魚沼の散歩道

魚沼での、無農薬での野菜作りと四季の変化を徒然にお知らせします。

七夕の思い出。

2011-07-07 22:39:31 | 思い出
今日は、七夕ですが、やっぱり雨です。
今の時期は、梅雨なのですから、当たり前です。
魚沼に住むようになってから、毎年曇りか雨のようです。
私の子供の頃は、七夕の二日ほど前に山からお祖父さんが竹を二本採って来ました。
その竹の枝に短冊にいろいろ兄弟で願いごとなどを書いたり、飾り物を作って飾ったものです。
楽しい行事でした。
その竹飾りを道に面した窓から飾りつけます。
道を歩くと、それぞれの家の飾り付けを見られるのも楽しみでした。
畑で取れた夏野菜などをお供えしました。
八月七日なので、毎年晴れて美しい星空が見られました。

魚沼では、あまり七夕の行事は、盛んではありません。
竹なども自生していません。

そんなことからか、我家では、何もしていませんでした。
旦那さまに聞いても、特に何もしたことがないと言いました。

それで、子供の小さい頃は、プラスチックの笹の葉に飾り物などを付けて、飾っていましたが、子供が大きくなってからは、いつの間にか止めていました。
そんなことで、今年も七夕らしいことは、何もしませんでした。

のんびりと過ごしたお正月と境港

2011-01-05 15:55:19 | 思い出
年末年始の雪は、予報が外れて魚沼には、あまり降らず仕舞いでした。
今日も晴れ。
クリスマスに降った雪も減って、50センチほどになりました。
降る所に降らず、山陰地方に降った雪害は、大変なことになっています。
この当たりなら、雪に備えた作りなので、被害はなかったろうと思います。
水木しげるさんの故郷の境港も漁船が雪の重みで沢山沈没しています。
水木ロードの鬼太郎たち妖怪も雪に埋もれたのかしら?
一度行った処のことは、人事でなく気になります。

昨年は、「ゲゲゲの女房」が大ヒットしました。
そのことで、記事を書きたいと思っていましたが、なかなか時間が取れませんでした。
雪が降り暇になったので、感想などを書いて見たいと思います。

境港に旅行して、もう四年も経ってしまいました。
四年前でも、沢山の観光客が居て、びっくりしたけれど、昨年は、「ゲゲゲの女房」でさらに観光客が増えたのではと思います。
その後も、娘の水木さんへの思いは、冷めることなく、続いています。
私の子供の頃に「ゲゲゲの鬼太郎」はテレビで放映されていましたが、私は、妖怪や幽霊などは、あまり好きではなかったので、あまり見なかったし、読みませんでした。
娘が、小学校の頃から水木ファンになったのが、不思議でした。
でも昨年の「ゲゲゲの女房」を観ていて、ようやく子供がファンになったのか、少しは理解出来ました。
そして、水木さんの漫画を毛嫌いし、子供たちに読ませないようにした母親たちの姿に自分も同じようだと思いました。
私は、無理やり子供から漫画を取り上げることまでは、しませんでしたが、どうして、あんな気味悪い漫画を読むのかと思っていました。
毎日、朝ドラを観ていて、面白く水木さんの漫画への真剣な情熱と奥さんの内助の功を知りました。
だからと言って、子供に勧められた「墓場鬼太郎」を読みたいとも思いません。
水木さんの悲惨な戦争体験なども、ドラマ化されて観ました。
そんなことから、人を外見で判断しては、いけないと頭では判っているつもりでも、実際は、そんなことをしている自分に気がつきました。
そして、そんな水木さんを尊敬し愛する我が娘を少し、見直した半年でした。
水木さんへの情熱の半分でも、勉強に向けて欲しいと思う母でした。

