城原八幡社(大分県竹田市)を掲載しました。
城原八幡社(きばるはちまんしゃ)
【鎮座地】〒878-0145 大分県竹田市大字米納1048番地 旧豊後国 直入郡
【御祭神】大帶日古淤斯呂和氣命 多紀理毘賣命 市寸嶋比賣命 多岐都比賣命
品陀和氣命 息長帶比賣命
【例祭】10月9日 例祭 11月23日 新穀感謝祭
【旧社格等】県社
【御由緒】
当八幡社の社記によりますと、この地方の人々が、景行天皇熊襲ご征討の折、城原方面へ軍をすすめて、ご巡幸になり、その時の行宮の跡を尊び、応神天皇幸卯二年(二七一)に、一祠を造営して天皇の御霊を斎きまって皇恩に報いたのに始まるといわれています。(現在の社地松原がその行宮の跡と伝えられています)
「日本書紀」巻第七(景行天皇)には、景行天皇十二年(八二)、天皇に叛いて朝貢しなかった熊襲征討のことが記されています。
その後、文徳天皇の天安二年(八五八)、二月神境内の礎村の景樹の地に八幡宮降臨の霊瑞があって時の国司石川朝臣宗継をして、殿宇を造営、八幡宮を配祀させたといわれています。このことは「大友興廃記」第一巻直入郡城原八幡由来にも記されています。この霊瑞の跡は、今も近くの宮久保の社地に「八幡大神降臨の地」の碑が建てられて残っています。
(平成祭データ)
竹田市大字米納にあります。久住から竹田市街地に向かう国道442号線道沿い「道の駅竹田」の500m北に鎮座します。
楼門文化二年(1862)の建立とされています。
境内へは楼門の前に小川が流れていて年代を感じさせる石橋を渡ります。
拝殿楼門をくぐると正面に朱の鮮やかや拝殿です。
拝殿の扁額「城原神社」とあります。
拝殿から本殿
拝殿と本殿の間に朱の柱と白壁のコントラストの美しい幣殿があります。
本殿
景行天皇の熊襲ご征討の御徳を称え応神天皇の二年(271年)、現在の松原行宮跡に宮を建て祀ったのが起源とされています。
宝歴一二年(1762年)建立の社殿(拝殿、幣殿、本殿)は神楽殿を含め市指定有形文化財です。
本殿と幣殿の屋根
本殿と幣殿の屋根は密接していて一つの樋で結ばれています。
社殿全景
境内社境内右手にあります。
社前にユーモラスな顔の一対の狛犬があります。
楼門から御神木
拝殿から楼門
境内前の小川
境内前に清流の小川があり小さな石橋が見られます。
城原八幡社(きばるはちまんしゃ)
【鎮座地】〒878-0145 大分県竹田市大字米納1048番地 旧豊後国 直入郡
【御祭神】大帶日古淤斯呂和氣命 多紀理毘賣命 市寸嶋比賣命 多岐都比賣命
品陀和氣命 息長帶比賣命
【例祭】10月9日 例祭 11月23日 新穀感謝祭
【旧社格等】県社
【御由緒】
当八幡社の社記によりますと、この地方の人々が、景行天皇熊襲ご征討の折、城原方面へ軍をすすめて、ご巡幸になり、その時の行宮の跡を尊び、応神天皇幸卯二年(二七一)に、一祠を造営して天皇の御霊を斎きまって皇恩に報いたのに始まるといわれています。(現在の社地松原がその行宮の跡と伝えられています)
「日本書紀」巻第七(景行天皇)には、景行天皇十二年(八二)、天皇に叛いて朝貢しなかった熊襲征討のことが記されています。
その後、文徳天皇の天安二年(八五八)、二月神境内の礎村の景樹の地に八幡宮降臨の霊瑞があって時の国司石川朝臣宗継をして、殿宇を造営、八幡宮を配祀させたといわれています。このことは「大友興廃記」第一巻直入郡城原八幡由来にも記されています。この霊瑞の跡は、今も近くの宮久保の社地に「八幡大神降臨の地」の碑が建てられて残っています。
(平成祭データ)
竹田市大字米納にあります。久住から竹田市街地に向かう国道442号線道沿い「道の駅竹田」の500m北に鎮座します。
楼門文化二年(1862)の建立とされています。
境内へは楼門の前に小川が流れていて年代を感じさせる石橋を渡ります。
拝殿楼門をくぐると正面に朱の鮮やかや拝殿です。
拝殿の扁額「城原神社」とあります。
拝殿から本殿
拝殿と本殿の間に朱の柱と白壁のコントラストの美しい幣殿があります。
本殿
景行天皇の熊襲ご征討の御徳を称え応神天皇の二年(271年)、現在の松原行宮跡に宮を建て祀ったのが起源とされています。
宝歴一二年(1762年)建立の社殿(拝殿、幣殿、本殿)は神楽殿を含め市指定有形文化財です。
本殿と幣殿の屋根
本殿と幣殿の屋根は密接していて一つの樋で結ばれています。
社殿全景
境内社境内右手にあります。
社前にユーモラスな顔の一対の狛犬があります。
楼門から御神木
拝殿から楼門
境内前の小川
境内前に清流の小川があり小さな石橋が見られます。
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