今回の山口シリーズの締めくくりとして、野田神社・豊栄(とよさか)神社(山口市)を
フォトギャラリー(山口、本州)に掲載しました。
鎮座地は国道9号線を益田方面に向かって山口県庁前交差点を過ぎしばらくの七尾山トンネル手前を右折してすぐにあります。
市街地に割りと近い場所ですが高い木立に囲まれ静かなたたずまいが見られます。隣接して今八幡宮が鎮座されています。
野田神社の
御祭神は毛利敬親および毛利元徳です。
敬親は毛利藩十三代の藩主で幕末維新の時に藩士を指揮して近代国家の成立に努力し、明治四年に山口でなくなりました。
元徳は敬親の養子で幕末維新の時には父敬親を補佐し明治二十九年に亡くなりました。(境内案内板より)
豊栄神社の
御祭神は毛利氏中興の祖毛利元就です。
元就は安芸国の吉田の出身で、戦国時代に中国地方八カ国を治めた大名で、吉田で亡くなり墓もそこにあります。毛利輝元が萩城に移った時、城の内に社を建てて元就の霊を祀っていましたが、明治二年山口に移されました。この年に朝廷から元就の神霊に対し、豊栄の神号を賜りました。(境内案内板より)
2社は双子のように端垣に囲まれて幣殿、本殿が同じ造り、配置になっています。
毛利元就といえば「3本の矢」が有名ですが、
「百万一心」と大きく文字を彫った石が、かつての毛利氏の居城郡山古城跡姫丸壇の石垣にあり、文化十三年(1816)にそれを実際に見た藩士武田泰信が、この石を御城守護の心柱であったであろうと紙に写し取って、明治十五年に豊栄神社に奉納した。その礎石の所在はいまや不明である。
百の字は特に一画を省いて一日にとし、万の字は略字によって一力とし、一日一力一心とも解され、「日を一にし力を一にし心を一にす」という衆人共同の意であるとされる。(境内案内板より)
フォトギャラリー(山口、本州)に掲載しました。
鎮座地は国道9号線を益田方面に向かって山口県庁前交差点を過ぎしばらくの七尾山トンネル手前を右折してすぐにあります。
市街地に割りと近い場所ですが高い木立に囲まれ静かなたたずまいが見られます。隣接して今八幡宮が鎮座されています。
野田神社の
御祭神は毛利敬親および毛利元徳です。
敬親は毛利藩十三代の藩主で幕末維新の時に藩士を指揮して近代国家の成立に努力し、明治四年に山口でなくなりました。
元徳は敬親の養子で幕末維新の時には父敬親を補佐し明治二十九年に亡くなりました。(境内案内板より)
豊栄神社の
御祭神は毛利氏中興の祖毛利元就です。
元就は安芸国の吉田の出身で、戦国時代に中国地方八カ国を治めた大名で、吉田で亡くなり墓もそこにあります。毛利輝元が萩城に移った時、城の内に社を建てて元就の霊を祀っていましたが、明治二年山口に移されました。この年に朝廷から元就の神霊に対し、豊栄の神号を賜りました。(境内案内板より)
2社は双子のように端垣に囲まれて幣殿、本殿が同じ造り、配置になっています。
毛利元就といえば「3本の矢」が有名ですが、
「百万一心」と大きく文字を彫った石が、かつての毛利氏の居城郡山古城跡姫丸壇の石垣にあり、文化十三年(1816)にそれを実際に見た藩士武田泰信が、この石を御城守護の心柱であったであろうと紙に写し取って、明治十五年に豊栄神社に奉納した。その礎石の所在はいまや不明である。
百の字は特に一画を省いて一日にとし、万の字は略字によって一力とし、一日一力一心とも解され、「日を一にし力を一にし心を一にす」という衆人共同の意であるとされる。(境内案内板より)
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