雑誌「暮しの手帖」を創刊し、生涯にわたり編集長を務めた故花森安治さんが書いた文章を集めた「灯をともす言葉」(河出文庫)を読んで、何度もうなずかされた。一部を引用すると…。
「<国をまもる>とか<国益>とかいいます、そのときの<国>という言葉には、ぼくらの暮しやいのちはふくまれていないはずです。」
「昨日そうしたから今日もそうする。ひとがそうしているから、じぶんもそうする。それはらくかもしれないが、それでは生きてゆく甲斐がないのである。」
「どんなに浅はかで、あぶなげに見えても、若いひとたちを信じていてほしい。たとえ、一時は行きすぎのように見えても、世の中は、行きすぎるぐらいで、全体から見て、やっといくらか変ってゆくのではないか、行きすぎを大目に見るだけの心の広さ、それを、時代の新しく変るときは、古いひとたちに、持っていてほしいと思う。」
「企業よ そんなにゼニをもうけてどうしようというのだ なんのために 生きているのだ」
「どこの国だって、金がありあまって、捨てたいぐらいで、それで仕方なしに武器でも持とうか、などという国は一つもない。それどころか、国民のひとりひとりが、つらいおもいをして、やっとかせいだ金を、むりやりに出させて、それで武器を作ったり買ったり、兵隊を養ったり、それを使って戦争をして、人を殺したり、町を廃墟にしたり、暮しをぶちこわしたりしている。こんな、バカげたことって、あるものではないのである。」
「とにかく、あんな太古原始の時代から、人類は武器をもちつづけてきて、ついに核爆弾まで、来てしまったのである。まったく、バカもいいところだ。何が万物の霊長だ。」
「地球の上の、すべての国、すべての民族、すべての人間が一人残らず亡びてしまうまで、ついに武器を捨てることができないなんて、ぼくたち、この人間とは、そんなにまで愚かなものだとはおもえない。ぼくは、人間を信じている。ばくは、人間に絶望しない。」
「人間の歴史はじまって以来、世界中どこの国もやったことのないこと、やれなかったことを、いま、日本はやってのけている。日本国憲法第九条。日本国民は……武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。なんという、すがすがしさだろう。ぼくは、じぶんの国が、こんなすばらしい憲法をもっていることを、誇りにしている。あんなものは、押しつけられたものだ、画にかいた餅だ、単なる理想だ、という人がいる。だれが草案を作ったって、よければ、それでいいではないか。理想なら、全力をあげて、これを形にしようではないか。全世界に向って、武器を捨てよう、ということができるのは、日本だけである。日本はそれをいう権利がある。日本には、それをいわなければならぬ義務がある。」
「戦争は恐ろしい。なんでもない人たちを巻きこんで、末は死までに追い込んでしまう。戦争を反対しなくてはいけない。君はそのことがわかるか……。」
1911年に生まれ1978年に亡くなった花森さん。その言葉は今の私に響く。
鹿児島本港南埠頭から、ドルフィンポート跡地方向を見る。