木戸神社(山口県山口市)を掲載しました。
木戸神社(きどじんじゃ)
(通称 きどさま)
【鎮座地】〒753-0091 山口県山口市大字上宇野令115 旧周防国 吉敷郡
【御祭神】木戸孝允
【例祭】4月上旬日曜日 例祭
【旧社格等】戦後昭和22年の創立
【御由緒】
あらまし
糸米の木戸神社に祭られている木戸孝允公は天保四年(一八三三)萩に生まれ、桂小五郎と呼ばれ、萩校明倫館に学びてその鷹爪を顯し、やがて吉田松陰と共に尊皇の精神や兵学を論じ、又二十一才の時、江戸に出て江戸三道場の一である斉藤弥九郎に神道無念流の剣道を修業し、塾頭となった。孝允公が文武両道の達人と云われるのもそのためである。しかも孝允公は終生一度も刀を抜いて、人を殺傷したことはなかったと云われている。
後に江川太郎左エ門に洋式の兵術を学び、やがて長州出身の志士、高杉晋作、久坂玄瑞、大村益次郎、伊藤博文を育て、土佐の坂本龍馬等と共に尊皇攘夷、王政復古、版籍奉還、廃藩置県による近代二本の誕生にその生涯を捧げ、薩藩の西郷隆盛、大久保利通と共に明治維新の三傑と云われた。
孝允公は若き日、京都の芸妓幾松(後の松子夫人)と意気投合し、禁門の変により、長藩全て京を退去したる後も、孝允公は一人京に留り、二条大橋の下にひそんでいたとき、幾松は竹の皮に包んだ握り飯を渡したことは有名で、糸米に新居を構え(現在の竹原邸)藩の政治堂(現県庁の地)に馬上姿で通はれたのである。
必ずしも長い間ではないが糸米生活においても村民や子弟の将来を思い、孝允公の旧宅や山林をすべて村民に与え、子弟教育の資にせよという遺言あり、(当今の奨学金制度の元祖勧学祭として今に伝う)村民はこの後世に遺るすばらしい徳行を慕い、邸の南側に小祠と恩徳碑を建て毎年一回村民あげて、手作りの重箱と徳利を下げて境内に集まり酒肴をかわして大いに談笑し、村民唯一の交流親睦の場となった。
昭和五十二年孝允公の百年祭を迎え奉賛会を創設し、木戸神社一帯を山口の誇る史跡とし、また、春祭りを観光山口の一助にもとの願いを込めて、市民町民あげての協力により市内まれに見る盛典であった。なお、春祭りには町内夫人部手作りの幾松弁当、野点の茶席、子供相撲、ことに公縁の剣道大会は市内最大規模の大会として定着している。
(平成祭データ)
山口県庁から国道9号線を西に数百mほどの糸米に鎮座。参道入口の案内に「木戸神社 文武両道の神(智・徳・体育に秀でた人)祭神 木戸孝允公(旧名・桂小五郎)」とあります。
参道境内は市内でも有数の桜の名所で「木戸公園」となっています。
木戸公恩徳碑参道の鳥居の左にあります。明治19年(1886)10月建立、碑文は漢文で下に現代文に訳した説明があります。
ーーー碑文ーーー
木戸公恩徳碑
内大臣従一位公爵三條実美篆額(てんがく)
故内閣顧問木戸(孝允)公は臨終にあたり、吉敷郡糸米村にある旧宅・山林を全て糸米の村民に寄付し、子弟の学資に充てるように遺言しました。嗣子正二郎君は、公の意志をうけて山口県令関口隆吉に寄託してこれを村民に与えました。糸米の村民はそれを公債証書六百円に換え、その利子を糸米の五十余戸の子弟の学費としました。糸米村の人たちはこの恩を忘れてはならないと、祠を建て毎年お祭りをし、その経緯を石に刻んで後の人たちに知らせることにしました。
木戸公は明治新政府の重臣となり、国家の安泰を願っていましたが、明治十年西南戦争が起こるや国の将来を大変心配し、とても糸米の村民を心配する暇などありませんでした。しかし、木戸公は人や物をいつくしむ心が大変深く、ふるさとの人々のことを片時も忘れるはずはありませんでした。公は臨終にあたり後世のことを考え糸米の人たちのために学資を寄付したのです。これは郷里の人たちを心から愛したからでした。公は人や物を愛し慈しむことを国中の人たちに及ぼしました。だから日本中の人たちは皆公が人を愛し慈しむことを知ったのです。まして況や糸米村の人たちが公の心に親しくふれ、感謝するのは当然のことでした。
