12月9日(日)、法事で久しぶりに帰省(広島県呉市音戸町)しました。
12時開始まで時間がありましたので、音戸の瀬戸周辺を散策しました。
音戸の瀬戸(おんどのせと)は広島県呉市警固屋と倉橋島(呉市音戸町)の間の幅わずか90mほどの狭い海峡です。
潮の流れが速く、広島市と松山市を結ぶ定期船が運航するなど船舶の往来が激しい海上交通の要所です。
昭和45年(1970年)発生した「シージャック事件」では乗っ取られた定期旅客船「ぷりんす号」がここを通過し、両岸で犯人を狙撃する計画があったと噂されました。
音戸大橋
総工費3億6,200万円をかけて1961(昭和36)年12月に完成しました。1,000トン級船舶の航行を可能とするため倉橋島側は螺旋(らせん)式、本土側ループ式の取付道路をもつ当時は大変珍しい高架橋として観光の名所となりました。
当時は中学生で開通式に出て日の丸の小旗を持ってパレードを迎えたのを覚えています。
音戸の瀬戸は永万元年(1165年)平清盛が都から厳島神社へ舟航の近道として切り開いたものです。
一日で工事を完了させるために西に沈む夕日を右手に金扇をかざし「日よかえれ」と招き返したという伝説があります。
吉川英治文学碑
音戸大橋を見下ろす、本土側の音戸の瀬戸公園にあります。
吉川英治が「新平家物語」の史跡取材のため昭和25年12月25日この地を訪れ、清盛塚に向かって残した
「君よ、今昔之感 如何 英治生」これを刻んで文学碑としたものです。(除幕昭和38年5月3日)
左の丸い石は平清盛になぞらえたものです。
高烏台
音戸の瀬戸公園の一番高い場所にあります。展望台からは、光輝く安芸灘と点在する島々の美しさに思わず声がでます。天気の良い日には四国の山々も見えます。春は桜の名所となる絶景の場所です。
高烏台から望む倉橋島
左は安芸灘に浮かぶ瀬戸の島々から霞んでいますが四国も見えます。島の左の波多見地区など、今は旧呉市、広島市等のベッドタウンとなって随分住宅が増えています。中央から右に音戸湾から音戸町の中心部(この中に実家があります。)、さらに音戸の瀬戸です。
二重塔
高烏台の入口入ってすぐにあります。
そばの石碑に「平清盛 音戸の瀬戸を開きここに記念として二重塔を建てる」とあります。
音戸の瀬戸から右奥は江田島です。
江田島へも倉橋島と能美島(江田島)の間の早瀬の瀬戸に架かる「早瀬大橋」が開通し本土と陸続きとなっています。
平清盛公日招(ひまねき)像
平清盛の立烏帽子直垂姿の銅像で、高烏台の最高部にあります。
音戸の瀬戸開削800年を記念して昭和42年(1967)7月に建立されました。伝説のとおり日没の方向に扇を向けて立ち、海上交通の安全を見守っています。
この地域は呉軍港の要塞として高射砲など軍の施設が多数ありました。
この像の台座も旧海軍の砲台です。
清盛塚
倉橋島側の橋のたもとにあります。旧音戸町役場(現音戸支所)、音戸観光文化会館「うずしお」の直前です。
当時は人柱をたてて工事の完成を祈願していましたが、平清盛は、人柱の代わりに一字一句の経石を海底に沈め、難工事を完成しました。1184年、村民はその功徳をたたえ、供養のために清盛塚を建立したとされています。
宝篋印塔
塚の中央にあります、高さ2mで古色蒼然として歴史を感じさせます。
その側の枝ぶりも見事な松は「清盛松」と呼ばれています。
音戸の舟歌の碑
旧音戸町役場(現音戸支所)の前にあります。
昔の音戸の瀬戸は幅が狭く、潮の流れが激しく岩もあり渦がまいて、ここを行き来する船は、大変難儀したようです。この模様を歌った舟歌です。現在、日本の「三大舟唄」として全国的にも有名になっています。
来年1月には「音戸の舟唄全国大会」も開催されるようです。
音戸の舟歌
1.ヤーレ 船頭かわいや 音戸の瀬戸でヨー
一丈五尺の ヤーレノーエ 櫓(ろ)がしわるヨー
2.ヤーレ 泣いてくれるな 出船のときはヨー
沖で櫓(ろ)かいの ヤーレノーエ 手がしぶるヨー
3.ヤーレ 浮いたカモメの 夫婦(みょうと)の仲をヨー
情け知らずのヤーレノーエ 伝馬船ヨー
4.ヤーレ 安芸の宮島 回れば七里(ひちり)ヨー
浦は 七浦 ヤーレノーエ 七胡子(ななえべす)ヨー
5.ヤーレ あれが一家か かもめの群(むれ)はヨー
今夜何処(こよいいずこ)の ヤーレノーエ 波間やらヨー
6.ヤーレ ここは音戸の瀬戸 清盛塚(きよもりづか)のヨー
岩に渦潮(うずしお)ドーンと ヤーレノーエ ぶち当るヨー
お聞きになりたい方は
http://inochibana.nobody.jp/okini_iri/okini_iri.html
