【其角とはだれか】(『現代俳句』2019年・11月号)
『詩あきんど』に入会する前の、其角に対するわたくしのイメージは「酒好きで豪放磊落的な性格、しかも遊廓好きの洒落もの」というそれでした。
恐らくこのイメージが俳句界、また一般の其角好きに膾炙しているであろうと察しますが、まずは現代俳句協会が毎月会員に発行しています『現代俳句』に寄稿された、主宰の【其角とは誰か】(18~28p)には、そのイメージが醸成された<其角バナシ>から稿を進めております。
さてその小項目は
1はじめに 2「忠臣蔵外伝」の<其角バナシ> 3其角の見た赤穂事件
4虚栗(ミナシグリ)と蝕栗(ムシクイグリ)、そして最後に5無常観のラディカルな批判者 と、あります。
項目ごとにそれぞれ興味深い話に溢れていますが、この5がまとめの個所でもあり、其角の実像に迫るところでもありますので、ここに全文(5の前半は省略させていただきます)を掲げます。
無常観のラディカルな批判者
「さて国文学に於ける無常を系譜とした文学的伝統は、近くは日本浪漫派に繋がり、蛇笏賞作家の真鍋呉夫氏らがおられますが、いっぽう、無常観に与しないジャンルの文学的価値は、余り意識されて無いのではないでしょうか。
其角が『世に拾はぬみなし栗』で提起していたのは『古今和歌集』の『誹諧歌』を背景に持つ『栗ノ本衆』の系譜の文芸復興であり、俳諧の革新であったのです。その『みなし栗』は落葉に埋もれてしまった為に拾われずに残っていたのであって、実の無い栗ではないのです。それを其角は『俳諧の実』と云っていた節があります。
其角の本歌本説取の手法は、パロディーではあります。が、単なる言葉の裁ち入れではありません。尤もパロディーと云えども、何らかのオリジナリティがなければ、文学的価値はないでしょう。剽窃や単なる模倣で終わっては表現とは云えないのです。
其角の俳諧の実(まこと)とは、芭蕉の云う「実に惜むは連歌の実なり。虚におしむははいかいの実なり」「虚に居て実をおこなふべし。実に居て虚にあそぶ事かたし」を、本説取という「虚に惜しむ」手法によって為そうとしたのではないでしょうか。
その結果、其角は伝統的無常観のラディカルな批判者の位置に、期せずして立っていた訳です。
行水(ゆくみず)や何にとゞまるのりの味 其角
掲句は鴨長明『方丈記』の「行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」を本説取した句です。
世の無常を過ぎ去っていく「無常苦」とは見ず、浅草海苔の美味はこの川の流れのもたらす刻々の無常の発生が因だとの、肯定的意に反転したのです。
この発句「行水や」は、其角三十歳の作で、無常観批判が成功した句と云えるでしょう。
其角とは、国文学史上、無常を厭わず有りの侭に無常を受容し得た、稀有な詩魂であったと云うべきなのです。」
※尚、『詩あきんど』第38号(令和2年2月10日発行)にも、全文が
記事になっております。
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※典比古
いかがでしょうか。個人的には、今までの其角像に対して一石を投じたのではないかと思っています!
平成12年早々(「季」の会に入会前)、わたくしの父(平成18年、86歳〈大正9年生〉で死去)が「大山に着くついでに、其角の墓のある上行寺に寄って欲しい」と。そして車の中で、討ち入り前夜の大高源吾と其角の話を滔々と述べたことがあります。芝居好き、また講談好きでもあった父だったので、この有名な場面は、強く印象に残っていたのだと思われます。
まさかその18年後に、わたくしがこの上行寺において句会をしていることは想定外だったでしょう。今頃草葉の陰で微苦笑しているかも。
※2006年2月26日 江戸東京博物館其角三百回忌記念シンポジウム
※2016年4月15日号「伊勢原タウンニュース」(第11回晋翁忌記事)
※其角三百回忌記念集『平成 石となり』(平成二十年二月二十九日)
【企画】其角座継承會 【編・著者】二上貴夫 【制作・発行】夢工房
(詳しい内容はおいおい書かせていただきます)
次回は【型で俳句を】第三型を学ぶを記事にいたします。