さて、この糸米の地は鴻峰の北側に位置し田野が南に開けた所です。土地は熟し、冬は温暖で樹木や竹が群生し、水は清く石を洗い、孤松は形よく野菊が香っています。この風景はかって公の目を楽しませた所です。しかし、公はひとたび国政にたずさわれば、毅然としてこれに対処しました。
糸米の村民は深く公をしのび、その恩恵をうけたのです。そのため、詩歌をつくって公をまつりました。その言葉は、子弟をおしえ、老父を愛し、酒を酌み、飯を盛る、わずかな物ではあるがその風土は素晴らしく、これをはぐくむ山や水には公がいるようです、糸米の子孫の繁栄はまさに公のもたらしたものです。私たちは木戸公の恩徳を永久に忘れてはなりません。
(原文は漢文、難解なため現代文に書き改めたものです)
明治十九年十月 法制官正六位落合済三撰並書
(碑説明板より)
参道の鳥居から拝殿
鳥居には明治廿?四年三月の日付があります、額束が三つのように見えますが補強のために二つ追加されたものと思われます。
拝殿
昭和22年創立時に、市内の江良神社のものを移築されました。
扁額には徳川宗敬謹書とあります。
拝殿から本殿
本殿
明治11年(1878)、公の遺徳を偲び地区民により一宇を建立し祭祀されました。
社殿全景
拝殿から参道
木戸孝允舊邸址の石碑
旧邸跡の石碑の前には小川が流れています。
玄関への入り口に池があり、奥に邸宅が見えます、現在居住されているようで不法侵入のおそれがあり近づくのは止めました
木戸神社(きどじんじゃ)
(通称 きどさま)
【鎮座地】〒753-0091 山口県山口市大字上宇野令115 旧周防国 吉敷郡
【御祭神】木戸孝允
【例祭】4月上旬日曜日 例祭
【旧社格等】戦後昭和22年の創立
【御由緒】
あらまし
糸米の木戸神社に祭られている木戸孝允公は天保四年(一八三三)萩に生まれ、桂小五郎と呼ばれ、萩校明倫館に学びてその鷹爪を顯し、やがて吉田松陰と共に尊皇の精神や兵学を論じ、又二十一才の時、江戸に出て江戸三道場の一である斉藤弥九郎に神道無念流の剣道を修業し、塾頭となった。孝允公が文武両道の達人と云われるのもそのためである。しかも孝允公は終生一度も刀を抜いて、人を殺傷したことはなかったと云われている。
後に江川太郎左エ門に洋式の兵術を学び、やがて長州出身の志士、高杉晋作、久坂玄瑞、大村益次郎、伊藤博文を育て、土佐の坂本龍馬等と共に尊皇攘夷、王政復古、版籍奉還、廃藩置県による近代二本の誕生にその生涯を捧げ、薩藩の西郷隆盛、大久保利通と共に明治維新の三傑と云われた。
孝允公は若き日、京都の芸妓幾松(後の松子夫人)と意気投合し、禁門の変により、長藩全て京を退去したる後も、孝允公は一人京に留り、二条大橋の下にひそんでいたとき、幾松は竹の皮に包んだ握り飯を渡したことは有名で、糸米に新居を構え(現在の竹原邸)藩の政治堂(現県庁の地)に馬上姿で通はれたのである。
必ずしも長い間ではないが糸米生活においても村民や子弟の将来を思い、孝允公の旧宅や山林をすべて村民に与え、子弟教育の資にせよという遺言あり、(当今の奨学金制度の元祖勧学祭として今に伝う)村民はこの後世に遺るすばらしい徳行を慕い、邸の南側に小祠と恩徳碑を建て毎年一回村民あげて、手作りの重箱と徳利を下げて境内に集まり酒肴をかわして大いに談笑し、村民唯一の交流親睦の場となった。
