のすたる爺や

文明の果てなる地からのメッセージ

2011年01月10日 | 日記・エッセイ・コラム

 1月8日の朝、近所に住む従姉妹の息子(23歳)が交通事故にあいました。この息子は実家を離れ菓子職人をしています。アパートから5分の職場にバイクで向かっている途中、自動車に激突しました。

 私のところにその情報が入ったのが昨日の午後で、「死んだ」と言う知らせでした。あまりの突然だったので、すぐには信じられず、親戚に電話をして「どうなったの?」と聞くと、内臓が破裂して脳が半分だめになっているので、長くは持たないだろう。とまだ死んだという状態ではなさそうでした。情報が錯綜するので、従姉妹の家に足を運びました。家には叔母夫婦が残っていましたが、「死にそうなんだよ。もうだめかもしれない。」

 どちらにしても病院に足を運んだほうが良いと、今日、前橋の日赤病院に行ってきました。

 集中治療室の家族待合室でいとこ夫婦に会い、事態の説明を受けました。事故直後は自分の名前をいえたり、痛がっていたのでたいした事なさそうに見えたものの救急搬送された病院で状況の危ないことがわかり、救急ヘリで日赤病院に運ばれたそうです。日赤病院で腹部や脳の手術を受け、2度ほど危篤状態になったものの、今は自発呼吸して安定した状態でいるそうです。

 折れた骨がすい臓に突き刺さり、肺が片方つぶれ、脳の右半分が真っ黒になっているそうで、脳が完全にだめになっても人工心臓で生かすことができるがどうするか?と聞かれ、その時は「死」を受け入れますと答えたそうです。非常な決断だと思いますが、英断だと思いました。

 親族なので、集中治療室に入ることができました。この息子の恋人がつききりで看病していました。患者は体温を35.8度に設定されてパイプだらけでベッドに横たわっていました。昨日は血圧が下がって危ない状態だったようですが、今日は血圧も正常で、呼吸も安定しているようです。脳の腫れが左側にも来ているので、これが気がかりです。

 見舞いに行ったものの集中治療室の患者を見るのは忍びなかったのですが、この先起きることへの腹が固まった思いもしました。

 正月に彼が帰省してきたとき、「今年は厄年じゃないか?ドンド焼きにはミカン持って顔出せ。」などと話をしましたが、厄年でいやなことを思い出しました。彼が生まれる以前のことですが、彼の家の隣に東京でカメラマンをしていた青年がおり、オートバイで転倒してなくなりました。翌年は私の幼馴染の青年が自動車で石垣に激突して亡くなりました。4-5年、数え25歳の厄年で事故で亡くなる事件が続き、私達の年代になったとき「誰が死ぬのか?」と密かに話題になりましたが、当時ヒマラヤ目指して山登りに夢中になっていた私など最有力候補だったようです。それでも、誰も死なずにすんだばかりか、いまだに一人の欠員もなく、その後の厄年も無難に切り抜け、同級生一同元気に恵まれています。

 たぶん、体質などが変わることで「厄年」があるのでしょうが、従姉妹の子供も「厄年」だったんだなと考えてしまいました。4-5日待てば厄落としのどんど焼きだったのに。

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