先日、退職した会社のOB諸先輩方々との忘年会で、一級河川遠賀川の河口に位置し、古事記・日本書紀にも登場する歴史の町、芦屋町の「国民宿舎 マリンテラスあしや」に一泊しました。
翌日、近くの「芦屋歴史の里(歴史民俗資料館)」に立ち寄りました。ここには1F収蔵展示室、2F常設展示室、2F企画展示室とあり、考古資料から農耕具、商業・交易関係品、漁具や宗教、芸能関連資料などが展示されています。
芦屋歴史の里(歴史民俗資料館)
1.所在地: 福岡県遠賀郡芦屋町大字山鹿1200
2.TEL :(093)222-2555
3.開館時間:09:00~17:00 休館日:毎週月曜
4.入館料 :大人200円、子供100円(団体半額)
その中で、芦屋町の「えびす神社」についての展示があり、大変興味深く楽しめましたので紹介します。
ごあいさつ
芦屋町には、現在6社のえびす神社が確認されています。この町はえびす様との縁が深そうです。調べたところ鳥居の額に彫られている名は、恵比須が2社、蛭子が4社でした。この他に戎や夷の字も使われているようでした。なぜえびすを指す漢字の種類が多いのでしょうか。
芦屋漁港や柏原漁港にいくと蛭子丸と名づけられた船が停泊しています。「ひるこ」と読まず「えびす」と読めば、漁船にぴったりの船名です。なぜひるこでなくえびすなのか。庶民に人気の釣りざおと鯛を抱えた福の神、えびす様の謎を調べてみました。
①恵比寿・夷・戎・蛭子
えびすはとても人気のある神様ですが、公に認められた神の系統には入っていません(つまり古事記や日本書紀に書かれていない)。そこで公の神社で祭る際は、大国主命の息子事代主命として祭られることが多いようです。この他に夷や戎の名が使われる事もよくあります。恵比須(恵美須)は一番なじみのある字ですが、これはえびすに吉祥字をあてたもののようです。夷・戎は異郷人を意味します。蛭子はヒルコとも読みます。古事記・日本書紀の中でイザナギ・イザナミの二神が国産みに失敗して出来た足のなえた神の事です。二神は蛭子を天岩楠船に乗せて海へ流しました。ヒルコと夷、なぜ性格の違う神が同じ名で呼ばれるようになったのでしょうか?
②ただよい・つきたる・かみ エビス
えびすは一般には釣竿を持ち、鯛をかかえた福々しい姿で知られていますが、実はいろいろな姿を持っています。というよりまず「エビス」とは、様々な物にその名を与えたと考えた方がよいかも知れません。それは豊漁を呼ぶ力を持つものを『エビス』と呼ぶ事が民俗学・歴史学から報告されています。例えば海底の石だったり、鯨、イルカ、鮫をこう呼んだりもします。
水死人をエビスと言い、大漁の前兆と喜ぶ地方もあります。つまり、もとは海の幸をもたらす「異郷から来た神(漂着神)」がエビスであったわけで、この「漂着神」としての性格が海へ流された蛭子と一緒になり福徳と航海の守護神となって行ったのでしよう。
③中世のエビス
中世の市神エビスは、海の民から市に持ち込まれ、伝わったようです。海の幸を授ける霊験あらたかな神エビスは市を通じて、職人・商人の間に信仰を集め、都市部の町人・職人さらには農民の間にまで広まっていったようです。
えびす(福神信仰)が盛んになっていったのは中世でした。堺・兵庫(神戸)・博多などの港や水辺の魚塩集散地がその信仰の中心地でした。芦屋も日本書紀・古事記の時代から港・津でありましたから、えびす信仰も古くからあったとしても当然の事でしょう。この長い伝統があるからこそ町内に六社もエビス宮が残り、今も地元の人達から大切こされているのでしょう。
(芦屋歴史の里(歴史民俗資料館)展示より、原文のまま)
当日は参拝できませんでしたが、12/04(金)好天に恵まれ一巡してきました。
最初は、堂山の蛭子神社です。
蛭子神社(えびすじんじゃ)
<通称>おいびつさま(おいびつさま)
【鎮座地】〒807-0141 福岡県遠賀郡芦屋町山鹿1066 旧筑前国 遠賀郡
【御祭神】事代主命
【例祭】
【旧社格等】無格社
