のら猫の三文小説

のら猫が書いている、小説です。
質問があれば
gmailのnaosukikan
まで連絡ください

香奈とコシロの子供たち No.63

2013-07-31 00:09:06 | 香奈とコシロの子供たち


ジブトラストや冶部一族の会社は

安定化しつつあった。




マリアの子供の切人も、正子の孫で神太朗の子供である神一たち、神子の娘の神代たち、聖子の孫の羽朗や辺朗たち、菊子の菊太郎なども大きくなってきた。



ジブトラストは、正子が基本的に先物取引は止め、神子が先物と株式を統合して取引し、神之助が、商品相場や為替をしていた。カミカミファイナンシャルの当番制も二人の競争心をあおると言う事で止めていた。それぞれの運用上限を五千億と決めた。


その上神太朗もカミカミの利益の一部の長期的運用も担当していた。カミカミファイナンシャルは、各地のジブトラストの子会社の社員を兼任にし、世界のマーケットのある場所に子会社を作り、独自の口座を持ち、カミカミファイナンシャルの出資者が、出資金の範囲でそして運用上限が設定されたら、その範囲で自由に取引出来るようにした。三人とも二つの財布をもって、運用していった。それでも誰が儲けが多いかと云う事で競争するのは、やむを得なかった。逆に三人で競争して儲けだした。


神太朗ですら、長期的運用と云いながら、短期間で売ったりする事もあった。又異常な勢いで資産が増えていった。カミカミファイナンシャルは、運用するお金としては、ジブトラストに近づいていった。いつしかジブトラストのように、制約のある株式投資は控え目になり、長期的な投資と企業支援や起業の神太朗、先物と調整売買の神子と商品相場と為替の神之助と云うようになり、ジブトラストと同じようになった。もう一つのジブトラストへの道を進んでいた。


神太朗は、香奈の運営の方向性が優れていた事を再確認していた。カミカミファイナンシャルは、当初、正子が支援していた低価格な軽工業や食品とサービスから、アフリカ快適ホールディングに出資してから、基盤産業やホテル、病院などへの傾斜を強めていた。先物や商品相場への比重が多いファイナンシャルでもあった。



ジブトラストの運営は、まだ香奈が最終決定していた。ジブトラストは、現金の保有額、貴金属の保有そして、上場や非上場を問わず、株の保有は遙かに多かったが、先物を含めた株式取引や商品相場や為替で運用する金額は、全体としても、カミカミファイナンシャルとの差はあまりなくなっていた。ジブの子会社でも会社としての運用は、ヨーロッパのマリアチームを除き、なくなっていた。


子会社としての取引はあまりなく、子会社の取引担当がそれぞれ孫会社として取引し、その利益を貰っていた。子会社は、情報や長期保有について本体と連絡しながら調整しているだけだった。ただみんな高給だったので、金があり、情報が入るし、株屋の業からか、それぞれ自分の個人会社を作り、個人会社としての取引はしていた。それは自由だった。株式投資は、ジブトラストとして保有株式が増え、役員も出している子会社もあり、それなりの制約もあったが、それに触れない限り、ジブトラストとしては自由だった。ジブトラストは、香奈が好む基盤産業、金を含む貴金属そして不動産から、正子が好む食品やサービス業まで幅広い産業に出資していた。



香奈ファイナンシャルは、そんな取り決めもなく、香奈は、ジブトラストで得たお金の相当部分を香奈ファイナンシャルに出資し、自分でも投資し、香奈ファイナンシャルの年寄りハイテク工業団地まで作っていた。一族の若い人や高齢者の起業段階から、援助していっていた。ただ出資した企業が利益を上げ、配当も多く、資産規模は膨んでいった。香奈も暇になると色々と制約もあったが、株式投資もしていた。ボロ株を買い、売り飛ばし、一発倍増の機会があれば取引したくなる香奈だった。


