きみとのむミュスカデシュールリー

お酒はあんまり関係ありません あしからず

レンズを挟む

2008-03-13 01:11:44 | おもった
ホリーガーデン読んでから初めて思い至ったのは、誰かが撮る二人の写真より、二人が撮る互いの写真のがやばいんだなあということ。
やばい、というより、すごい濃密。
他者をさしはさんでない空間だからね

私は一時期写真の存在に懐疑的だったことがあります、というのは、二つ理由があるのだけど、そのうちの一つが、伝えたいものを伝えきれないんじゃないかなあということ。
四角におさめられた空間の外に、もっと世界が広がっていて、もっといえば匂いとか空気がある、そういうものを写真は絶対に伝えられなくて、それが伝えられないなら、人は感じてるものを写真を通して伝えることはできないと思ってたの。
ありのままのその空間を伝えられないことは、何も伝えられないのと同じだって。
あともう一つは、その瞬間が一瞬であるということ。人は生きてる時間が美しくて、そんな一瞬を永遠に引き延ばしたところで、何か意味はあるのか、と思ったの。

でも匂いも広さも時間も伝えられない写真が伝えることのできる空間は確かにあるんだよね。それはもちろんありのままではなくて、レンズを通しているのだけど、レンズを通して、人を通すからこそ、写真はただの風景じゃなくて、芸術になるのかな、と思う。そこに人の意思が絡むから。


最近携帯でよく写真を撮るのだけど、今一番撮りたいのは人だなあと思う。人のこと延延と撮り続けてみたい。というか、そういう写真集が見たい。
人をずっと撮ってると、撮る側の一方向のアプローチとしての写真でなく、とられる側の意思も含んだ、双方向の写真になるんでないか、と思う。
その空間を撮った写真集がすごく見てみたいんだけど、そういうアプローチってないのかな。でも恥ずかしいよな。出すのも見るのも。というか完結しちゃってるのかもしれない。二人の間で。

でもなんか年をとって写真に対して思い入れが変わったなあという話でした。
写真撮りたいなあ

片方が我慢してる二人の関係

2008-03-11 13:49:32 | おもった
私、一時期図書館のレファレンスコーナーで辞典とかみてるのがすごい好きだったときがあったんですが、そのときに見つけた世界のことわざ辞典で確か載ってたことばが「二人の友情は一人の努力によって成り立っている」みたいなかんじでございました
それみて、ああーどうしようと思った
ほんとにそうだったらどうしようって
なんか自分が居心地いいって思ってる時間が、相手にとってそうじゃないときってあるのかもなあって
自分の話して、自分はすっきりしてるかもしれないけど、相手は別にそうじゃないっていう

まあそれいったらキリないので、そんなに気にするもんじゃないと思うのですが、なんかふとした瞬間に考えてしまうのでした

活動

2008-03-11 13:39:53 | 好ましくない
なんか基本的に無気力な人間だなあと思います
積極的になることもあるんだけど、そのことに自覚的で、「ああー今自分頑張ってんな」と思ってしまう。
ということは頑張ってないときが標準モードなわけで、なかなか頑張り続けることって難しい
頑張る、っていうときっとニュアンスが違くて、動き続ける、とでも言ったらいいのか。
だから、すごい忙しいときにとる休暇で、遠出するっていう人を見るともういっそ神々しく見えます。休まなくていいんか!って。でも本人にしたらお休みってそういうものなのだろうなあ。
なんかそういう人になりたかったと思います。何かせずにはいられない感じ。
この前小説よんでたら、「臆さないで何でも食べちゃう人」っていう描写があって、もうまさしくそれだな、と思いました。
もう最近もの食べるのに躊躇しちゃうことがいっぱいある。
それがすごい悲しい。

でも基本的にほっといたら人は無気力になっちゃうものだとしたなら、私の無気力は単なる怠惰だなあと思います。
結局自分はこういう人間なんだから…っていって甘えてるだけなんだろ、と思う
動かなきゃ、ほんと

