11月に入り空は冬の様な雲になってきました。
クールビーズも終わり、今日からネクタイ着用、ネクタイ無は良いのですが10月末日までのクールビーズは、方やクールビーズ方や暖房!!!チョット違和感がありました。
菊谷先生の【今日の仏語】『金剛心』続きです。
明治の文豪、夏目漱石は親鸞聖人を評して「親鸞上人に初めから非常な思想が有り、
非常な力が有り、非常な強い根底の有る思想を持たなければ、あれ程の大改革は出来ない」と言っています。
漱石の蔵書には、1084ページに及ぶ『真宗聖典』があり、かなり読んだ形跡もあったそうです。
肉食妻帯を断行された親鸞聖人の勇気の源はどこにあったのか、漱石も知りたかったのかもしれませんね。
僧侶が肉を食べ、結婚をするそれは仏教界でも世間でも大問題でした。
「破戒僧だ。」
「色坊主だ。」
「堕落坊主だ。」
親鸞聖人は一斉に非難嘲笑の的となられました。
私たちの場合、罵倒されたり、嘲笑されたり、無視されたりすると、
平常ではおれなくなってしまいます。
ネット上の、匿名で人を揶揄するような、一部の心無い人の言葉でも
気分はよくないものです。
家庭でも職場でも 自分の意見に誰も耳を傾けようとしない、無視する、スルーする、ダメ出しする、嘲る、を繰り返されると、何も言えなくなってしまいます。
すっかり自信を失い、殻に閉じこもってしまいます。
それでも批判者はほんの一部でどこかに居場所があり、理解者がいれば、まだ心は折れないのですが、四面楚歌、どこへ行っても、誰と会っても非難され、嘲笑されれば
人は生きていくことができなくなってしまいます。
だから切実に理解者を求めるようになる、のが世の常です。
賛同者を多く集めるのが元気のもとになってきます。
しかし多くの人が賛同すればよし、というものではないはずです。
問題は多くの人が賛成するその主張が真実といえるのか、ということでしょう。
人が人の後をついていき、それが二人、三人となり、やがては大勢の人がついていくようになっていく。
たくさんの人の後ついていけば間違いなかろう、と安心するのか、大衆はそのように動いていきます。
民主主義は多数決ですが、多数が必ずしも正しいとは言えないのが現実です。
先頭に立つ人が間違えた場合、
『一盲、衆盲を引きいて以て火坑に堕つる』(経典)
となります。
これは民主主義の危ういところです。
「衆愚」といいますが、濁流のように迷った方向に流れていってしまう危険性があります。
多くの人が賛同するとますます力を得て、勢いがよくなり、一気に流れていきます。
それを単身止める信念はとても金剛心でなければできません。
『金剛心』のことを仏教の本には
『如何なる人きたりて言い妨ぐとも少しも変わらざる心を金剛心という』
とあります。
如何なる人、の中には、どれだけ大勢の人、という意味があります。
どんな大多数に囲まれて、お前は間違いだ、と否定されても
微動だにもしない心が金剛心なのです。
「唯仏恩の深きことを念じて、人倫の嘲を恥じず」(教行信証)
肉食妻帯の破戒僧と非難嘲笑の的となられ、
やがては越後に流刑になられることになる親鸞聖人でしたが、
「ただただ深き仏恩が知らされ、世間の非難中傷など、気にしてはおれない」
と進まれたお姿に金剛心を見ることができます。
クールビーズも終わり、今日からネクタイ着用、ネクタイ無は良いのですが10月末日までのクールビーズは、方やクールビーズ方や暖房!!!チョット違和感がありました。
菊谷先生の【今日の仏語】『金剛心』続きです。
明治の文豪、夏目漱石は親鸞聖人を評して「親鸞上人に初めから非常な思想が有り、
非常な力が有り、非常な強い根底の有る思想を持たなければ、あれ程の大改革は出来ない」と言っています。
漱石の蔵書には、1084ページに及ぶ『真宗聖典』があり、かなり読んだ形跡もあったそうです。
肉食妻帯を断行された親鸞聖人の勇気の源はどこにあったのか、漱石も知りたかったのかもしれませんね。
僧侶が肉を食べ、結婚をするそれは仏教界でも世間でも大問題でした。
「破戒僧だ。」
「色坊主だ。」
「堕落坊主だ。」
親鸞聖人は一斉に非難嘲笑の的となられました。
私たちの場合、罵倒されたり、嘲笑されたり、無視されたりすると、
平常ではおれなくなってしまいます。
ネット上の、匿名で人を揶揄するような、一部の心無い人の言葉でも
気分はよくないものです。
家庭でも職場でも 自分の意見に誰も耳を傾けようとしない、無視する、スルーする、ダメ出しする、嘲る、を繰り返されると、何も言えなくなってしまいます。
すっかり自信を失い、殻に閉じこもってしまいます。
それでも批判者はほんの一部でどこかに居場所があり、理解者がいれば、まだ心は折れないのですが、四面楚歌、どこへ行っても、誰と会っても非難され、嘲笑されれば
人は生きていくことができなくなってしまいます。
だから切実に理解者を求めるようになる、のが世の常です。
賛同者を多く集めるのが元気のもとになってきます。
しかし多くの人が賛同すればよし、というものではないはずです。
問題は多くの人が賛成するその主張が真実といえるのか、ということでしょう。
人が人の後をついていき、それが二人、三人となり、やがては大勢の人がついていくようになっていく。
たくさんの人の後ついていけば間違いなかろう、と安心するのか、大衆はそのように動いていきます。
民主主義は多数決ですが、多数が必ずしも正しいとは言えないのが現実です。
先頭に立つ人が間違えた場合、
『一盲、衆盲を引きいて以て火坑に堕つる』(経典)
となります。
これは民主主義の危ういところです。
「衆愚」といいますが、濁流のように迷った方向に流れていってしまう危険性があります。
多くの人が賛同するとますます力を得て、勢いがよくなり、一気に流れていきます。
それを単身止める信念はとても金剛心でなければできません。
『金剛心』のことを仏教の本には
『如何なる人きたりて言い妨ぐとも少しも変わらざる心を金剛心という』
とあります。
如何なる人、の中には、どれだけ大勢の人、という意味があります。
どんな大多数に囲まれて、お前は間違いだ、と否定されても
微動だにもしない心が金剛心なのです。
「唯仏恩の深きことを念じて、人倫の嘲を恥じず」(教行信証)
肉食妻帯の破戒僧と非難嘲笑の的となられ、
やがては越後に流刑になられることになる親鸞聖人でしたが、
「ただただ深き仏恩が知らされ、世間の非難中傷など、気にしてはおれない」
と進まれたお姿に金剛心を見ることができます。
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