ココも益々元気になり、時々香奈に、にゃーと鳴いた。マリアも、海外の香奈ファイナンシャルで先物を中心に積極的に運用していた。利益が増えればマリア財団への寄付も増えた。瑠璃や徹彦などの子供たちも、徹行などの孫たちもジブトラストからの配当も入り、余裕があれば、配当は貰えないものの香奈の事業継承の
資産継承の意味もあり、出資していった。自由気ままなファイナンシャルではあったが、香奈が次々と出資していったので、ハイテクと資源中心に保有株式も多かった。香奈は、長府や諏訪では、自分たちの管理会社も協力して、香奈ファイナンシャルも金を出して、不動産の再開発も進めていた。運用手数料も配当もない運用会社だった。出資額の調整もせず、国内では香奈が、海外では、マリアが自由に投資できた。



聖子ファイナンシャルは、その収入の多くは聖子の事業の利益に依存した収入と出資している企業からの配当からなるファイナンシャルであった。聖子の事業が急拡大していくにつれ、聖子ファイナンシャル自身も拡大していった。聖子は、海外中心に服飾から、農園、養殖、食品企業そして軽工業が主体であったが、カミカミフィナンシャルと共に重工業に、香奈オフィスと共に資源へと、快適グループは拡大していった。このファイナンシャルだけは、少しの配当と事業報告書を出した。



俊子は、ホテルと治部サービスと不動産を運営していたが、洋治と共に洋之助一族の各管理会社も管理していた。俊子は考えて、洋太郎や洋治などに別れていた上場株を洋之助会に集め、暇な洋治がお世話係になり、紡績や治部洋服、ホテルなどの非上場の会社の管理会社もそれぞれが保有する非上場の株式を半分程度出資して、新しく洋之助と美佳の会を作り、管理会社を統合する管理会社を作った。


洋之助と美佳の会は、個々の管理会社を統轄する管理会社となった。まだしぶとく紡績の会長に居座っていた洋太郎がお世話係になった。配当の分配などの雑務は、それぞれ尚子や綾子たちに管理の手伝いをさせていた。


洋之助の血筋は、二つの大きな管理会社に集約されていった。洋之助の血筋はこれらの大きな管理会社に出資していくだけで、少しは事業を継承するようにした。


しかし、カミカミは正子と洋太郎の血筋だけの管理会社で、聖子ファイナンシャルは、二郎と聖子の血筋であり、ユキエンタープライズは洋治と有希の血筋の会社であった。悦子にはエツコオフィス、有希や彩香には治部産婦人科小児病院もあり、和美には快適交易があり、禎子にはジブトレーディングなどがあった。これらは洋之助と美佳由来の非上場の会社とは異なり、それぞれの血筋が出資していっていた。際限なく広がる洋之助の身内の関係会社に細かく出資する事は大変になり、そのための管理会社の整理でもあった。



治部ホテルは海外も含め、数も増え、治部ホテル、エレガントホテルそしてニコニコホテルの3つのブランドも、ブランドイメージも固まり、治部ホテルズインターナショナルと云う運営統合会社を作り、俊子、悦子そして綾子が協議して、運営していった。


各ホテルも、ジブトラスト、カミカミファイナンシャルそして聖子ファイナンシャルなどの資本も入っていたので、統合して運営料を貰う事にしていた。治部サービスとニコニコサービスも、治部総合サービスと云う統合会社を作り、その二つの調整をして、そこには海外のホテル用の治部インターナショナルサービスにも入り、治部海外サービスとエレガントサービス、ニコニコ海外サービスに別れ、ブランドイメージに沿った備品の開発や運営をしていた。治部サービスは治部ホテルと付属する複合ビルのサービスに特化して、国内のニコニコサービスは、ホテル外部のサービス部門を全て引き継ぎ、乳幼児施設や協力する病院、赤ちゃんスキ不動産の賃貸住宅などのハウスクリーニングも含めて取り扱い、一番大きくなった。敷地内のジブトラストサービスは、ホテルやレストランも抱え、ジブトラスト付属の独自のサービス部門であった。海外ではそれぞれのホテルの中でサービス部門を抱える程度だった。