2007年に境港に行った時のブログです。
リンクが最初の記事の5月2日にしか行かないので、後は、2007年5月のカレンダーの3日、6日、7日、9日、17日と興味がありましたら、クリックして見て下さいね。


http://blog.goo.ne.jp/nori-3813/d/20070502
http://blog.goo.ne.jp/nori-3813/d/20070503
http://blog.goo.ne.jp/nori-3813/d/20070506
http://blog.goo.ne.jp/nori-3813/d/20070507
http://blog.goo.ne.jp/nori-3813/d/20070509
http://blog.goo.ne.jp/nori-3813/d/20070517


水木さんのお蔭で、寂れていた境港の商店街は、すっかり賑やかになり、毎年大勢の人たちが訪れています。
境港の例は、寂れた商店街を再生する良いお手本だと思いました。


故郷の偉人、正岡子規。

2009-12-03 14:54:36 | 思い出
昨日の「歴史秘話ヒストリア」は正岡子規でした。
先週から始まった、「坂の上の雲」でも子規が出ています。

私が、子規を知ったのは、小学校の修学旅行でした。
私が生まれたのは、愛媛でも南の端、南予(なんよ)です。
子規は、松山で中予(中予)です。
愛媛は、三つの地区に分かれています。
後、東予(とうよ)が香川に接しています。
南予は、宇和島藩で、伊達家でした。
中予の松山藩は、松平家でした。
藩の違いでかやっぱり気風が違っていたように思います。
修学旅行で松山見学で、お城に登ったり、県庁を見学したりしました。
そして、坊ちゃん列車はその頃は、公園の中に陳列されていました。
あまりにも小さな列車でビックリしました。
そして、愚陀仏庵?の建物を見学しました。
この時に初めて、正岡子規と夏目漱石の名前を知りました。
本好きでしたが、まだその頃は、二人とも知りませんでした。
そんな人たちがここで、しばらくの間暮らしていたのか?
松山を舞台にした「坊ちゃん」と言う本を夏目漱石が書いたのか?ぐらいでした。
でも、その時、この変な名前とこの有名な人たちのことが記憶されました。
その後、夏目漱石を「坊ちゃん」を読みましたが、あまり面白いとも思いませんでした。
それより、正岡子規の生き様がすごいなーと思いました。
結核で寝たきりになりながらも、俳句を作り続けたことに感銘しました。
いつか、もっと、子規のことを知りたいと思いながらもそのままでした。
同郷の夏井いつきさんの書かれた「子規365日」を母が送ってくれて、時々読んでいました。
母は、夏井さんが俳句の先生です。
そんな時に、子規の半生を知ることが出来ました。
大勢の友人の支えや励ましがあって、俳句を作り続けるエネルギーが続いたこと。
この番組を観て、夏目漱石との友情もさらに知ることが出来てとても感動しました。
お互いに切磋琢磨して、漱石も文豪になったこと、短い生涯でしたが、素晴らしい人でした。
これからの「坂の上の雲」も楽しみにしたいと思います。
追伸
今回、この記事を書く為に、愚陀仏庵のことを調べました。
すると、この建物は、戦災で焼けてしまい、再建されたそうです。
私が見たのは、再建される前の種物でした。
確かに、小さな家を見学したのですが、あれはいったい何の建物だったのでしょう?
昔の記憶なので、勘違いした?のでしょうか?

メーデーの日に思う。

2009-05-01 13:28:06 | 思い出
今日は、五月一日です。
今、新型インフルエンザで世界中でニュースです。
私も、ちょっと、心配なことがあり、久しぶりに病院に受診しました。
元同僚の人たちが、忙しく働いていました。

心配していた病気は、「異常なし」とのこと。

それまで、イロイロ心配していた気持ちはすっきりしました。

帰り道に車の中から見た青空を見て、急に思い出しました。

初めて、京都でメーデーに参加した時を・・・。
あれは、二条城の駐車場がメーデーの会場だったように思います。
やっぱり、暑くて、早く演説が終わって、デモ行進になったらいいのになんて思っていました。
白衣でのデモ行進でした。
府庁前には、蜷川府知事が居て、手を振ってくださったような?

