先日の続きです。
桜山神社から折り返し同じ新地町の厳島神社に向かいました。
国道191号線「厳島神社前交差点」からすぐの場所です。
当社には慶應二年(1866)四境戦争(第二次長州征伐)の際、高杉晋作が小倉城から戦利品として持ち帰った大太鼓が奉納されています。太鼓は直径1.1メートル、重量390キロで、小倉城では櫓に吊るされ近隣に時刻を報せる役目を果たしていたものです。
つづいて海岸近くの伊崎町の高台に鎮座されている「厳島神社」です。
当社は境内社の「鈴ケ森稲荷神社」が下の道路からは目立ちます。社殿も同じ規模で造られています。
つぎはJR下関駅近くの山口銀行本店前の高台に鎮座されている「大歳神社」
『当社は、下関市竹崎町に鎮座しており、木花咲耶姫神、大歳神をお祀りし、寿永の昔、長門に平氏追討の任を受けた源義経は、壇之浦の合戦に望んで己が武運の守護と頼む富士浅間の大神、即ち木花咲耶姫神の神助を更に祈請して敵の陣小戸を隔て、呎尺の間にある有明山に至って、小松を植えかがりびわ焚き、七日七夜の斎戒を修めて必勝の祈願を篭め、桑の木を用いて弓を作り神前に捧げしものを以て、対岸の彦島を居城とする平家の陣地に開戦の矢文を射込んだ。
平家統師知盛これに驚き壇之浦に軍船を進め、源平興亡をかけた合戦の火蓋は切られ義経に戦勝をもたらしたと伝える。
これ即ち文治二年四月にて有明山麓の地に神祠を祀ったのが大歳神社の起源と言われている。
古くは、西北に離れてあったが、昭和14年関門海底トンネル工事のため境内地を線路敷に接収され現在地に遷座したのである。
以上』
(平成祭データ)
とあるように源氏にまつわる社です。
桜山神社から折り返し同じ新地町の厳島神社に向かいました。
国道191号線「厳島神社前交差点」からすぐの場所です。
当社には慶應二年(1866)四境戦争(第二次長州征伐)の際、高杉晋作が小倉城から戦利品として持ち帰った大太鼓が奉納されています。太鼓は直径1.1メートル、重量390キロで、小倉城では櫓に吊るされ近隣に時刻を報せる役目を果たしていたものです。
つづいて海岸近くの伊崎町の高台に鎮座されている「厳島神社」です。
当社は境内社の「鈴ケ森稲荷神社」が下の道路からは目立ちます。社殿も同じ規模で造られています。
つぎはJR下関駅近くの山口銀行本店前の高台に鎮座されている「大歳神社」
『当社は、下関市竹崎町に鎮座しており、木花咲耶姫神、大歳神をお祀りし、寿永の昔、長門に平氏追討の任を受けた源義経は、壇之浦の合戦に望んで己が武運の守護と頼む富士浅間の大神、即ち木花咲耶姫神の神助を更に祈請して敵の陣小戸を隔て、呎尺の間にある有明山に至って、小松を植えかがりびわ焚き、七日七夜の斎戒を修めて必勝の祈願を篭め、桑の木を用いて弓を作り神前に捧げしものを以て、対岸の彦島を居城とする平家の陣地に開戦の矢文を射込んだ。
平家統師知盛これに驚き壇之浦に軍船を進め、源平興亡をかけた合戦の火蓋は切られ義経に戦勝をもたらしたと伝える。
これ即ち文治二年四月にて有明山麓の地に神祠を祀ったのが大歳神社の起源と言われている。
古くは、西北に離れてあったが、昭和14年関門海底トンネル工事のため境内地を線路敷に接収され現在地に遷座したのである。
以上』
(平成祭データ)
とあるように源氏にまつわる社です。
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