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扶余の屈辱、定林寺・・・韓国への旅(3)

2015年08月30日 | 韓国



8月末の快晴の朝、扶蘇山城から扶余の街を眺めた後、
再び街を目指して歩く。


司馬遼太郎は、『韓のくに紀行』で「陽の下でみた扶余は、田園にすぎなかった」と書いてある。

そして、続けて次のように記している。

「陽のなかの扶余の地上には百済人が遺した文物はほとんどなく、むしろ陽が落ち、闇がこの山河をつつんでからにわかに古(いにしえ)の扶余が立ち現れるようにおもわれる。夜は、扶余の亡魂たちのひしめく時間であるようだった」

しかし、この快晴の空の下では、亡魂達がいる場所がない。

そう思いつつ、百済人が遺した数少ない遺跡、定林寺にある石塔を訪ねた。

悲劇を今に伝える定林寺の石塔


定林寺は、百済の都の中心に位置する大寺だった。今では塀が復元され、その中に入ると、よく手入れされた芝生が広がる広場になっている。ちょうどこんな感じ。




この芝生の土地は、唐と新羅により百済が滅ぼされるまで、こんな伽藍が並ぶ
大きい立派なお寺であった。



このジオラマは、隣接している博物館にあった。

百済は、唐と新羅連合軍の猛攻で滅ぼされる。
その時、この王都扶余は焼き討ちにされた。なにもかも焼き払われた。

しかし、定林寺の石塔が残った。



百済滅亡時に焼打ちの痕跡であろう、石塔は黒くくすんでいる。果たしてこれが1300年前の大火の時につけられたのか、そもそも灰は1300年も付着し続けるのか、分からない。しかし、灰はともかく、焼打ちにあった時に刻まれた文字は、明らかに1300年を超えて残っていた。

「唐平百済塔」

なぜ唐は、この石塔を叩き壊さずに残したのか。
司馬遼太郎の言葉を借りると、「おれが百済をほろぼした」という意味の文章を唐の大将軍蘇定方が刻み込んだからである。この塔が「平済塔」(百済を平らげた塔)、あるいは「唐平百済塔」と呼ばれるゆえんだ。


近づいて例の碑文を探す。お、あった。




よく読めないが、じっと見ると、「大唐平百済…」との漢字が認識できる。
驚いたのは「百済」の文字。「百」と「済」の間で改行されていた。

百済にとってこれほどの屈辱はない。

戦勝記念碑とされたこの石塔。

驚きなのは、この塔が今まで残っていたことだ。司馬遼太郎は次のように考えた。

「自国が征服されたという意味の塔を千数百年も大事に保存してきたというのは、わが朝鮮人の人の好さを示す証拠かもしれない。破壊するか、碑文を欠き落としてしまうというほどの乱暴者が、千数百年ものあいだに一人でも出てよさそうなものだと思うが、それがついに出なかったのは、その後の朝鮮史における中国の重味と中国への遠慮を物語る機微といえるかもしれない。朝鮮という、この地理条件の中で国を保つということは、この塔ひとつをみてもわかるように、それ自体がつねに苛烈で悲痛なのである」

本当に、なぜこの屈辱の「被征服碑」を残しておいたのか。百済人の末裔はいなかったのであろうか。

おそらく、この塔の刻印を屈辱だと感じることのできる百済貴族たちは、
百済滅亡時に命を失ったか、扶余の地を去って遠く倭の国に逃れたからであろう。

では扶余に残された人たちはどうだったのか。
勝手な想像だが、あまり百済に忠誠心はなかったのかもしれない。
なぜなら、百済の王室や貴族は少数民族であったからである。彼ら扶余族は、高句麗と同じツングース族であり、北方からやってきてこの南韓の地を支配した。もともとの住民にっては異民族に支配された人たちにとり、百済滅亡はさほど衝撃的な事件ではなかったのかもしれない。あくまで想像である。

もしこの石塔を恨んだ民族がいたとすれば、それは我が倭人ではなかろうか。

なにしろ、百済復興を夢見る勢力と手を結び、軍隊を送り、「白村江の戦い」を戦った倭人である。百済の代わりにこの石塔をぶっ潰したいと思ったはずである。百済滅亡後、この石塔を見た日本人はたくさんいたであろう。


その塔の前に立ち、こんなことを考えた。
昨夜見たときは、百済貴族の亡霊が集まる場所に見えたのだが、このような青空の下では亡霊もどこかに行ってしまい、まったく「何か」の気配が感じない。



定林寺の石仏



定林寺には、もうひとつ、見るべき遺産がある。
それは、石塔を眺める位置に立っている石仏だ。



私がこの石仏が鎮座するお堂に入った時、
ちょうど、日本人の団体観光客と遭遇した。
10人程度の小グループであった。
はるばるとこんな田舎まで訪ねる日本人がいることが嬉しい。

日本人は百済を忘れてはいない。

彼らは、この石仏を見学した。

すると韓国人のガイドが、「折角ですから韓国式でお祈りをしてください」といって、
胸の前で合唱し、三度頭を下げる儀礼をやって見せた。

しかし日本人の反応はいまいちだった。

この姿を見て「あ、そうか」と思った。

この百済の石仏は、日本人にとって「遺跡」ではあっても、決して「信仰や崇拝」の対象ではないのだ。ことばは悪いが、仏としてすでに寿命を終えているのだ。

私が美術館や博物館で仏像を見るのが嫌いな理由がここにある。

仏像は、お寺で信仰の対象として崇められて、はじめて魂の入った仏様だ。

それに対して「仏像」は、美術鑑賞の対象ではあっても信仰の対象ではない。「仏様」ではなくなっている。私は仏様としてしか仏像を見ることができない。したがって、陳列台に並べられた展示物としての仏像を見ると非常に心苦しいのだ。

奈良の明日香村にある飛鳥大仏がなぜ素晴らしいのか。
それは、日本最古の「仏像」であるからではない。日本最古の「仏様」として、長年の風雪に耐え、脈々とその法灯を受け継ぎ、現在人の信仰を集めているからである。
飛鳥人も我々も、飛鳥大仏の前で同じように手を合わせ、心をひとつにするのだ。だから尊い。

「定林寺の石仏に手を合わせてください」とお願いした韓国人ガイドは、この石仏を、すでに滅びた国の遺物として、博物館の棚に並べた陳列品のように扱うのではなく、「仏様」として見てほしいと訴えているのである。彼女はひょっとしたら百済人の末裔なのかもしれない。


今、現代人の信仰を集めている百済仏はどれほどあるであろうか。隣の扶余国立博物館には、出土した多くの百済仏が展示されている。しかしあくまで展示品であり、信仰の対象ではない。もし、百済仏で今も信仰の対象となる可能性があるとすれば、それは朝鮮半島の中で唯一この石仏だけだ。

この石仏に手を合わせる人がいる限り、百済人の信仰と百済の魂は存在しているのだ。
そうであるならば、1300年に百済復興に立ち上がった日本人こそ、この石仏を仏様として手を合わせたい。




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