きみとのむミュスカデシュールリー

お酒はあんまり関係ありません あしからず

うっそー

2008-07-12 18:36:19 | おもった
人を助けるために嘘をつくことは許されるか
という表題から始まる教科書の一節、キケロは嘘もまたよい場合があると、カントは「嘘も方便」的立場には反対だと、私は読みながら、おお、よくもまあこんなこと考えるよなあなどと、またいろんなことを考えておりました。

ノルウェイの森読んだ時、嘘をつかなきゃいけないことなんてほんとは何一つないんじゃないかな、っておもった記憶があります。
怖いのは事実より気持ちだ、と思う。
気持ちがそっぽむいてたら、いくら嘘で取り繕おうが、逆にいくらひとつも嘘をつかなかろうが、何の意味ももたない、と思う。
嘘かどうかが問題って言うより、気持ちがどっち向いて言ってる言葉か、っていうことの方が問題だ、とおもう。

○相手のためなら嘘もいい、ということについて
なんかふたつおもうことがある。嘘をつくときって多かれ少なかれひずみが出ると思うのです。私はさっきもいったけど、嘘をつかなきゃいけないような大したことなんて、この世にはないようなフワフワした気持ちで今はいるので、そういう観点から見ると、ひずみを生じさせてでも自分をよく見せたいだけなんじゃないの、っていう邪なものをその言葉に見てしまうのです。
あともうひとつ、いまはフワフワした気持ちで「別に嘘なんかついたってしょうがない」なんていっている私ですが、でももしかしたら痛烈に嘘をつきたくなる時が、きっと確実にあったのに私が勝手に忘れてるだけのような気がしないでもないので、とにかく、嘘は必要だ、と思う瞬間て、やっぱりあるきがするんだ。だって実際きもちのすり合わせは時間がかかるし、誤解を招きかねないし、傷つけたくない、ってきもちはやっぱりある。それが例え怠惰だとしても。
でも、そういうふうに、題目として、相手のためなら嘘ついていい、って言う言葉があるとすると、長い年月かけたときに、そのほんとのところを見失ってしまう気がする。いつか、「私はあなたのために嘘ついたのに」なんてことを、平気でいってしまえるような気がする。そんなのはいやだ。

○嘘はありかなしか
あと、その教科書でやった内容の嘘については、嘘をつくことはありかなしか、っていうのがやはり論理的にかかれていたのだけど、こういうのって、実際に嘘をつく状況を想定してやっているのだろうか、と思ってしまう。

ベタネタでも、あの人がやるとおもしろいのに、なんで自分がやるとこんなつまらないんだろう、ってことがあるじゃないですか。それはようするに提示の仕方の問題で、プレゼンテーションの問題で、そういうのが上手い下手で、現実に嘘をつかなかったあとの状況も変わってくる、確実に。それでもひとまとめにして、嘘はいいだとか悪いだとかいってしまうのは、ちょっと乱暴な気がした。結果はどうあれ、って言ったって、納得できないよ、と思ってしまう。ただそれを組み入れるやり方は知らない。

おわり。なんかおかしかったらごめんよ!

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