上杉鷹山(ようざん)の半生を書いた「漆の実のみのる国」を読みました。
この本は、上杉藩の財政が破綻しかけていた時に、藩主になり、財政再建をした藩主のことや、社会情勢、経済状態、江戸幕府や他の大名や配下の人たちや商人たちのことなどが書かれていて、なんで上杉藩が莫大な借金ができてしまったかなどよく分かります。
飢饉や農民の生活などもくわしく書かれています。
鷹山の生涯や功績などは、ここを読んでください。くわしく載っています。
本では、改革途中で終わってしまうので、その後どうなったのか検索しました。
藩の借金は、膨大なため、一代では終わりませんでしたが、幕末には、完済します。その基礎を築いた藩主です。
米沢藩の状況は、今の日本と似たような経済状況です。
藩主が自ら、木綿を着、一汁一菜としました。
この物語の中で、借金を返すため、漆を百万本も植えようと計画します。
でも、植林がなかなか進みませんでした。
そのころ、漆の実でロウソクを作っていたので、実を採取するために、植えようとしたのです。
しかし、暖かい地方でとれる櫨の実でロウソクが作られるようになり、そちらのほうのロウの品質がよく、漆のロウは売れなくなり、植林は中止になります。
この本で漆から、ロウソクを作っていたのを初めて知りました。
愛媛の内子のロウソクのことも書かれています。
とても質のよい白いロウソクを作ったそうです。
内子町には、今でも、その頃の建物が残っています。
はぜのロウを作っていた建物や豪商の家が保存されています。
今でも、和ろうそくを作っていて、見学も出来ます。
はぜは私が育った村にも、自生していました。
春の遠足の翌日など、櫨の葉にかぶれて、顔が赤く腫れる子供がいたものです。
木の下を歩くだけでも、木の汁が落ちるのか、敏感な人はかぶれました。
だから、櫨の木の下を通る時は、足早に歩いたものです。
秋になると、赤く紅葉します。他には、紅葉する木などあまりないので、よく目立ちました。
秋に小さな実が沢山付きます。
葉は落ちてしまうので、枝に実が付いていると目立ちました。
昔は、この実でろうそくを作ったと聞き、実を取って皮を剥いてみたことがあります。
半透明の白いロウのような実でした。
はぜの木でも、こんなにきらわれるのです。
きっと、漆の木もあまり好かれてはいなかったのではないでしょうか?
漆もかぶれるようです。
この漆の木をもし、本当に百万本も植えたら大変なことになっていたのではと思います。
はぜの木と同じようにかぶれるのなら、その葉にさわれば、かぶれるのですから、子供はうかうか外で遊んでいられなかったのではと思います。
大人だってかぶれると思います。
だから、私のかってな推測ですが、思うように植林が進まなかったのも、農民たちが、植えたがらなかったからではないかと思ったのです。
話のすじとは関係ないことに興味をもったのです。
鷹山は、漆の実がどんなものかも知らなかったぐらいなので、かぶれることもしらなかったのではと思います。