たすくの空中散歩

千葉県我孫子「石臼と麦」店主、相澤たすくの農作業や工作や
日々の一喜一憂を記録していきます。

無為自然<3>~心のキャンバス

2017年03月15日 17時57分24秒 | 一喜一憂

これまでの記事
無為自然<1>~草刈をしていて気づいた「時間」の話し
無為自然<2>~我ん張らない生き方

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子供が生まれた事は、実際とても劇的で、と同時に耕作面積も5倍近くに増えたので、まあとにかく時間的にも肉体的にも全然余裕がなくなりました。自分が自分のままではやっていけなくなるというか、やれるかやれないかを考えている余裕が無くなって、とにかくやるしかなくなりました。
減量中のボクサーは、最後には水が欲しくなるらしいのですが、人間、追い詰められるとこまで追い詰められて極限状態になると、本当に必要なものが見えてくるようです。
また、純粋無垢な赤ちゃんと一緒にいることで、大人になるにつれてまとってきた心のアカが、少しは剥がれたのかもしれません。


<無こそ有の源泉~固定観念の話>

いつだったか、とある番組に空手の達人が出ていて、「空手の極意は、何も持たないことにあるのでなく、何でも持てることにある」と言っていたのを聞いて、大変感銘を受けました。

同じように、生まれたばかりの心は無色透明なキャンバスのようなもので、もともと何の色もついてなければ何の絵も描いてありません。人はそこに、好きなように色をつけたり絵を描いたりできる自由を持って生まれてくるのです。
ところが大抵の人は、大人になるにつれて色に染まり、絵が増えてきた世界を、いつしか自分で自分に描いてきたものであることを忘れて、もとから描いてあったものであるかのような錯覚をしながら生きてしまいます。それが固定観念というものです。

同じものを食べて美味しいと感じる人もいれば、不味いと感じる人もいる。
それぞれの人の描く世界が違って当然なのに、それぞれに自分の描いた世界をこの世の正しい姿である、と固定観念を主張し合うことで、すれ違いや、いざこざが起きます。
実際、お互いにこのことを分かっている人同士だと、意見の「交換」が行われるだけで、「衝突」は起きないのです。
逆に、例えば、同じ宗教を信じる人同士は、同じ絵の世界を共有しているもの同士。
それこそ「自分たちの絵こそ絶対」と信じることを人生にしてしまっている場合が多いので、どうしても、他の絵に生きる人たちとは解り合えません。

本来の宗教、信仰とは、神様がいることを信じることではなく、神様のすること(与えられる運命)を信じ、受け入れ、委ねきること。
人類が全体としてそれに気づき、一人ひとりが自立、自信できる未来がいつか来たらと思います。


心は無色透明なキャンバス。
人はそこに、どんな絵を描くのも自由、そして消すことも自由です。

(無為自然編・完)


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無為自然<2>~我ん張らない生き方

2017年03月15日 17時35分19秒 | 一喜一憂

これまでの記事
無為自然<1>~草刈をしていて気づいた「時間」の話し

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とあるマーケティングの本によると、買い物の原理は無意識に寄るところがほとんどなのだそうです。
つまり、人はあれこれ考えて商品を選んでいるように見えるけど、実際は直感的、感覚的に商品を手にし、後付け的にその商品を手に取った理由を考えているのだそうです。
これはもちろん買い物に限った話しではありません。人の行動、生活の大部分が、動物だった頃の脳を使って、無意識的に生きているそうなのです。
確かに、車を運転するのに、次はアクセル、次はブレーキとか考えていたら天国へドライブしてしまいます。

自分で決めている、自分で動かしていると思っていたほとんどのことは、そう思い込んでいただけ。
で、あるならば、その思い込みを捨てて、人生を無意識の自分に、起きるがままにまかせてみたらどうなるのでしょうか?


<我ん張らない生き方>

「我を滅せ」「我を張るな」。
いろいろ分かっちゃってる人の言葉には、だいたい同じようにそう書いてあります。
でも、我を無くすってどういうことだろう?
と、あるときふと思いました。「頑張る」は「我ん張る」の意味に通ずるのではないか?
ということは、きっと頑張らない方がいいんだ!
…とまでは、なんとなく分かっていたのですが、頑張らないことと、怠けることの違いがよく分からず、つい頑張って無理をしてしまう自分がいました。

その心理の底にあったもの、それは、
「頑張れば頑張るほど未来は良くなるはず…。」
「常に頑張っていないと、将来への不安に覆われてしまいそうな気がして…。」
「常に頑張ってさえいれば、もしうまくいかなかった時に誰も責めないんじゃないか…。」
「人の目、親の目が気になって…。」

ところが、この度、その未来への不安、気にしていた世間の目自体が、心の生み出す妄想にすぎないことが分かってしまった!
頑張る必要が無くなってしまったのです!

で、これが面白いことに、肩の力を抜いて、頑張らないようになってから、あらゆることがスムーズに、うまくいくようになってしまったのです。
一体全体、何故頑張らないことで人生がうまくいくようになったのでしょうか?