【御由緒】
創建年代等不詳
鳥居の扁額には「蛭子宮」とあります。大正7年(1918)3月の奉納です。
国道495号線、芦屋歴史の里(歴史民俗資料館)前の交差点から北西に(海方向)入り、300mほど進むと正面に鳥居が見えてきます。手前右手に柏原漁協活魚センター海の駅があります。
参道入口の鳥居
左海岸に小さな石祠があり、右は堂山の石塔群のある延命地蔵堂への階段があります。
さらに沖に進むと、神功皇后、誓の矢で貫通したと伝えられる洞穴のある洞山がありますが、入口に落石危険立ち入り禁止の看板がありましたので行きませんでした。
鳥居の扁額「蛭子宮」とあります。
石造りの鳥居には大正七年三月の日付が刻まれています。
参道から社殿社殿へは鬱蒼とした木々に覆われた狭い石段を上ります。
社殿
石段を上がるとすぐに社殿です。
社殿の扁額「蛭子神社」とあります。
境内社社殿の左にあります。小さな石祠、社名、御祭神等不明です。
社殿全景社殿のある境内は狭く、鬱蒼とした木々に囲まれています。
延命地蔵堂と石塔群当社の右(東側)一段下に隣接してあります。
芦屋町指定有形民族文化財
堂山の石塔群
遠賀郡芦屋町大字山鹿1065番地 昭和53年4月1日指定
明治30年(1897)ごろ柏原浦に住む佐野屋の老女が、この堂山に延命地蔵堂の建立を発願。
その工事中、地下から高さ50~60cmの一石五輪塔、五輪塔、板碑、石仏など三百数十基が出土した。材質は主として石灰石。 壇ノ浦の合戦後、平家一門の追悼のため落人たちがひそかに祀ったものという説。また、山鹿兵藤次秀遠の部下として多くの犠牲を出した山鹿水軍の遺族が供養のために造立したとする説などがある。
昭和62年1月 芦屋町教育委員会
(入口案内板より)
左に石塔群が 建物の中に収蔵されています。
柏原漁港この中にも、えびす丸があるのでしょうか。
社前から魚見山この岬に「国民宿舎 マリンテラスあしや」があります。
頭上を 航空自衛隊芦屋基地のジェットが旋回していました。
翌日、近くの「芦屋歴史の里(歴史民俗資料館)」に立ち寄りました。ここには1F収蔵展示室、2F常設展示室、2F企画展示室とあり、考古資料から農耕具、商業・交易関係品、漁具や宗教、芸能関連資料などが展示されています。
芦屋歴史の里(歴史民俗資料館)
1.所在地: 福岡県遠賀郡芦屋町大字山鹿1200
2.TEL :(093)222-2555
3.開館時間:09:00~17:00 休館日:毎週月曜
4.入館料 :大人200円、子供100円(団体半額)
その中で、芦屋町の「えびす神社」についての展示があり、大変興味深く楽しめましたので紹介します。
ごあいさつ
芦屋町には、現在6社のえびす神社が確認されています。この町はえびす様との縁が深そうです。調べたところ鳥居の額に彫られている名は、恵比須が2社、蛭子が4社でした。この他に戎や夷の字も使われているようでした。なぜえびすを指す漢字の種類が多いのでしょうか。
芦屋漁港や柏原漁港にいくと蛭子丸と名づけられた船が停泊しています。「ひるこ」と読まず「えびす」と読めば、漁船にぴったりの船名です。なぜひるこでなくえびすなのか。庶民に人気の釣りざおと鯛を抱えた福の神、えびす様の謎を調べてみました。
①恵比寿・夷・戎・蛭子
えびすはとても人気のある神様ですが、公に認められた神の系統には入っていません(つまり古事記や日本書紀に書かれていない)。そこで公の神社で祭る際は、大国主命の息子事代主命として祭られることが多いようです。この他に夷や戎の名が使われる事もよくあります。恵比須(恵美須)は一番なじみのある字ですが、これはえびすに吉祥字をあてたもののようです。夷・戎は異郷人を意味します。蛭子はヒルコとも読みます。古事記・日本書紀の中でイザナギ・イザナミの二神が国産みに失敗して出来た足のなえた神の事です。二神は蛭子を天岩楠船に乗せて海へ流しました。ヒルコと夷、なぜ性格の違う神が同じ名で呼ばれるようになったのでしょうか?
