のすたる爺や

文明の果てなる地からのメッセージ

言葉

2014年01月23日 | 日記・エッセイ・コラム

 こんな山奥で、社会的にはなんの影響力も持たないおじさんたちが論議しても意味はないのですが、茶飲み話にこの国のあり方などを話し合いました。

 

 
 もうすぐ70代に突入するおっさんは幕末から明治維新の頃の日本が好きな人で、あの維新の時代の変化を受け入れて順応した日本人の志と能力の高さに感服しているそうです。

 

 70年の人生、何もなせずに過ごしたことを悔いていると当人は謙虚に申しておりますが、選挙違反と酔っぱらい運転の事故という常人には成し得ない二つの偉業を達成しているだけでもたいしたものです。

 人生終焉を迎えるに当たってもうひと花咲かせたいというので、旬はすぎたけど、菅直人でも刺し殺してみてはいかがでしょうか?とお勧めしました。官房機密費で家を新しくしたみたいで、以前住んでいた武蔵野の家は引き払ったみたいです。

 

 
 暗殺する側より、暗殺される側の方が人物が大きいのは世の常で、暗殺者の名前のほうが知られているのは韓国限定の安重根くらいのものです。安は今の北朝鮮の出身だと思いますが、暗殺者しか世界に誇れる人物がいない民族と言うのも情けない話です。

 じいさんが菅直人の暗殺に成功した暁には納屋を改造して「記念館」を作ってやると話は進み、愛用の軽トラや鉈なんぞを展示して、「それじゃぁ今の納屋と変わらねえじゃねぇか!」と大笑いになりました。

 できれば暗殺されるような人物になりたいねと、話は餃子の王将の社長など飛び越して坂本竜馬の暗殺事件に移りました。

 

 「坂本竜馬と一緒に殺された上岡龍太郎って奴も大したもんだったんだよな。」
 あれ?なんかおかしいぞ?微妙に違うような気がするが・・・名前が思い出せない。言ってしまった当人も”何か違うぞ”と気がついたのか、微妙な無言の「間」が生じましたが、高知県に行ったときに室戸岬の銅像を見てきましたよ。多少の違いはあっても言わんとしているところの気持ちは分かるので、気がつかないふりをして話を路線に戻しました。

 

 このとき、私の脳裏に浮かんだ中岡慎太郎の銅像は、先頃亡くなったやしきたかじんさんの顔になっていました。

 
 
 かく言うこちらも中岡慎太郎の名前が思い出せないまま釈然としない一日を過ごしました。某国営放送の大河ドラマでは上川隆也がこの役を演じており、上岡龍太郎と似たような名前だったよな、とおぼろげな印象。つなぎ合わせるとやっぱ上岡龍太郎で良かったんだっけ?で、銅像のことを思い出すとメガネをかけたやしきたかじんの顔が思い浮かぶ。

 

 家に戻るなり「竜馬が行く」を書棚から引っ張り出し、あぁ、中岡慎太郎だったんだ。と憑き物が落ちたようにさわやかな気持ちになりました。

 

 関東に住んでいると、やしきたかじんにはあまり馴染みがないのですが、地元のローカル局で「胸いっぱい」というバラエティーを放送していてよく見ていました。

 

 関西に限ったことではないのですが、地元の言葉で喋るとかなり言い過ぎたような話でも許されるようで興味深いです。共通の言葉にするときには言葉はもちろん考え方もオブラートにくるまないと舌禍事件になりかねません。

 

 何か関東の番組でいらんこと言うて番組降ろされて、「もう東京のテレビには出ぇへん」言うて大阪にこもってもうたそうやねんけど、あれやねん、方言で言うたら角はたたへんけど、標準語で言うたら問題になることって結構おますねん。

 

 今、副総理兼財務大臣ばやっとお麻生太郎さんば知っとうや。失言ば多か人たいとマスコミは麻生さんば叩きようけど、博多弁やったらなんちゃ問題なか発言ばい。そいを、こげん小さかことば鬼の首ば取ったよう騒ぎよるけん、言うんやったら標準語ば使わんで博多弁で言うたらよかですばい。

 

 かようなわけでございまして、慇懃かつ美しい言葉で書かれているこのブログでございますが、心は地方の方言で物事を考えておりますので、「言いすぎじゃないの?」と思われることもございましょうが、悪意なんぞこれっぽっちもございません。基本、地方の田舎者の頭と感性でございます。

 かようなところで、本日はこのくらいにしておいた方が無難でございましょう。

 ごきげんよう。良いお年を。

コメント
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