
2008年の最後、今年1年の穢れを祓い、来る新年が良い年であることを祈願して、黄泉国から帰還した伊邪那岐尊が禊を行った「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」の地であると伝えられている
江田神社(宮崎県宮崎市)を掲載しました。
江田神社(えだじんじゃ)
<通称>産母神社(やぼじんじゃ)
【鎮座地】〒880-0835 宮崎県宮崎市阿波岐原町産母127 旧日向国 宮崎郡
【御祭神】伊邪那岐尊 (配祀)伊邪那美尊
【例祭】 11月22日 例大祭
【旧社格等】県社
式内社 日向國宮崎郡 江田神社
【御由緒】
江田神社由緒記
本神社は太古の御創建にして、その創立の年代は詳らかならざるも、此の地一帯は古来所謂日向の橘の小戸の阿波岐原として、伊邪那岐の大神禊祓の霊跡と伝承せられて、縁起最も極めて深き社ならむ。禊祓の際天照皇大神、月讀尊、素佐嗚尊と住吉三神の神々が御降誕あらせられたる霊域の地と伝え、則ち上代における中ツ瀬と称せる御池本社を去ること約五丁の東北に現存す。後、世人入江を開墾して江田と称し、里人俗に当社を産母様と称えて今日に至る。
五四代(一一四三年前)仁明天皇承和四年丁巳八月官社に列せられ、五五代(一一二六)文徳天皇仁壽元年辛未正月従四位下を授けられ、五六代(一二一八)清和天皇貞観元年己酉十月従四位上に進められ、その後五四代(一〇〇七年前)円融天皇天禄元年二月迄に天変地妖兵革等の年毎に敍位八回に及び、正一位に昇階ありしと云う。
六〇代(一〇七三年前)醍醐天皇の延喜年間に於いて、延喜式内社日向四座の一社として神明帳に登載せられ祈年新嘗の奉幣を承け居りしが、一一二代(三二〇年前)後西院天皇寛文年間に神社の制度に変革を来し、ついに一村落の産土神と同様の取扱を承けるに至れり。
明治維新に際し、明治六年五月二十五日に社格県社に列せられ、同四十年二月九日神饌幣帛料共進を指定されて今日に至る。
尚、当神社の御祭神は皆様ご存じのように、みそぎ祓の祝詞にあります諸々のお祓いの神でありますと共に、世の中で始めて夫婦のいとなみを始められた神でもあり、天照皇大神をはじめ月讀尊、素佐嗚尊、住吉三神の尊い神々の親神でもあります。古くより近郷近在の人々が当社を産母様(ヤボサマ)と尊称してお祓い縁結び安産の守護神として最も崇敬しているお社であります。
(平成祭データ)
宮崎県宮崎市にあります。伊邪那岐尊が禊を行った「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」の地とされる現在の地名も阿波岐原町の鬱蒼とした森に鎮座しています。
ゴルフ界の新星石川遼が大活躍したフェニックスCCのある宮崎シーガイヤの西に隣接しています。
鳥居左、道路側にある社号標には、裏に昭和九年拾弐月参拾壱日建設 奉納とあります。
参道の鳥居
木々に覆われ鬱蒼とした玉砂利の参道を進むと途中にふるびた鳥居です、補強がしてあります。
御神木
鳥居のそば右手にあります。
根元から二つに分かれて伸びています、よくある夫婦楠?でしょうか注連縄があります。参道挟んで反対側(西側)には手水舎があります。
参道から拝殿

参道の突き当たりに正面に拝殿、その奥に幣殿から本殿です。社殿手前左は社務所です。
拝殿から本殿
社殿のある境内は広くも狭くもなくほどよい感じです。
現在の社殿は昭和10年に改築され、さらに直近では昭和61年11月改築されています。
本殿