箪笥の奥で見てる

2008-03-11 13:28:43 | おもった
小学校の頃読んでトラウマになりそうだった漫画はてづかさんの「アドルフに告ぐ」だったなあーとふと思い出しました。
強姦?シーンみたいのが一番キました。あとはじめて人殺して吐いちゃうとこ。
うちのお父さんがそれを古本屋で買ってきたのだよね
で、確か家にお客さんが来てて、つまらないからって2階でそれ読んでたんだと思う。
怖いのに、でも読みきらないと半端に怖いのがかえって持続することになる…と思って頑張ってよんだ。
古本屋だからなんか本が黄ばんでて、しかも古臭いにおいがして、そのうえハードカバーで…その存在感のある感じが余計に怖かった。
気がついたらその本売られててほっとした。

存在だけで威圧感あるものが苦手だなと思います。
元気なときは平気でも、へこんだ時にそこにあると言い知れぬ恐怖を感じる気がする。
いまはそんなことないのかな。大きくなったしな。
でも相変わらずうちの本棚はギャグ漫画ばっかりで、私を少しもこわがらせないものばっかりしかいないなあと思います。


毎日の生活と自殺

2008-03-03 16:09:03 | 好ましくない
この前実家帰ったら、いろんなことを思い出した、
自分が中高生だったときのこと
あれはやっぱりしんどかったんじゃないかと思ってしまう、いま思うと
でも当時はあれがベストで、自分は幸せだ、ってずっと思ってたし、思おうとしてた
もちろん幸せなこともあったんだろうけどね
私はどうしても比較して幸せを考えるたちだから

なんかね、大学に入ったら本当に人って主観を通して物を見てるなあと思った。
当たり前なんだけどね。
でも、自分が客観だと思ってることすら主観を通してることだから、その習慣ていうフィルターさえ変えちゃえば世界は全く変わるんだよね、

そんなぽいぽい変えられるものじゃないのだけど、大学入って、人と出会って、私もどんどん楽観主義になって、いままで心配してたことなんて、ほんと自分の思い込みだったんだなあって気づいた。
思い込みというより、ほんと、ものの見方の一つだったんだなあって

私根本的に人とうまく付き合えない人なんだ、って思い込みがずっとあって、それが中高の時は常に付きまとってた。
あれは怖い。きっとそうじゃない、そんなんを信じた時点で確実にそうなってしまうんだから、そんなこと信じちゃだめだ、って必死に思うんだけど、その声が力なくて、気がついたら身の回りの全部がそれに侵食されちゃうの。
そうなると、人と話さなきゃ、と思うのに声が出なくなる。
うまく話せないと落ち込む、でその無限ループから、ずっと抜け出せなかった。
抜け出す方法も判らなかった。
ずっと頭の中が怯えてるの。お風呂入ると、湯気と一緒に心配が満ち満ちて、泣きそうな気持になったり、家族でご飯食べてて、家族はまさか自分がこんな気持ちになってるのなんて知らないんだろうな、って思ってまた泣きそうになったり、友達と移動教室のときにどのポジションにいたらいいのか迷ったり、自転車に乗りながら鬱になったり。

日常を変えるのってすごく厳しい。
日々ってなかなか変わらなくて、習慣になってしまった思考は、かなりの確率で自分を食っていく
そこから抜けちゃった人はね、ああ、ああすればいいのに、って思うんだけど、本人はまるでわからないんだよね。目隠し状態だよね。

この前友達の親戚が自殺したのね、
で、私どうしてそんなことしちゃうのかわからない、自殺をしてしまう人の気持ちがわからない、でも、きっと話をちゃんと聞いてくれる人がいなかったんだろうって思う、ってその子は言ってて
逆に私はその中高時代を思い出したの。
私は絶対自殺なんかできないけど、家族もいて、心配してくれる人がいたって、自分の主観ていうフィルターが曇ってると、ほんと何も見えないんだよねって
きっとその人は見えなくなっちゃったんだ、と思った

うちのお母さんは、自殺するなんて馬鹿だよ、ってよく言う
そうなんだよ、きっと馬鹿なんだし、お母さんは私に馬鹿って言ってくれるから、私は自殺することなんて馬鹿だって思える、
でもそういう外からの言葉は、ほんとに自殺しちゃう人には何の役にも立たないんだよ
ほんとにそういう人を助けられる言葉は、内からの言葉しかないんだって、ほんとにそう思う