昭和五十二年孝允公の百年祭を迎え奉賛会を創設し、木戸神社一帯を山口の誇る史跡とし、また、春祭りを観光山口の一助にもとの願いを込めて、市民町民あげての協力により市内まれに見る盛典であった。なお、春祭りには町内夫人部手作りの幾松弁当、野点の茶席、子供相撲、ことに公縁の剣道大会は市内最大規模の大会として定着している。
(平成祭データ)
山口県庁から国道9号線を西に数百mほどの糸米に鎮座。参道入口の案内に「木戸神社 文武両道の神(智・徳・体育に秀でた人)祭神 木戸孝允公(旧名・桂小五郎)」とあります。
参道境内は市内でも有数の桜の名所で「木戸公園」となっています。
木戸公恩徳碑参道の鳥居の左にあります。明治19年(1886)10月建立、碑文は漢文で下に現代文に訳した説明があります。
ーーー碑文ーーー
木戸公恩徳碑
内大臣従一位公爵三條実美篆額(てんがく)
故内閣顧問木戸(孝允)公は臨終にあたり、吉敷郡糸米村にある旧宅・山林を全て糸米の村民に寄付し、子弟の学資に充てるように遺言しました。嗣子正二郎君は、公の意志をうけて山口県令関口隆吉に寄託してこれを村民に与えました。糸米の村民はそれを公債証書六百円に換え、その利子を糸米の五十余戸の子弟の学費としました。糸米村の人たちはこの恩を忘れてはならないと、祠を建て毎年お祭りをし、その経緯を石に刻んで後の人たちに知らせることにしました。
木戸公は明治新政府の重臣となり、国家の安泰を願っていましたが、明治十年西南戦争が起こるや国の将来を大変心配し、とても糸米の村民を心配する暇などありませんでした。しかし、木戸公は人や物をいつくしむ心が大変深く、ふるさとの人々のことを片時も忘れるはずはありませんでした。公は臨終にあたり後世のことを考え糸米の人たちのために学資を寄付したのです。これは郷里の人たちを心から愛したからでした。公は人や物を愛し慈しむことを国中の人たちに及ぼしました。だから日本中の人たちは皆公が人を愛し慈しむことを知ったのです。まして況や糸米村の人たちが公の心に親しくふれ、感謝するのは当然のことでした。
さて、この糸米の地は鴻峰の北側に位置し田野が南に開けた所です。土地は熟し、冬は温暖で樹木や竹が群生し、水は清く石を洗い、孤松は形よく野菊が香っています。この風景はかって公の目を楽しませた所です。しかし、公はひとたび国政にたずさわれば、毅然としてこれに対処しました。
糸米の村民は深く公をしのび、その恩恵をうけたのです。そのため、詩歌をつくって公をまつりました。その言葉は、子弟をおしえ、老父を愛し、酒を酌み、飯を盛る、わずかな物ではあるがその風土は素晴らしく、これをはぐくむ山や水には公がいるようです、糸米の子孫の繁栄はまさに公のもたらしたものです。私たちは木戸公の恩徳を永久に忘れてはなりません。
(原文は漢文、難解なため現代文に書き改めたものです)
明治十九年十月 法制官正六位落合済三撰並書
(碑説明板より)
参道の鳥居から拝殿
鳥居には明治廿?四年三月の日付があります、額束が三つのように見えますが補強のために二つ追加されたものと思われます。
拝殿
昭和22年創立時に、市内の江良神社のものを移築されました。
扁額には徳川宗敬謹書とあります。
拝殿から本殿
本殿
明治11年(1878)、公の遺徳を偲び地区民により一宇を建立し祭祀されました。
社殿全景
拝殿から参道
木戸孝允舊邸址の石碑
旧邸跡の石碑の前には小川が流れています。
玄関への入り口に池があり、奥に邸宅が見えます、現在居住されているようで不法侵入のおそれがあり近づくのは止めました
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