あの頃も、看護婦の増員や医療の改悪を許さないなどをみんなで叫んでいたような。
今、医師も看護師も過労死寸前のような医療現場が日本中に広がり、その頃には、考えられなかった病院倒産も当たり前になってしまいました。

でも、やっぱり、病院が倒産するような政治がされるのは、間違っています。
今回、受診して、改めて、思いました。
医療は、安心を売るサービス業なのだと。

シバサクラがとてもきれいです。
これは、魚沼市の旧堀の内の根小屋にある公園です。
高速から見て、とてもきれいだったので、翌日ばあちゃんと行ってきました。



ここからは、越後三山がとてもきれいに見えます。
入場は無料です。

大内人形

2009-03-22 13:57:02 | 思い出
もうすぐ、三月も終わりです。
昨日は、いいお天気でしたが、今日は、雨曇りです。
25日の卒業式には、雪マークです。
体育館は、寒くていやだなーと思ってしまいます。
晴れて欲しいものです。

大内人形を紹介します。
この人形は、京都の姉から、何十年も前にお土産として、渡されたものです。
よく考えてみれば、姉たちの新婚旅行のお土産だったか?
姉の所には、私の所の人形の何倍かの大きなお人形が飾ってあります。
私のは、ピンポン玉ぐらいの小さなお雛様です。
でも、桐の小さな箱に入っていました。
姉が、「高かったよ。」と言いましたが、その頃は、何も知らず、「ふーん」
と思っただけでした。
でも、その後あちこちと引越しましたが、捨てるのも悪いと思い持っていました。
子供が生まれた後は、一緒に飾ったりしていました。
でも、今年は、飾るのを忘れていました。

岩手のともちゃんのブログでこの大内人形のことが紹介されていました。
そして、私も持っていることを思い出し、玄関に飾りました。
大内人形の紹介を見て、捨てないでよかったなーと思いました。
小さくても、お値段もいいので、びっくりです。



この写真が大体実物大の大きさです。
夫婦円満のお守りとして、これからは、大切にしたいと思います。

母方の祖父母、伯父。

2009-01-19 10:12:04 | 思い出
今日は、昨日と打って変わって雨です。
こんな時期に雨が降るとは、やっぱり温暖化でしょうか?

この写真は、母の兄、実家の跡取りが軍隊に昭和十九年に入営する前に記念に撮影したようです。
祖父と母、叔父が一緒に写っています。
伯父は、幸いなことに無事に帰ってきました。
母の実家は、村の中では、その頃は裕福な家だったようです。
昔から住んでいたので親戚の家も沢山ありました。
どの親戚の家も私の実家より立派でした。
子供の頃、思ったものです。

我が家が親戚の中では、一番貧乏で家も狭いと。

子供の頃は、よく遊びに行き、従兄弟たちとも遊びました。
我が家には、小学校になる頃まで、お風呂がなく、お風呂に入れてもらうためにも出かけていました。
五右衛門風呂でした。
祖父は、何故かベットが好きで、その頃ベットで寝ていました。
祖父は、子供たちが煩くしていても、怒ることもなく、ベットで寝ころがってみていました。
実家の祖父のようには、背も高くなく、恐くもありませんでした。
よく昭和天皇と同じ歳だと言っていました。
この写真は、叔父の結婚式の時の写真です。
お嫁さんと母と叔母と祖母です。
昭和30年代です。

祖母は、口やかましくて、実家の祖母ほど好きではありませんでした。
姑につかえ、商売は忙しく、子供は十人もいれば、大変で口やかましくもなると母が言っていましたが、確かに大変だったと思います。
こちらの祖母も実家の祖母とは違った苦労をしています。

