私は災害復興住宅で高校生までを過ごしました。
和歌山県は昭和28年7月大水害が起こり、壊滅的な被害を受けました。
私の生家も軒下まで水に浸かり、祖父母や父や叔母は屋根に上って助かりました。
流れていく屋根が橋脚にぶつかり、乗っている人があっという間に水に呑まれていくのが見えたそうです。
家は残ったのですが、仮設住宅や安く買えたので父は母屋のそばにそれを建ててもらいました。
そしてかなりたってから母と結婚し、そこで私と弟たちが生まれました。
母屋が再建できトイレや台所はそちらを使っていたので、本来それらのスペースであったところはただの板張りになっていました。
トイレのあるはずだった二畳ほどの板間には母の足踏み式のミシンが置かれ、家族の服は母のお手製でした。
生まれ育てばそんなちょっと奇妙な家も当たり前。
大きくなって何かの折に災害復興住宅であったと聞き、なるほどと納得しました。
家族はその離れを「コーエン」と呼んでいたように記憶しているのですが、それはたぶん「公営住宅」のことだったと思います。
安っぽいカーテンのかかったちょっとハイカラなような作りのその家はまさに私生まれ育った家。
私の原風景です。
昔の写真が残っているはずなのですが、残念ながら見つかりません。
今度の震災が起こるまでは、南海地震が来た時に住宅を新築するために地震保険を掛けていましたが、やめることにしました。
幸いにして次の南海地震をオットとともに生き残ったら、仮設住宅を終の棲家にするのもいいじゃないと思います。
墓標には「仮設に生まれ、仮設に死す。」なんちゃって。
父と母は60年近い昔のことを思い出し、「あの時はみんなに助けてもらったから、今度はちょっとぐらい送らなあかん。」とがんばって義援金を送り、息子や孫が東北に救援に行くことを喜んでいます。
その時の懐かしい写真が出てきたらまたアップします。
和歌山県は昭和28年7月大水害が起こり、壊滅的な被害を受けました。
私の生家も軒下まで水に浸かり、祖父母や父や叔母は屋根に上って助かりました。
流れていく屋根が橋脚にぶつかり、乗っている人があっという間に水に呑まれていくのが見えたそうです。
家は残ったのですが、仮設住宅や安く買えたので父は母屋のそばにそれを建ててもらいました。
そしてかなりたってから母と結婚し、そこで私と弟たちが生まれました。
母屋が再建できトイレや台所はそちらを使っていたので、本来それらのスペースであったところはただの板張りになっていました。
トイレのあるはずだった二畳ほどの板間には母の足踏み式のミシンが置かれ、家族の服は母のお手製でした。
生まれ育てばそんなちょっと奇妙な家も当たり前。
大きくなって何かの折に災害復興住宅であったと聞き、なるほどと納得しました。
家族はその離れを「コーエン」と呼んでいたように記憶しているのですが、それはたぶん「公営住宅」のことだったと思います。
安っぽいカーテンのかかったちょっとハイカラなような作りのその家はまさに私生まれ育った家。
私の原風景です。
昔の写真が残っているはずなのですが、残念ながら見つかりません。
今度の震災が起こるまでは、南海地震が来た時に住宅を新築するために地震保険を掛けていましたが、やめることにしました。
幸いにして次の南海地震をオットとともに生き残ったら、仮設住宅を終の棲家にするのもいいじゃないと思います。
墓標には「仮設に生まれ、仮設に死す。」なんちゃって。
父と母は60年近い昔のことを思い出し、「あの時はみんなに助けてもらったから、今度はちょっとぐらい送らなあかん。」とがんばって義援金を送り、息子や孫が東北に救援に行くことを喜んでいます。
その時の懐かしい写真が出てきたらまたアップします。