お祓いの「かけまくも畏き伊邪那岐大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に・・・」の祝詞の発祥の地と云われ、伊邪那岐尊・伊邪那美尊を祀る社です。
創建年代は不詳ですが、延喜式内社日向四座(都農、都萬、江田、霧島)の一社であり、宮崎でも有数の古社です。
参道
拝殿から一の鳥居まで綺麗に整備された参道です。
参拝したのは夕方の5時過ぎ、木々の間から西日が射し込んでいました。
みそぎの碑
参道の左、道路沿い駐車場にあります。
真ん中茶色はイザナギ、手前左から海・スサノオ、日・アマテラス、月・ツクヨミを表わしています。
御池(みそぎが池)
本殿裏からみそぎ御殿を過ぎて市民の森を抜けて300mほど北にあります。伊邪那岐尊が黄泉国から帰りみそぎをした池とされています。
御池(みそぎが池)石碑
御池の南側にあります。碑文に三貴子誕生の場面が古事記の原文と現代語訳で記載しています。
御池(みそぎが池)
古来より、この池は竺紫日向橘小門之阿波岐原と呼ばれ、伊耶那伎大神が禊祓されたと伝えられています。
我が国最古の歴史書である古事記には、伊耶那伎大神が禊祓をされ、天照大御神をはじめ多くの神々が誕生されたと記されています。
「是以伊邪那伎大神 到坐竺紫日向 橘小門之阿波岐原而 禊祓也
於是洗左御目時所成神 名天照大御神 次洗右御目時所成神 名月讀命 次洗御鼻時所成神 名建速須佐之男命」
(石碑碑文より)
北側より夕日を映して
江田神社(宮崎県宮崎市)を掲載しました。
江田神社(えだじんじゃ)
<通称>産母神社(やぼじんじゃ)
【鎮座地】〒880-0835 宮崎県宮崎市阿波岐原町産母127 旧日向国 宮崎郡
【御祭神】伊邪那岐尊 (配祀)伊邪那美尊
【例祭】 11月22日 例大祭
【旧社格等】県社
式内社 日向國宮崎郡 江田神社
【御由緒】
江田神社由緒記
本神社は太古の御創建にして、その創立の年代は詳らかならざるも、此の地一帯は古来所謂日向の橘の小戸の阿波岐原として、伊邪那岐の大神禊祓の霊跡と伝承せられて、縁起最も極めて深き社ならむ。禊祓の際天照皇大神、月讀尊、素佐嗚尊と住吉三神の神々が御降誕あらせられたる霊域の地と伝え、則ち上代における中ツ瀬と称せる御池本社を去ること約五丁の東北に現存す。後、世人入江を開墾して江田と称し、里人俗に当社を産母様と称えて今日に至る。
五四代(一一四三年前)仁明天皇承和四年丁巳八月官社に列せられ、五五代(一一二六)文徳天皇仁壽元年辛未正月従四位下を授けられ、五六代(一二一八)清和天皇貞観元年己酉十月従四位上に進められ、その後五四代(一〇〇七年前)円融天皇天禄元年二月迄に天変地妖兵革等の年毎に敍位八回に及び、正一位に昇階ありしと云う。
六〇代(一〇七三年前)醍醐天皇の延喜年間に於いて、延喜式内社日向四座の一社として神明帳に登載せられ祈年新嘗の奉幣を承け居りしが、一一二代(三二〇年前)後西院天皇寛文年間に神社の制度に変革を来し、ついに一村落の産土神と同様の取扱を承けるに至れり。
明治維新に際し、明治六年五月二十五日に社格県社に列せられ、同四十年二月九日神饌幣帛料共進を指定されて今日に至る。
尚、当神社の御祭神は皆様ご存じのように、みそぎ祓の祝詞にあります諸々のお祓いの神でありますと共に、世の中で始めて夫婦のいとなみを始められた神でもあり、天照皇大神をはじめ月讀尊、素佐嗚尊、住吉三神の尊い神々の親神でもあります。古くより近郷近在の人々が当社を産母様(ヤボサマ)と尊称してお祓い縁結び安産の守護神として最も崇敬しているお社であります。
(平成祭データ)
宮崎県宮崎市にあります。伊邪那岐尊が禊を行った「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」の地とされる現在の地名も阿波岐原町の鬱蒼とした森に鎮座しています。
ゴルフ界の新星石川遼が大活躍したフェニックスCCのある宮崎シーガイヤの西に隣接しています。
鳥居左、道路側にある社号標には、裏に昭和九年拾弐月参拾壱日建設 奉納とあります。
参道の鳥居

木々に覆われ鬱蒼とした玉砂利の参道を進むと途中にふるびた鳥居です、補強がしてあります。
御神木

根元から二つに分かれて伸びています、よくある夫婦楠?でしょうか注連縄があります。参道挟んで反対側(西側)には手水舎があります。
参道から拝殿


参道の突き当たりに正面に拝殿、その奥に幣殿から本殿です。社殿手前左は社務所です。
拝殿から本殿

現在の社殿は昭和10年に改築され、さらに直近では昭和61年11月改築されています。
本殿


お祓いの「かけまくも畏き伊邪那岐大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に・・・」の祝詞の発祥の地と云われ、伊邪那岐尊・伊邪那美尊を祀る社です。
創建年代は不詳ですが、延喜式内社日向四座(都農、都萬、江田、霧島)の一社であり、宮崎でも有数の古社です。
参道

参拝したのは夕方の5時過ぎ、木々の間から西日が射し込んでいました。
みそぎの碑

真ん中茶色はイザナギ、手前左から海・スサノオ、日・アマテラス、月・ツクヨミを表わしています。
御池(みそぎが池)

本殿裏からみそぎ御殿を過ぎて市民の森を抜けて300mほど北にあります。伊邪那岐尊が黄泉国から帰りみそぎをした池とされています。
御池(みそぎが池)石碑

御池の南側にあります。碑文に三貴子誕生の場面が古事記の原文と現代語訳で記載しています。
御池(みそぎが池)
古来より、この池は竺紫日向橘小門之阿波岐原と呼ばれ、伊耶那伎大神が禊祓されたと伝えられています。
我が国最古の歴史書である古事記には、伊耶那伎大神が禊祓をされ、天照大御神をはじめ多くの神々が誕生されたと記されています。
「是以伊邪那伎大神 到坐竺紫日向 橘小門之阿波岐原而 禊祓也
於是洗左御目時所成神 名天照大御神 次洗右御目時所成神 名月讀命 次洗御鼻時所成神 名建速須佐之男命」
(石碑碑文より)
北側より夕日を映して

拙ブログにお立ち寄り頂きありがとうございます。
当ブログおよび拙サイト(九州神社紀行)は個人の神社参拝記録であり、掲載の各神社および関連団体等、一切関係ありません。
お尋ねの件は各神社にお問い合わせください。