②ただよい・つきたる・かみ エビス
えびすは一般には釣竿を持ち、鯛をかかえた福々しい姿で知られていますが、実はいろいろな姿を持っています。というよりまず「エビス」とは、様々な物にその名を与えたと考えた方がよいかも知れません。それは豊漁を呼ぶ力を持つものを『エビス』と呼ぶ事が民俗学・歴史学から報告されています。例えば海底の石だったり、鯨、イルカ、鮫をこう呼んだりもします。
水死人をエビスと言い、大漁の前兆と喜ぶ地方もあります。つまり、もとは海の幸をもたらす「異郷から来た神(漂着神)」がエビスであったわけで、この「漂着神」としての性格が海へ流された蛭子と一緒になり福徳と航海の守護神となって行ったのでしよう。
③中世のエビス
中世の市神エビスは、海の民から市に持ち込まれ、伝わったようです。海の幸を授ける霊験あらたかな神エビスは市を通じて、職人・商人の間に信仰を集め、都市部の町人・職人さらには農民の間にまで広まっていったようです。
えびす(福神信仰)が盛んになっていったのは中世でした。堺・兵庫(神戸)・博多などの港や水辺の魚塩集散地がその信仰の中心地でした。芦屋も日本書紀・古事記の時代から港・津でありましたから、えびす信仰も古くからあったとしても当然の事でしょう。この長い伝統があるからこそ町内に六社もエビス宮が残り、今も地元の人達から大切こされているのでしょう。
(芦屋歴史の里(歴史民俗資料館)展示より、原文のまま)
当日は参拝できませんでしたが、12/04(金)好天に恵まれ一巡してきました。
最初は、堂山の蛭子神社です。
蛭子神社(えびすじんじゃ)
<通称>おいびつさま(おいびつさま)
【鎮座地】〒807-0141 福岡県遠賀郡芦屋町山鹿1066 旧筑前国 遠賀郡
【御祭神】事代主命
【例祭】
【旧社格等】無格社
【御由緒】
創建年代等不詳
鳥居の扁額には「蛭子宮」とあります。大正7年(1918)3月の奉納です。
国道495号線、芦屋歴史の里(歴史民俗資料館)前の交差点から北西に(海方向)入り、300mほど進むと正面に鳥居が見えてきます。手前右手に柏原漁協活魚センター海の駅があります。
参道入口の鳥居
左海岸に小さな石祠があり、右は堂山の石塔群のある延命地蔵堂への階段があります。
さらに沖に進むと、神功皇后、誓の矢で貫通したと伝えられる洞穴のある洞山がありますが、入口に落石危険立ち入り禁止の看板がありましたので行きませんでした。
鳥居の扁額「蛭子宮」とあります。
石造りの鳥居には大正七年三月の日付が刻まれています。
参道から社殿社殿へは鬱蒼とした木々に覆われた狭い石段を上ります。
社殿
石段を上がるとすぐに社殿です。
社殿の扁額「蛭子神社」とあります。
境内社社殿の左にあります。小さな石祠、社名、御祭神等不明です。
社殿全景社殿のある境内は狭く、鬱蒼とした木々に囲まれています。
延命地蔵堂と石塔群当社の右(東側)一段下に隣接してあります。
芦屋町指定有形民族文化財
堂山の石塔群
遠賀郡芦屋町大字山鹿1065番地 昭和53年4月1日指定
明治30年(1897)ごろ柏原浦に住む佐野屋の老女が、この堂山に延命地蔵堂の建立を発願。
その工事中、地下から高さ50~60cmの一石五輪塔、五輪塔、板碑、石仏など三百数十基が出土した。材質は主として石灰石。 壇ノ浦の合戦後、平家一門の追悼のため落人たちがひそかに祀ったものという説。また、山鹿兵藤次秀遠の部下として多くの犠牲を出した山鹿水軍の遺族が供養のために造立したとする説などがある。
昭和62年1月 芦屋町教育委員会
(入口案内板より)
左に石塔群が 建物の中に収蔵されています。
柏原漁港この中にも、えびす丸があるのでしょうか。
社前から魚見山この岬に「国民宿舎 マリンテラスあしや」があります。
頭上を 航空自衛隊芦屋基地のジェットが旋回していました。
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