<自ずから然るがままに>

学生の頃、修学旅行かなにかで、とあるめちゃめちゃ空いている遊園地に行って、同じジェットコースターに何回も乗った時、しがみつくより、手を離してバンザイして乗っている方が、実は怖くなくなることに皆で気づきました。
ジェットコースターに乗って恐怖を感じるように、人は思い通りにならない人生にイラ立ち、恐れを抱きます。

人生は思うようにならない
ならば思うことをやめてしまえばよいのです。
そうすれば、人生は思うようにならないようになりません。
予測し、期待をするから、その通りにならなかった時に気を落としてしまうのです。

例えるならば、人生は、子供が乗って遊ぶ、車のおもちゃみたいなもの。
お父さんに動かしてもらいながら、空のハンドルを切って遊んでいるだけなのです。
ところが、大人がこれに乗ると、なぜ自分の切った方向に曲がらないのかと、イライラ不満ばかり。
この空ハンドルを楽しむコツは、曲がった方向に自分の切るハンドルを合わせること。
そうすると、まるで自分が思い通りに動かしているような気分になれます。

これが、我ん張らなくなると、なぜ人生がうまくいくようになるのか、そのタネ明かしです。
うまくいくようになる、というより、うまくいっているように思うようになるのです。

我ん張らない生き方とは、人生を自分でコントロールしようとすることを、すっかり諦める生き方。

どのみち、どんなに綿密な人生計画を立てたところで、一寸先の未来に起こることすら、誰にも分りはしないのです。
決められたレールの上を走るコースターのように、将来に対する決定権が自分には無いことを理解し、今までしがみついてきた人生のハンドルと、不安、希望、成功、地位や名声、あらゆるものから手を離し、すべてを天に委ね、受け入れてしまいましょう。

そもそも、生まれてもどうせ死ぬのだから、どんなことを為(成)そうが、泣こうがわめこうが、人生そのものが大いなる無駄なのです。

自ずから然るがままに
自然な形で自分に与えられる仕事を精一杯こなし
自然な形で自分から離れていくものに執着をもたない。
貪ることなく、臆することなく、何を為(成)そうともせず
与えられる役目を文句言わずにこなしていけば
放っておいても、ものごとはなるようになっていく。
水が地形にそって流れ、やがて海へと辿り着くように
必要なものは、必要な時に手に入り
おさまるべきところにおさまっていく。

すべてが定まっていて
それ故に完全に自由であること
それ故に一切の無駄が無いこと
と同時に一切が無駄であること

その表裏一体なるこの世の矛盾を真理と体得し、
過去を思わず、未来を思わず
無念無心にこの世に身を委ねる時
人は意外な自分の正体に気づくかもしれません。


「幸と不幸、損か得か、また勝敗のことなど一切考えずに
 ただ義務なるが故に戦うならば、君は決して罪を負うことはない
 結果を期待せずに働くことによって、君はカルマ(*業=行為と結果の鎖)から開放されるのだ。
 君には定められた義務を行う権利はあるが、行為の結果についてはどうする権利もない
 自分が行為の起因(もと)で、自分が行為するとは考えるな
 アルジュナ(*主人公)よ、義務を忠実に行え
 そして成功と失敗を等しいものとみてあらゆる執着を捨てよ
 このような心の平静をヨーガと言うのだ」
~『バガヴァット・ギーター 訳:田中嫺玉(TAO LAB BOOKS)』より抜粋 *印はたすく注釈

(つづく…)

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無為自然<1>~草刈りをしていて気づいた「時間」の話し

2017年03月15日 10時19分26秒 | 一喜一憂

*この記事は、去年の夏に書きかけだったものです


前から読みたかった手塚治虫のブッダを読んでいて、裏表紙の言葉にグッときました。

「身分を決めたのは人間 
 身分で苦しむのも人間」

これは言葉を入れ替えれば、他にもいろんな使い方ができる!

「国境を決めたのは人間
 国境で苦しむのも人間」

「過去や未来を思うのは人間
 過去や未来を思って苦しむのも人間」

と、いうわけで、今回は『時間』について気づいたことをまとめてみました。


<草刈り苦行の果てに…>

目前には広大な農地。そこに広がる、刈っても刈っても生えてくる雑草。
永遠に続くのではないかとさえ思える、修行か苦行のような日々。
「終わらせよう」とか「あとどれくらいか」とか、そういうことを考えたらどっと疲れて終わる気がしなくなる。
それに加えて、農地取得にまつわるお役所の心無い対応への怒りを、いつまでも引きずっていた自分にもうんざり…。

そこで、去年の夏に身に着けた技をやってみました。
心が乱れた時は、「何も思わない」を一心に思うことによって、他の事を思う余地をなくしてしまうのです!

そこで、とあることに気づきました。
あれ?過去を思わなければ「過去の怒り」は消えるんだ。
というより、そもそも怒り、やイライラは「過去」があってはじめて成り立つもの?
おおっ、これは大発見!
じゃあ、未来を思わなければ…?…そうか!不安が消えるんだ!


なんとびっくり、様々なマイナス感情が、実は人が「時間」を思うことではじめて生まれるものだったのでした。
と、それ以前に、その「時間」自体も、人が思った時点で生まれる、便宜上の架空のものだったのでした。

と、いうことは…。科学的に空間は時間の別の形なので、ひょっとしたら「過去や未来=離れた時間」が幻なら「離れた空間」も幻なのでは?
…むむっ!これまた大発見!

人は自分の見ていないものの状態を、想像力で作り出すことによって、この「広い世界」が常に存在し、見ていない間も滞りなく活動しているように錯覚をすることができます。
でも実際には、自分の目の前で起きていること以外は、心のスクリーンに映し出される、全くのただの空想でしかなかったのです。

試しに、イライラしたときには、過去を思うことをやめてみて下さい。
不安にかられたときには、未来を思うことをやめてみて下さい。

そうして、今まで「時間を思うこと」に費やしていた時間を、今この瞬間の仕事をこなすことに集中させると、身も心も軽くなってどんどんはかどります。

変えようのない過去を思い起こしたところで、嫌な気になるだけの思い起こし損。
どうなるか分りもしないことや、実際どうなのか確かめようのないことを、あれこれ憶測しても時間の無駄。

過去や未来を思わず、『いまここ』に生きることができれば、赤ちゃんや動物のように、悩みも不安もない生き方ができるようになるのです。

(つづく…)
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