戦後すぐに最愛の娘を若くして亡くしましたが、どちらも長生きで、八十を越して亡くなりました。

祖父(母の父)は商才があり、戦前には、人も使っていたようです。
煮干などの製造をしていたようです。
戦前は、魚も沢山取れて、順調だったようですが、戦争が始まり船の燃料なども手にはいらなくなって、上手くいかなくなったようです。
戦後は、沖で大型船が魚を取る様になり、沿岸では、魚が取れなくなりました。
それでも私が小さい頃もまだ細々と続けていました。
イワシを茹でて、浜に干して、煮干にしたり、メジカを茹でて干して削り節にしたりして売っていました。
兄たちも忙しい時には手伝ったりしていました。
しかし、魚も取れなくなってきて、止めたようです。

この写真は、昭和二十五年ぐらいだと思います。
商売が上手くいかなくなったので、伯父がオーストラリアに出稼ぎに出かける前に記念に撮ったようです。
祖父と伯父の妻子とまだ結婚前の叔母と何故か?父が一緒に写っています。

その後伯父は私が子供の頃には、由良半島に船で通って郵便配達をしていましたが、臨時のままで正社員にはなれなかったようです。
その後は、伯父たちは、真珠養殖の母貝作りをしています。

祖母のこと

2009-01-17 11:01:19 | 思い出
今日は朝から雪降りです。
こんな日は寒いです。
今日、収穫して新聞紙に包んでいたキャベツを雪の中に埋めました。
しばらくすれば、新鮮な甘いキャベツが食べられます。

祖母は、背が高く痩せていました。
髪の毛を長く伸ばしていましたが、後ろに小さく丸めてピンで留めていました。
この祖母と私は小学五年生まで一緒に寝ていました。
きっと、二歳違いの弟が生まれてから、ずーと一緒に寝ていたのではと思います。
小さい頃は、足はすぐ冷たくなるので、豆炭アンカを冬になると足元に入れてくれました。
でも、私は、ばあちゃんのあったかい足にくっつくのが好きでした。
ばあちゃんが冷たがるのが面白かったのです。
とても働きものでした。
畑仕事で忙しくても、孫たちのためにいろいろおやつを作ってくれました。
あまり叱られた記憶もありません。

こんな祖母でしたが、私は気に入らないことが一つありました。
それは弟のほうを可愛がることでした。
男尊女卑の考えでした。
子供の頃、よく思ったものです。
今度生まれる時は、男に生まれたいと。
村自体が男優先でした。
男女平等なんて、戦後になっても、まだこの村にはありませんでした。

華岡青洲の母のような姑だったようです。
何時までも父の世話を焼きたがりました。

こんな祖母なので、父が亡くなった後の嘆きは見ているほうが辛かったです。

この祖母を見て、親より先に死ぬことが最大の親不幸だと思いました。
それで、私は、子供心に絶対に親より先に死ぬものではないと決心しました。
祖母の人生は悲しい。
年を取ってから、最愛の息子に先立たれ、くどくどとうるさい酔っ払いくだをまく祖父の世話を喧嘩をしながらもしていました。
祖父が亡くなり、ようやく平安な日々になったようです。
その後は、私も家を出たので、あまり分かりませんが、
腰も曲がり、畑仕事も行けなくなると、編み物などしていたようです。
血圧が高く、脳梗塞などから、痴呆になり亡くなったようです。
明治の女は、結婚しか生きる道がなかったから、祖母のような人生になってしまったのかと思います。
辛抱と忍耐の明治の女です。
祖父も祖母も可哀そうな人生だったと思います。
お互い好きでもない相手と一生を共にし老いてからも仲良くできなかったのですから。

祖母の二番目の結婚相手は、その後村に戻り母の実家から嫁(母の叔母)をもらったのです。私の実家からもほんの近くの家でした。
親戚なので、普段から行き来をしていました。
その事実を母から教えてもらったのは、祖母が亡くなったあとでした。
その話を聞いて、若い頃の祖母の気持ちはどんなだったのだろうと思います。

