蛭児神社(鹿児島県霧島市)を掲載しました。
蛭児神社(ひるこじんじゃ)
<通称>二宮大明神(にのみやだいみょうじん)
【鎮座地】〒899-5116 鹿児島県霧島市隼人町内 旧大隅国 桑原郡
【御祭神】蛭兒命
【例祭】 3月10日 例祭
【旧社格等】
【御由緒】
蛭児神社のいわれ
このお社は、遠く神代に創建されたものと伝えられていますが、現在の社域には、寛延三年(西暦一七五〇年)の遷宮御造営といわれます。
祭神は蛭児尊一座となっています。
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の御子蛭児尊は三歳になってもなお、脚がたたれませんので「あまのいわくすの船」に乗せておながしになられました。
その蛭児の尊が此処に漂着されました。そのいわくすの船から枝葉を生じて巨木に成長しました。
現在の楠の神木は享保十三年(西暦一七二八年)国分地頭樺山主計久祢?が、いわくすのあとに植えついだものです。
この附近一帯は奈毛木(なげき)の森といわれ大隈の国の景色の良い場所として古くから歌によまれています。
古のなげきのもりの名もつらし
わがねぎごとと神つみづがき (夫木、後鳥羽天皇)
よのつねの秋のものかはわびびとの
なげきの森のみやつふかさは (名寄、二? 親王)
神さぶるなげきの森のほととぎす
ひくしめなわも なくやこし (歌枕 久我太政大臣通光)
あわれともおもいもやしるわが恋を
なげきのもりの 神にいのらむ (六百番 歌合権太夫)
春は花秋はもみじのあかなくに
ちるやなげきのもりといふらん (三十五卋 遊行)
山かぜをなげきのもりの落葉かな (細川幽斎)
神域にあった神代古跡から出たと思われる、さんけいきんしゅうもんたい花文鏡(唐式鏡でで今から千二、三百年のもの)が社宝として保存してあります。
蛭児尊が漂流されたときつかわれた「水棹」(みさお)が活着したと伝えられるめずらしい「金筋竹」も境内にあります。
漁業 航海 商売の神として信仰されています。
(社頭案内板より、原文のまま、一部判読不明箇所有)
鹿児島県霧島市(旧姶良郡隼人町)にあります。鹿児島神宮から水路沿いに北東に数100m、日当山温泉入り口手前の道路沿いに朱の神橋です。
当社は天の岩楠船に乗せられて流された、伊邪那岐・伊邪那美の二神の最初の御子蛭児尊が漂着した場所と伝えられています。
境内は漂着した天の岩楠船が根付いて成長した楠が鬱蒼と繁る森となり、奈毛木(なげき)の森と云われています。
御神木の楠?神橋を渡ると目前にあります。
直前の案内には「現在の楠の神木は享保13年(西暦1728年)、いわくすのあとに植えついだものです。」とあり、神代の楠は水路を挟んだ対面の「西郷どんの宿」の前にあり、この楠が御神木かは疑問です。
参道の鳥居鳥居をくぐると左右に瓦葺の小さな門守社があります。
拝殿
現在の社殿は昭和5年改築されたもので、かなり老朽化が進んでいます。
現在、平成23年3月31日完成を目指して再建事業が進められています。
本殿
神代の創建と伝えられ、現在の社域には、寛延三年(西暦1750年)の遷宮御造営といわれています。
,御祭神は蛭児尊一座といたってシンプルです。屋根には雑草がかなり生えて痛々しく感じます。
本殿裏側にまわるとくもの巣が張ってありました。
社殿全景
境内から参道
西郷どんの宿
道路を挟んで直前にあります。
戊辰戦争の後、鹿児島に帰った西郷隆盛は壮士数人と山でイノシシなどを追って狩を楽しんだそうです。
その時逗留した農家の表座敷を「西郷どんの宿」として当地に再現しています。
縁側に昔なつかしい脱穀機が置いてありました。
神代の楠西郷どんの宿の右奥にあります。
神代の楠
古事記・日本書紀の神話にイザナギノミコト(男神)イザナミノミコト(女神)が結婚する話があります。
二人の最初の子供は、三歳になっても足腰が立たない蛭(ひる)のような子どもであったため、両親はその子をヒルコノミコトと名付け、天の岩楠船に乗せて、天上から流し捨てた。天の岩楠船は、現在の場所に流れ着き、根付いてこのあたりのクスの森(ナゲキノ森)となったと言い伝えられています。
この岩楠船から生まれたという楠の枯れた木株の絵図が江戸時代の三国名勝図会(天保十四年一八四三)に載っています。ここの枯れた木株は、絵図の木株にあたると思われます。
この木株は「神代の楠」と呼ばれ尊ばれてきました。
(案内板より)
蛭児神社(ひるこじんじゃ)
