
中山神社(山口県下関市)をフォトギャラリー山口、本州に掲載しました。
国道191号線綾羅木駅前交差点の1ブロック北側の交差点から海岸方向に入っておよそ700mの松林の中に鎮座されています。
一の鳥居の向こうに御所をおもわせる神門が見えます。
社名は御祭神は勤皇の公家中山忠光卿に由来しています。
中山忠光卿は、弘化二年(1845年)に、大納言中山忠能卿の第五子に生れ、明治天皇の御生母中山一位の局(慶子)は姉君であり、従って忠光卿は明治天皇の叔父にあたります。

元治元年十一月八日夜豊北町田耕字長瀬に於て俗論党の凶手に倒れ悲惨な最期を遂げられた。凶徒は尊骸をその夜の内に約二十八キロ離れた、当神社松林までひそかに埋葬し、此を奇兵隊が探知して当初木の墓標を建てた。慶応元年十一月豊浦藩は社殿を造営し英霊を祀ったのが当神社の創立である。(平成祭データより抜粋)

中山忠光の墓(享年20歳)
藤原忠光卿と書いてあります。これには二説あり、中山家の祖先が藤原家となること、もう一説は長州藩が中山忠光卿を埋葬したを隠したかったとの説とがあります。
愛新覚羅社(玄界灘のはるか彼方の中国大陸に向かって建てられています。)
満州国の最後の皇帝・愛新覚羅溥儀の弟である愛新覚羅溥傑とその妻の浩(忠光のひ孫)、長女慧生が祀られています。

忠光が暗殺されたとき、側女(そばめ)のトミが忠光の子を身ごもっていた。生まれた女の子は仲子姫(なかこひめ)と名付けられ、のちに嵯峨家に嫁ぎ、嵯峨侯爵婦人となる。
嵯峨侯爵婦人の孫に当たる浩(ひろ)は、日本が中国大陸に建国した元満州国皇帝溥儀(ふぎ)の実弟の溥傑(ふけつ)と結婚して、愛新覚羅浩(あいしんかくら ひろ)となった。
国道191号線綾羅木駅前交差点の1ブロック北側の交差点から海岸方向に入っておよそ700mの松林の中に鎮座されています。
一の鳥居の向こうに御所をおもわせる神門が見えます。
社名は御祭神は勤皇の公家中山忠光卿に由来しています。
中山忠光卿は、弘化二年(1845年)に、大納言中山忠能卿の第五子に生れ、明治天皇の御生母中山一位の局(慶子)は姉君であり、従って忠光卿は明治天皇の叔父にあたります。


元治元年十一月八日夜豊北町田耕字長瀬に於て俗論党の凶手に倒れ悲惨な最期を遂げられた。凶徒は尊骸をその夜の内に約二十八キロ離れた、当神社松林までひそかに埋葬し、此を奇兵隊が探知して当初木の墓標を建てた。慶応元年十一月豊浦藩は社殿を造営し英霊を祀ったのが当神社の創立である。(平成祭データより抜粋)

中山忠光の墓(享年20歳)

藤原忠光卿と書いてあります。これには二説あり、中山家の祖先が藤原家となること、もう一説は長州藩が中山忠光卿を埋葬したを隠したかったとの説とがあります。
愛新覚羅社(玄界灘のはるか彼方の中国大陸に向かって建てられています。)
満州国の最後の皇帝・愛新覚羅溥儀の弟である愛新覚羅溥傑とその妻の浩(忠光のひ孫)、長女慧生が祀られています。

忠光が暗殺されたとき、側女(そばめ)のトミが忠光の子を身ごもっていた。生まれた女の子は仲子姫(なかこひめ)と名付けられ、のちに嵯峨家に嫁ぎ、嵯峨侯爵婦人となる。
嵯峨侯爵婦人の孫に当たる浩(ひろ)は、日本が中国大陸に建国した元満州国皇帝溥儀(ふぎ)の実弟の溥傑(ふけつ)と結婚して、愛新覚羅浩(あいしんかくら ひろ)となった。
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