祖母は、若い頃、もう少し、背が低くて、美人ならまた違った人生だったかもと思います。
祖母は、こんな悲しい辛いことを胸にしまって亡くなったのでした。
今は、同じお墓で仲良く眠っています。

祖父のこと

2009-01-16 23:33:45 | 思い出
祖父は、お酒を飲まない時は、ほとんど話さない人でした。
子供には恐い存在でした。
楽しみはお酒を飲む事でした。
日本酒でしたが、飲み始めると、ずーと飲んでいました。
一升ビン横に置き、コップ酒です。
酔っ払うと、人が変わります。
人の悪口、自分の息子(父のこと)への不平、不満をずーと言い続けます。
お酒のツマミ代わりに飲みながら、ぶつぶつと言い続けます。
そうして、体がお酒を受け付けなくなるまで、飲み続けます。
吐いた後、2週間ほどは飲まないで普通の生活をします。
そんな時は、畑に出かけて行きます。
農作業用の服を着て、足にはゲートルを巻き地下足袋を履いていました。
家にいる時は、着物を着て、下駄履きでした。
お酒がなくなると、農協に買いに行きました。
働いて貯めたお金はかなりあったようです。

私たちにも、お年玉として、その頃ですが、一万円もくれました。
まだ、聖徳太子を印刷していた頃です。
今でも、一万円と言えば、子供のお年玉としては大金です。

でも、いくら沢山あっても、何年も飲み続けていれば、だんだんお金も無くなってきます。
亡くなる頃には、ほとんど貯金も飲みつくしたようです。
父が亡くなった後は祖母が攻撃相手になりました。
好きでもないのに結婚したなど、昔のことを言います。
祖母も負けていません。
「イヤなら、結婚しなければよかったのに」と言い返していました。
私は、こんな祖父母の喧嘩を毎日見ていて、情けなく、辛い日々でした。
どうして、何十年も連れ添って、死ぬ前になって、こんな言い争いをしなくてはならないのかと思いました。

祖父の若い頃の写真を子供の頃一度見たことがありました。
老いた祖父とは、まったくの別人の男前の写真でした。
次のページには、若い女の人の写真が貼ってありました。
祖母にこの写真は誰か訊ねました。
「じいちゃんとじいちゃんの好きだった人だ」
と教えてくれました。
その後、その写真をまた見ようと捜しましたが、祖母が隠してしまったのか、見ることはありませんでした。
子供心に、年をとると人間、こんなにも変わってしまうものなのかと驚き、老いの残酷さ、はかなさを感じました。
祖父の人生はいったいなんだったのか?と思います。

祖父は、アルコール中毒になり、人格崩壊し私が高校生の時亡くなりました。

悲しさはなく、ようやく辛い毎日から開放されてホッとしました。

肉親が亡くなってもその死を悲しめなかったその頃の私でした。
今でも、祖父のことを思い出しても懐かしさはわきません。

祖父と祖母の結婚

2009-01-14 21:43:44 | 思い出
今日は、予報が外れて、良い天気でした。
明日から、また雪だなんていっています。
母に、修復した写真をアルバムにして、昨日送りました。
今日、もう届いたとの電話がありました。
郵便での小包も宅急便並みに、一日で愛媛に着く様になったのですねー。

この写真は、祖父母と父の兄弟と私の姉(長女)と従兄弟が写っています。
この写真に写っている女の子は小さい頃、私だと思っていましたが母から姉だと教えられてがっかりしたことを思い出します。
祖父が出稼ぎに出かける前に撮った記念写真のようです。

祖父は、身長が高く、百八十以上ありました。
祖母もやっぱり高くて、百七十ぐらいあったのではと思います。
そのため、その子供たちもみんな背が高かったのです。
男は二人、女は三人で、この写真には、長女が写っていません。
父の兄弟は、この写真に写っている伯母と叔母が健在です。
父も、百八十以上ありました。
弟は、さらに高く百九十近く、叔父が帰ってくると、天井につかえるようでした。
この叔父も大工をしていましたが、アスベストを吸ったことが原因で、病気になり亡くなりました。