<通称>二宮大明神(にのみやだいみょうじん)
【鎮座地】〒899-5116 鹿児島県霧島市隼人町内 旧大隅国 桑原郡
【御祭神】蛭兒命
【例祭】 3月10日 例祭
【旧社格等】
【御由緒】
蛭児神社のいわれ
このお社は、遠く神代に創建されたものと伝えられていますが、現在の社域には、寛延三年(西暦一七五〇年)の遷宮御造営といわれます。
祭神は蛭児尊一座となっています。
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の御子蛭児尊は三歳になってもなお、脚がたたれませんので「あまのいわくすの船」に乗せておながしになられました。
その蛭児の尊が此処に漂着されました。そのいわくすの船から枝葉を生じて巨木に成長しました。
現在の楠の神木は享保十三年(西暦一七二八年)国分地頭樺山主計久祢?が、いわくすのあとに植えついだものです。
この附近一帯は奈毛木(なげき)の森といわれ大隈の国の景色の良い場所として古くから歌によまれています。
古のなげきのもりの名もつらし
わがねぎごとと神つみづがき (夫木、後鳥羽天皇)
よのつねの秋のものかはわびびとの
なげきの森のみやつふかさは (名寄、二? 親王)
神さぶるなげきの森のほととぎす
ひくしめなわも なくやこし (歌枕 久我太政大臣通光)
あわれともおもいもやしるわが恋を
なげきのもりの 神にいのらむ (六百番 歌合権太夫)
春は花秋はもみじのあかなくに
ちるやなげきのもりといふらん (三十五卋 遊行)
山かぜをなげきのもりの落葉かな (細川幽斎)
神域にあった神代古跡から出たと思われる、さんけいきんしゅうもんたい花文鏡(唐式鏡でで今から千二、三百年のもの)が社宝として保存してあります。
蛭児尊が漂流されたときつかわれた「水棹」(みさお)が活着したと伝えられるめずらしい「金筋竹」も境内にあります。
漁業 航海 商売の神として信仰されています。
(社頭案内板より、原文のまま、一部判読不明箇所有)
鹿児島県霧島市(旧姶良郡隼人町)にあります。鹿児島神宮から水路沿いに北東に数100m、日当山温泉入り口手前の道路沿いに朱の神橋です。
当社は天の岩楠船に乗せられて流された、伊邪那岐・伊邪那美の二神の最初の御子蛭児尊が漂着した場所と伝えられています。
境内は漂着した天の岩楠船が根付いて成長した楠が鬱蒼と繁る森となり、奈毛木(なげき)の森と云われています。
御神木の楠?神橋を渡ると目前にあります。
直前の案内には「現在の楠の神木は享保13年(西暦1728年)、いわくすのあとに植えついだものです。」とあり、神代の楠は水路を挟んだ対面の「西郷どんの宿」の前にあり、この楠が御神木かは疑問です。
参道の鳥居鳥居をくぐると左右に瓦葺の小さな門守社があります。
拝殿
現在の社殿は昭和5年改築されたもので、かなり老朽化が進んでいます。
現在、平成23年3月31日完成を目指して再建事業が進められています。
本殿
神代の創建と伝えられ、現在の社域には、寛延三年(西暦1750年)の遷宮御造営といわれています。
,御祭神は蛭児尊一座といたってシンプルです。屋根には雑草がかなり生えて痛々しく感じます。
本殿裏側にまわるとくもの巣が張ってありました。
社殿全景
境内から参道
西郷どんの宿
道路を挟んで直前にあります。
戊辰戦争の後、鹿児島に帰った西郷隆盛は壮士数人と山でイノシシなどを追って狩を楽しんだそうです。
その時逗留した農家の表座敷を「西郷どんの宿」として当地に再現しています。
縁側に昔なつかしい脱穀機が置いてありました。
神代の楠西郷どんの宿の右奥にあります。
神代の楠
古事記・日本書紀の神話にイザナギノミコト(男神)イザナミノミコト(女神)が結婚する話があります。
二人の最初の子供は、三歳になっても足腰が立たない蛭(ひる)のような子どもであったため、両親はその子をヒルコノミコトと名付け、天の岩楠船に乗せて、天上から流し捨てた。天の岩楠船は、現在の場所に流れ着き、根付いてこのあたりのクスの森(ナゲキノ森)となったと言い伝えられています。
この岩楠船から生まれたという楠の枯れた木株の絵図が江戸時代の三国名勝図会(天保十四年一八四三)に載っています。ここの枯れた木株は、絵図の木株にあたると思われます。
この木株は「神代の楠」と呼ばれ尊ばれてきました。
(案内板より)
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