12時開始まで時間がありましたので、音戸の瀬戸周辺を散策しました。
音戸の瀬戸(おんどのせと)は広島県呉市警固屋と倉橋島(呉市音戸町)の間の幅わずか90mほどの狭い海峡です。
潮の流れが速く、広島市と松山市を結ぶ定期船が運航するなど船舶の往来が激しい海上交通の要所です。
昭和45年(1970年)発生した「シージャック事件」では乗っ取られた定期旅客船「ぷりんす号」がここを通過し、両岸で犯人を狙撃する計画があったと噂されました。
音戸大橋
総工費3億6,200万円をかけて1961(昭和36)年12月に完成しました。1,000トン級船舶の航行を可能とするため倉橋島側は螺旋(らせん)式、本土側ループ式の取付道路をもつ当時は大変珍しい高架橋として観光の名所となりました。
当時は中学生で開通式に出て日の丸の小旗を持ってパレードを迎えたのを覚えています。
音戸の瀬戸は永万元年(1165年)平清盛が都から厳島神社へ舟航の近道として切り開いたものです。
一日で工事を完了させるために西に沈む夕日を右手に金扇をかざし「日よかえれ」と招き返したという伝説があります。
吉川英治文学碑
音戸大橋を見下ろす、本土側の音戸の瀬戸公園にあります。
吉川英治が「新平家物語」の史跡取材のため昭和25年12月25日この地を訪れ、清盛塚に向かって残した
「君よ、今昔之感 如何 英治生」これを刻んで文学碑としたものです。(除幕昭和38年5月3日)
左の丸い石は平清盛になぞらえたものです。
高烏台
音戸の瀬戸公園の一番高い場所にあります。展望台からは、光輝く安芸灘と点在する島々の美しさに思わず声がでます。天気の良い日には四国の山々も見えます。春は桜の名所となる絶景の場所です。
高烏台から望む倉橋島
左は安芸灘に浮かぶ瀬戸の島々から霞んでいますが四国も見えます。島の左の波多見地区など、今は旧呉市、広島市等のベッドタウンとなって随分住宅が増えています。中央から右に音戸湾から音戸町の中心部(この中に実家があります。)、さらに音戸の瀬戸です。
二重塔
高烏台の入口入ってすぐにあります。
そばの石碑に「平清盛 音戸の瀬戸を開きここに記念として二重塔を建てる」とあります。
音戸の瀬戸から右奥は江田島です。
江田島へも倉橋島と能美島(江田島)の間の早瀬の瀬戸に架かる「早瀬大橋」が開通し本土と陸続きとなっています。
平清盛公日招(ひまねき)像
平清盛の立烏帽子直垂姿の銅像で、高烏台の最高部にあります。
音戸の瀬戸開削800年を記念して昭和42年(1967)7月に建立されました。伝説のとおり日没の方向に扇を向けて立ち、海上交通の安全を見守っています。
この地域は呉軍港の要塞として高射砲など軍の施設が多数ありました。
この像の台座も旧海軍の砲台です。
清盛塚
倉橋島側の橋のたもとにあります。旧音戸町役場(現音戸支所)、音戸観光文化会館「うずしお」の直前です。
当時は人柱をたてて工事の完成を祈願していましたが、平清盛は、人柱の代わりに一字一句の経石を海底に沈め、難工事を完成しました。1184年、村民はその功徳をたたえ、供養のために清盛塚を建立したとされています。
宝篋印塔
塚の中央にあります、高さ2mで古色蒼然として歴史を感じさせます。
その側の枝ぶりも見事な松は「清盛松」と呼ばれています。
音戸の舟歌の碑
旧音戸町役場(現音戸支所)の前にあります。
昔の音戸の瀬戸は幅が狭く、潮の流れが激しく岩もあり渦がまいて、ここを行き来する船は、大変難儀したようです。この模様を歌った舟歌です。現在、日本の「三大舟唄」として全国的にも有名になっています。
来年1月には「音戸の舟唄全国大会」も開催されるようです。
音戸の舟歌
1.ヤーレ 船頭かわいや 音戸の瀬戸でヨー
一丈五尺の ヤーレノーエ 櫓(ろ)がしわるヨー
2.ヤーレ 泣いてくれるな 出船のときはヨー
沖で櫓(ろ)かいの ヤーレノーエ 手がしぶるヨー
3.ヤーレ 浮いたカモメの 夫婦(みょうと)の仲をヨー
情け知らずのヤーレノーエ 伝馬船ヨー
4.ヤーレ 安芸の宮島 回れば七里(ひちり)ヨー
浦は 七浦 ヤーレノーエ 七胡子(ななえべす)ヨー
5.ヤーレ あれが一家か かもめの群(むれ)はヨー
今夜何処(こよいいずこ)の ヤーレノーエ 波間やらヨー
6.ヤーレ ここは音戸の瀬戸 清盛塚(きよもりづか)のヨー
岩に渦潮(うずしお)ドーンと ヤーレノーエ ぶち当るヨー
お聞きになりたい方は
http://inochibana.nobody.jp/okini_iri/okini_iri.html
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