祖母は、祖父とは、三度目の結婚でした。
一度目は、あんまり山の中に嫁にいったので、弟が可哀そうに思い連れて帰ってきた?そうです。
二度目は、同じ村の人でしたが、その相手が祖母がいやで、逃げ出して、アメリカに密航したそうです。
それで、三度目の相手に祖父が選ばれたそうです。
そのころ、実家は、村の中でも一番貧しい暮らしをしていたそうです。
何故かと言うと、明治になり高知のほうから流れてきた食い詰めた武士?が居ついたようです。
畑もないし、樽などを作っていたそうです。
祖母の実家は、村の有力者だったので、断りきれなかった?ようです。
祖父は、お金を稼ぐために、豪州(オーストラリア)に出稼ぎに出かけました。
数年ごとに帰ってきて、また出かけるの繰り返しだったようです。
だから、子供たちは、祖父に懐かなかったようです。
恐い人で、祖母を下駄で殴ったりしたこともあったようです。
そんな両親を見て育った父は、結婚した時に母に誓ったそうです。
絶対、お前を殴ったりしないと。
その約束は、ずっと守られたそうです。
祖父の出稼ぎは、私の小学校あたりまで、続きました。
幼児期に時々、祖父が送ってきた小包の記憶があります。
バター、チューインガム、練乳などその頃、村には売っていないような物が入っていました。
どんな仕事をしていたのかよくわからないのですが、
天然の真珠が入っている白蝶貝を採る船に乗っていたようです。
白蝶貝は、潜水服を着て、深海に潜って採ってこなくてはいけないのですが、
その潜水服にチューブで酸素を送る役目をしていたようです。
そうして稼いだお金で畑を買ったりしたようです。
祖父が出稼ぎに行かなくなってから、家族の団欒は無くなっていきました。

祖父は、お酒に溺れるようになりました。      続く。




父と母の結婚

2009-01-13 14:38:50 | 思い出
古い写真の思い出。
この写真は、両親と祖母、私たち子供が写っています。
残念なことは、すぐ上の姉が写っていないことです。
兄は、お祭りなので、相撲練りの半被を着て写っています。
私は、六歳ぐらいです。
写真に写るのが、恥ずかしかったことを思い出します。

子供の頃、私から見て、両親は、仲がいいとは思えませんでした。
母は、よく父の愚痴をこぼしていました。
子供心に父と母は好きでもないのに結婚したに違いないと思っていました。
昔のことだから、親に決められた結婚だったのだろうと。
父と母は従兄弟でした。同じ村に嫁いだ祖母同士が姉妹でした。

幼馴染で、口には出しませんが、お互いが好きで、結婚したいと思っていたようです。

母の姉には、親同士が決めた結婚相手がいたのでした。
しかし、姉が京都に嫁いでしまい、母がその相手と結婚しなくてはいけなくなったのでした。
昔は、親には、逆らえなかったようです。
しかたなく母は、結婚しましたが、数ヶ月で帰ってきたそうです。
離婚した相手の人にも、結婚前に、やっぱり好きな人がいたそうで、離婚した後、その相手の人も好きな人と再婚したそうです。

しばらくすると、父が結婚の申し込みに来たそうです。

父が亡くなってからですが、同僚だった人が話してくれました。
母が結婚しても、必ず帰ってくると信じて、毎日待っていたのだとお酒を飲んだ時に父が話していたと。
私は、この話を聞いて、うれしかったし、感動しました。
今は、父がどんな思いで、母を待っていたのかと考えると切なくなります。
父は、普段は、無口な人でした。
お酒が好きで飲むと陽気になり、飲んだ相手といろいろ話していました。
でも、私は、父とあまり話した記憶がありません。
中学の時に亡くなったのですが、もう少し、長生きしてくれていたらと残念に思っています。