有希は、利益比例で有希個人に入り、洋治が有希名義で管理会社に出資したり、ジブトラストの前身の運用会社に出資したり、有希名義の預金としていたが、貢ぎ病が治った後は、有希個人名義で増資して、保有していた治部洋服の株も出資して、有希の貰う各種の配当や報酬を貯めて、有希の会社、ユキエンタープライズを作り、治部産婦人科小児病院に出資したり、寄付しながら、それ以降の配当や報酬もユキエンタープライズに出資していた。聖子が稼ぎだすと、貯めていたユキエンタープライズのお金も有効に使い、競争して有名ブランドハンターとなり、治部洋服への増資や治部洋服やジブトラストなどと共同出資して、ブランドを買い取る事に、お金を使っていった。そして収入が増えていった。子供の禎子、洋一郎と孫の尚子たちにも、少しずつ自分の個人会社であるユキエンタープライズに出資させていった。有希も流石に90才になると自分名義で貯めていくようになった。



治部洋服は、洋服事業を行い、直営店を持ち、そしてグッズや小物を扱っていたが、それ以外にも有名ブランドを数多く持つようになり、それぞれのブランド毎に独立していった。治部洋服と治部洋服の管理会社そして、各ブランドの事業会社と有希の個人会社であるユキエンタープライズが絡む複雑な企業体になっていた。中級品から高級品を揃え、経済が発展し、所得が増えてくると利益が上がる傾向もあった。


治部洋服や治部洋服の管理会社そしてユキエンタープライズは、それぞれの小物やグッズを製造する中小企業にも、ジブトラストと共同で、或いは独自に出資もしていた。発展し、拡大を続ける聖子の事業に対抗して紡績との協調を進めていた。尚子や夫の柿崎孝も、複数の企業に入り、管理していた。有希自身は、商会の役員にもなり、娘婿の雅也まで商会のトップに押し上げていたが、自前としての貿易網も禎子や信治のジブトレーディングも使っていた。ジブトレーディングは、北米中心の貿易ネットワークを作り上げ、商会と調整しながら、治部洋服や快適洋服などの実際的な輸出入を行う会社になって、貿易実務を中心にその業務を特化しつつあった。






恵は、真智子から預かったお店やビルを繁盛させ、若い時はお金も稼いだが、次第に財団や恵教としての活動に時間が取られた。それに真智子の財産の相続対策でお金が必要だった。香奈から借りたお金も、恵は実は気にしていた。夫の健次郎は次男だったが、いつの間にか、真智子の世話をして、ビルの管理も引き受けていた。


真智子も、財団で頑張っている恵を援助しようと恵にはジブトラストへの出資も少しは多くしていた。それに香奈の強制的な増資の時にも恵は増資に応じていた。そのため、恵は、真美や由香と相談しながらも、一家を取り仕切るようになっていた。ジブトラストの高額の配当も貯め、子供たちにもジブに出資させたが、それの配当も管理会社に貯めさしていた。


真智子の遺産の土地もマチコジブ記念不動産として集約して有効利用していたが、そのお金も貯めていた。息子の嫁の小夜は、ビルの管理会社に貯まっていた金を使い、ジブの助けも借り、大阪と福岡に商業ビルを作り、利益を上げだした。孫の嫁の菊子が、小夜たちと相談して、マチコジブ不動産のお金や各管理会社のお金も使い、ジブの助けも受け、複数のビルからなるジブタウンを作った。東京で高収益のビルを持つ事で、やがてはジブからの出資も返し、借金もせずに、ビルを整備する事が出来た。


菊子は、自分の事業を始め、主に小夜たちが、貸しビルだけでなく、ビル全体の運営をしていった。恵の考え方は浸透し、借金をせずに、ジブの配当も加え、手堅く運営していった。真智子と清彦の一家は、鉄鋼の管理会社と化していた真智子と清彦の管理会社以外に、健太郎と由香、そして健次郎と恵などの家族単位の管理会社を作り、マチコジブ記念不動産も含めて、それらの管理会社が出資しあって、ジブタウンを作っていた。ジブタウンを含め、多くのビルは、個々に独立しながらも、ビルの運営は、統合して運営するビルの総合運営会社である冶部ビル株式会社を作っていた。



