【岡潔の思想】131「岡潔先生と語る 」(2)- 西洋文明の限界
「今の若い人は自己中心」(其の二)
(男性)司会者の方ね、今、先生から小学校時代の教育を誤ると社会に出てからでは直らんというお話、これはようわかっているんです。だから現在私が悩んでいることを申し上げたんですが、現実にどうしたらこういった若い人達をまとめて行けるんだろうか、どうしたら気持を伝えていけるんだろうか、そういう具体的な考え方をお聞きしたいんです。私の質問がまずいのかしれません、アドバイスして下さいよ。
(岡)失礼しました。
(司会)岡先生、前の質問の方からですね、小学校とか小さい頃の教育を誤ると、大きくなってからではどうしようもないと云うお話に対しまして・・・
(岡)やかましく云ってんだけど、教育の現状が非常に悪いということに、みな気がつかんのですね。どこを見るべきかを知らんのでしょう。
(司会)理屈は云うけれども非常に薄情だとか、自分のこともあまり出来ないとか、そういうのが現実でありましても、会社におきまして、集団として協調的にまとめてやっていかなきゃいけない訳ですが。それに対する応急対策と申しますか、どういうふうなやり方が効果があるか、と云うことに対して、先生どうでしょうか。
(岡)第一の心がいけないんですね。自己中心が一番いけないし、それから理屈もあまり云っちゃいけないし。第二の心の一番基本的な働きは、心と心とが合一することだと云いましたが、情緒としては懐かしさという情緒が一番基本になるので、第二の心が働かないと人が懐かしかったり、自然が懐かしかったりしないんですね。
そういう外界が総て懐かしいという、その基本的な働きが著しく弱くなってるんです。根本を放っておいて枝葉末節だけいろいろやったところで、とても直りゃしない。
ともかく欧米は間違っている。その真似はやめなきゃいけない。これを自覚することですな。アメリカの真似をするからいけない、ソビエットの真似だっていけません。大体そういう基本的な評価が間違ってては、どうしようもない。
(男性)そのどうしようもない状態におきまして、葦牙会(あしかびかい)の指導方針と云いますか、何か具体的なものは、どういうところにあるんでしょうか。
(岡)えー、今日本は間違ってる、欧米の真似はやめなきゃいけないって云っても、なかなか聞きませんね。なかなか聞かなくても、まあここへ来て下さる方は、聞いてやろうという稀な方ですから、まあ細々と話でもしていかなきゃ。
三島(由紀夫)さんのような思い切ったことをやっても、感銘は与えるでしょうが、それ以上の効果は無いでしょうしねえ。全く日本はどうなって行くのかと思いますが。
第二の心が神ですね、もし神々が働いてくれなかったら、日本は滅びるでしょう。肉体を持ってない第二の心を普通神と云ってるんですが、肉体を持ってる日本民族だけでは、ここまで悪くなったのを、元へ戻すことは到底出来ないでしょう。それくらい悪いです。いくら云ったって聞きゃしないし。
第二の心の世界っていうのは、それが欠けると、それを知ってる人の目には非常によくわかるんですが、それが欠けてる本人の目にはちっともわからんのですね。だからいくら云ったって聞きゃしない。それに対して良い方法って、思い当たりませんね。
いろいろ云うんだけど、今日もここで云ったことを、皆さんはどれだけ聞いて下さったのか、はなはだ疑わしい。余程日本人のうちではよくわかる方々でしょうが、それでもどれだけ聞いて下さったかははなはだ疑わしい。それくらいわかりにくいんです。
大学生の作文読んだら、まるで仕様ないなあ、ちっともわかってないなあと思うんだけど、それをみんな思ったらもっとやかましく云うでしょうが、思わんのでしょうね。
※典比古
この対談は昭和46年(1971年4月11日) のものです。三島由紀夫さんの事件は昭和45年(1970年11月25日)であり、まだその余韻が岡さんの脳裏にあり、このような発言になったものと思われます。また座談の最後では、再び三島さんの事に言及されています。
(司会)ああいうことは第二の心に目覚めなきゃ出来ないということですか。
(岡)第一の心じゃ出来ませんね。ああいう死に方は第一の心じゃ出来ませんね。
次回は【岡潔の思想】132「岡潔先生と語る 」(2)- 西洋文明の限界―
「キリスト教」を記事にいたします。
能楽講座「世阿弥に学ぶ」の一場面 於茅ケ崎「松籟庵(しょうらいあん)」
講師は喜多流の佐々木多門さん(中央) 撮影 典比古