「ノナの家」nonahouseは かつこ内親王、かつこ内親王2の続きのブログです。

神様達の名前は、沢山出てきますが、宗教とは全く関係ありません。
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京都の旅 2日目 その4

2019-02-01 07:30:00 | 日記
京都の旅の2日目の朝に話していたのは、イワナガヒメとタマヨリヒメの後に、豊臣秀吉でした。


秀吉だ。
豊国神社に来てくれるのか?

はい。行こうと思います。
秀吉様は、今は菩薩界にいるのですか?

菩薩界にいるので、(神の)試験を受けているよ。
まだ、何年か掛かりそうだよ。
罪が深いからな。

何を持って行けばいいですか?

酒が欲しいかな?

何か銘柄指定はありますか?

飲んだら同じだからいいよ。

がんばって行きますね。

待っているよ。


秀吉は、ざっくばらんな感じですね。
豊国神社は、Iさんが行っていた山の上のお墓に行くのがいいのかとは思いますが、私は足が痛かったので、下の神社だけで、勘弁してもらいました。

🐷喫茶去(きっさこ)2


私達は、コンビニでお酒を買って向かいました。



時間は3時近くになっていました。



なんとなく、隣にある方広寺に行ってみると、中で説明を聞くことが出来るということで、せっかくだからということで3人で若いお坊さんのお話を聞きました。

私は、本当に歴史に疎いと感じていたのですが、さすがにミワンちゃんはよく知っていて、また勉強になりました。

ここのお寺にある大きな鐘楼の話ですね。





豊国秀吉の死後の話で、有名なことだったそうですが、私は知りませんでした。

🌟豊臣秀吉は天正14(1586年)に、焼損した東大寺大仏に代わる大仏の造立を発願。

大仏殿は鴨川東岸地区を南北に貫く大和大路に西面して建てられ、また大和大路の西側には秀吉の手により伏見街道も整備され、さらに秀吉は五條大橋を六条坊門に移し京外への出口とするとともに大仏への参詣の便とした。

当時の敷地は広大なもので、現在の方広寺、豊国神社から国立博物館西側に見られる巨大な石を積んだ石垣はかつての大仏殿の石垣であり、また三十三間堂南に遺る太閤塀(重文)や南大門(重文・秀頼が築造)も方広寺造営の一環として整備されたものである。

この時に造立された大仏は、東大寺の大仏より大きい6丈3尺(約19m)の大きさであったという。
また釘などは刀狩で没収した武器の再利用されたものも使われた。
なお、造営期間短縮のため、大仏は当初計画されていた銅造ではなく木造「漆膠(シツクヰ)」で造られた(『太閤記』)。
この大仏は完成の翌年の文禄5年(1596年)閏7月13日に発生した慶長伏見地震により倒壊した。


秀吉の死後に、豊臣秀頼はこの大仏を再興しようとしますが、火事になったりしてなかなか出来ず、やっと出来上がった時に、鐘楼の句が問題だということで、「大阪冬の陣」へと繋がっていったそうです。

このことは、徳川家康の言いがかりだと言われていますが、戦いの大義名分にしたかったのかもしれませんね。

鐘楼の白くなっている場所が、問題の箇所です。



私が、この写真を撮っている時に丁度いらした男性が、連れの方に、


これが、有名な鐘だな。


と、教えていたので、やっぱり常識的な話なのだと思い、今回覚えられて良かったです。

🌟「国家安康」「君臣豊楽」の句が徳川家康の家と康を分断し豊臣を君主とし、家康及び徳川家を冒瀆するものと看做され、大坂の陣による豊臣家滅亡を招いたとされる(方広寺鐘銘事件)。


私達は、この後にずっと気になっていた場所に行ってみることにしました。

これは、一昨年の夏にセナの神(ニギハヤヒ)が言っていた、


義経は、世話のかかる人だったが、良い人だったよ。
弁慶がいつも、世話をしていたからな。
かわいそうだったよ。
静(御前)も、愛していたからな。
白河に今もいるよ。
義経は、京都の白河にいるから、機会があったら行ったらいいよ。


私は「白河」なのか「白川」なのかわからなかったのですが、調べて「祇園白川」に行ってみることにして、方広寺からタクシーで向かいました。



時間は、3時半くらいになっていました。


続きます。
コメント
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