恵自身は、娘の千恵夫婦と財団の運営にほぼ専念していった。千恵と友貴の子供の友一は安倍化学に入り、会社の金をチョロまかす事もなく、気が強い絵里と結婚して、敷地内に住んでいた。娘の千恵美は行き遅れにもならず、信じられない事に学者になり、教育心理学の先生になり、同じく心理学者の真部学と結婚して、暇があれば財団の相談室でカウンセリングをしていた。



菊子は、結果的に治部金属と云う大きな会社まで作ってしまったが、上場して、直ぐに妊娠した事もあって、会長にはなったが、ジブトラストとの兼任の赤川に運営も任せてしまった。菊子金属は、冶部金属の上場益も手にして、配当を出したものの、菊子金属にも相当お金を置き、菊子金属は、技術中心の会社となり、財務も楽になり、自由に研究して、香奈年寄りハイテク技術企業群の一角に入り、更に発展していった。



太朗もアフリカ快適ホールディングの社長を退き、ヨハネルを社長に、マルトを副社長にして、後を頼み副会長になり、名経営者として、惜しまれつつ社長を退いた。快適製鉄も世界のなんとかと云われる程大きくした。快適化学も傘下に多くの化学会社を抱える大きな会社にした。経営の実務は、ヨハネルが快適製鉄の社長になり、マルトが快適化学の社長になって、社内も握り、海外でも認められるようになっていた。ヨハネルやマルトは、農園や縫製工場を持った快適ギニアや快適エジプトの単体快適もそれぞれ率いながら、ジブギニアやジブエジプトの役員も兼ね、重工業を主体として、成長するアフリカを牽引していた。アフリカでは、快適とカミカミそしてジブトラストが一体となって多くの企業をネットワークを作っていた。アフリカの快適機械は現地の人を社長にして、日本の機械からも役員を出した。



商会、化学は、それぞれ大きくなり、一族の雅也や洋一郎が社長になったが、一族だからといって社長になれる会社ではなかった。
鉄鋼も真智子の夫の信彦は社長になったが、それ以来役員にはなるが、社長にはならなかった。会社として時代に沿った優秀な人を社長にしてきた。それだけに、曲折はあるものの、発展していた。



資源開発は、徹は中東依存を高め、それが利益率を高め、高収益な企業になったが、それが企業の足かせになり、徹自身も危惧して、資源の多角化を研究していた。徹彦は徹とは違い、そこまでの指導性はなかった。



機械は大きくなり、上場してからも合併や吸収をしていったが、基本的にはファミリー企業であり、功一郎の血筋を中心に一族の人を育て、外部の優秀な人を入れる事で企業を守っていた。和子以降の国際担当も技術屋の勝や勝彦そして勝彦の子供の勝一と続いていた。



貴金属やカズコウォッチは、完全な家族企業として、和子の血筋で固めていた。紡績は、洋之助の血筋が引き継ぎ、老舗として高品質の製品で、人や社会を愛し、人を育てる方針には、揺るぎようもなかった。子会社である化学や孫会社の治部レーヨンは、大きくなり上場していったが、発展する分野には、子会社や孫会社とともに出資し、紡績は大きな、一つの財産管理会社でもあった。



製薬は違っていた。大きな会社になり、一族の人を中心に引き継いでいきたい気持ちはあるが、それなりの人でないと難しく、友恵の後は、やはり、一族以外の人となった。ただ友恵は、高齢ではあったが、元気で影響力のある会長であった。



ジブトラストでは、正子は神子に先物もほとんど任せ、太朗とゆったりして、時々香奈と一緒に、神太朗から提案のあるジブトラストとしての支援や出資などに決定していくようになっていた。神一や神代も、法学部や経済学部に通いだしていた。





コメントを投稿