの径尺の璧石をこの丘上にお手ずから拝納されてより世人は鎮懐石と称し、その奇魂を崇拝するようになった。
鎮懐石 文化一一年(1814)建立
万葉歌碑 安成六年(1859)六月に建立されたもので九州最古の万葉歌碑といわれる。
(平成祭データ)
福岡県の最西端に位置し、玄界灘に面した糸島郡二丈町にあります、国道202号バイパス「深江IC」傍に鎮座。
神功皇后が新羅出兵に際し、出産を鎮めるために用いた二つの石「鎮懐石」が奉祀された神社です。
参道入口の鳥居
右に「万葉歌碑」、左に「鎮懐石碑」があります。
万葉歌碑
万葉集にある鎮懐石を詠まれた山上憶良(やまのえのおくら)の歌が記載されています。
萬葉歌碑
安政六年(一八五九)六月に建てられた九州最舌の萬葉歌碑である。碑陰に彫られた説明に、「幸い願主あり 福井浦の住 釘本良人長房 同久平長邦乞うて 之を鐫り且在縣の好士 自他の信人 各其志を副 以て之を建つ
祠 官 久 我 信 俊
安政六年巳未六月」とある。
書は、豊前中津藩の深江在住の儒学者であり、書役に任じられた日巡武澄という人である。
また、近世の深江は、寺沢氏の唐津藩や公領など数度の変遷を経て、享保二年(一七一七)七月二十七日から、明治四年の廃藩置県まで百五十四年間、飛地として中津藩に属していた。
鎮懐石碑
文化十一年(一八一四)に建てられた碑で、鎮座の由来を書いている。文は亀井南冥の高弟、苓州江上源伯。書は福岡藩の藩医であった米山上村樗という人で、その子孫は神奈川県に住んである。
鎭懐石碑の文を書いた苓州江上源伯の孫の、江上伝一郎と、後に萬葉歌碑を建てた久我(靭負)信俊は、相携えて安政二年(一八五五)に、江戸の平田門下に入門したという不思議な巡りあわせもあった。(平成五年発行、福岡県史)
参道から拝殿
拝殿扁額
本殿
昭和11年の造営、八幡宮には珍しい神明造りです。
塞神と陰陽石
右に塞神、左に子宝と安産祈願の陰陽石
参道入口の鳥居から左側の急な石段の参道を上りきるとお堂があり、道の守り神の塞神(さえのかみ)、陰陽石が祀られています。社前は玄界灘を望む展望台になっています。
展望台から玄界灘
左は佐賀県、晴れた日には正面50km沖合いの壱岐島が見られるとのこと。
鎮懐石八幡宮(ちんかいせきはちまんぐう)
【鎮座地】〒819-1601 福岡県糸島郡二丈町大字深江2143-1 旧筑前国 怡土郡
【御祭神】譽田別天皇 氣長足姫尊 武内宿禰命
【例祭】9月27日 例大祭
【旧社格等】村社
【御由緒】
鎮懐石八幡宮由緒
祭神、神功皇后、応神天皇(八幡大神)武内宿祢
例祭、九月末の日曜日(昔は旧暦八月十五日)
由緒、住昔神功皇后(息長足日女命)は応神社天皇を懐妊しながらこの地を通って新羅征伐にむかわれた時に卵形の美石二個を求めて肌身に抱き出産の延期を祈られたのであった。願いは叶って凱旋後宇美にて応神帝を御出産されたのである。そこで皇后がかの径尺の璧石をこの丘上にお手ずから拝納されてより世人は鎮懐石と称し、その奇魂を崇拝するようになった。
鎮懐石 文化一一年(1814)建立
万葉歌碑 安成六年(1859)六月に建立されたもので九州最古の万葉歌碑といわれる。
(平成祭データ)
福岡県の最西端に位置し、玄界灘に面した糸島郡二丈町にあります、国道202号バイパス「深江IC」傍に鎮座。
神功皇后が新羅出兵に際し、出産を鎮めるために用いた二つの石「鎮懐石」が奉祀された神社です。
参道入口の鳥居
右に「万葉歌碑」、左に「鎮懐石碑」があります。
万葉歌碑
万葉集にある鎮懐石を詠まれた山上憶良(やまのえのおくら)の歌が記載されています。
萬葉歌碑
安政六年(一八五九)六月に建てられた九州最舌の萬葉歌碑である。碑陰に彫られた説明に、「幸い願主あり 福井浦の住 釘本良人長房 同久平長邦乞うて 之を鐫り且在縣の好士 自他の信人 各其志を副 以て之を建つ
祠 官 久 我 信 俊
安政六年巳未六月」とある。
書は、豊前中津藩の深江在住の儒学者であり、書役に任じられた日巡武澄という人である。
また、近世の深江は、寺沢氏の唐津藩や公領など数度の変遷を経て、享保二年(一七一七)七月二十七日から、明治四年の廃藩置県まで百五十四年間、飛地として中津藩に属していた。
鎮懐石碑
文化十一年(一八一四)に建てられた碑で、鎮座の由来を書いている。文は亀井南冥の高弟、苓州江上源伯。書は福岡藩の藩医であった米山上村樗という人で、その子孫は神奈川県に住んである。
鎭懐石碑の文を書いた苓州江上源伯の孫の、江上伝一郎と、後に萬葉歌碑を建てた久我(靭負)信俊は、相携えて安政二年(一八五五)に、江戸の平田門下に入門したという不思議な巡りあわせもあった。(平成五年発行、福岡県史)
参道から拝殿
拝殿扁額
本殿
昭和11年の造営、八幡宮には珍しい神明造りです。
塞神と陰陽石
右に塞神、左に子宝と安産祈願の陰陽石
参道入口の鳥居から左側の急な石段の参道を上りきるとお堂があり、道の守り神の塞神(さえのかみ)、陰陽石が祀られています。社前は玄界灘を望む展望台になっています。
展望台から玄界灘
左は佐賀県、晴れた日には正面50km沖合いの壱岐島が見られるとのこと。
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